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「境界が付かない特性」と共存する第一歩(本当にどうだっていいシリーズ)

「みるくさん、何処まで私みるくさんと近づいていいのかわかんなくなるよ」

ディズニー帰りの客でごった返す舞浜のサイゼリアで、3歳年下の友達に言われた一言が衝撃的だった。

 彼女は、僕が、僕の元あいかたの身にあった出来事をなにかしら知る度、「じゃああの時何で僕が一声かけられなかったんだ」なんて考えこんだり思いこんだりしている僕の姿を見ていると、如何していいのか分からなくなるそうだ。あいつが不安定な事を僕自身の不安定と置き変えて、端的に言えば同一視と言うか鏡合わせの存在として僕があいつを見ている事についてもやもやする点があるそうで、

「みるくさんがそこまで悩んで病む必要はないでしょう。みるくさんは境界が見えてないよ。それはみるくさんに起こった話ではないんだよ。そんなことでみるくさんが苦しんでるの見ると、私も辛くなるよ。」と、僕は彼女にはっきり言われた。白ワインをオレンジジュースで割ったものを飲みながら、はっきり言われた。僕は炭酸水を吸いこんでいた。

 但し、此処までの主張は何処に行っても聞くし、少なからず僕が周りをそのように思わせている点があると自覚している。あいつの話になると、どこまでがあいつの責任で僕が傷つけられ、どこからが僕の僕自身の感情処理の下手くそさで傷ついているのか、相手と自分との距離がめちゃくちゃになる。全てあいつの所為に出来ればそれはそれで責任の所在は見えるし、「あの時に何も言えなかった自分」の所為にするならそれはそれで楽な部分もある。然し、そんな簡単な二極化で終わる話でもない。あいつが悪かったことあいつが勝手に傷ついた事に対しては「それは僕の所為じゃないし、だってそもそも僕はそこに居なかったし。」と線を引いているつもりだけれども、「僕の所為じゃない事は確かだけれども、こんな時に気の利いた言葉が出てこない自分」にまたもやもやしたりする事は多い。若しくは「それは確実に僕の所為じゃないから、残念ながら僕にその気持ちは全然分からない」事に対しても、溜息をつく事が多い。それを140文字以内1ツイートに纏めると、

「君が辛いと思う事が僕には全然わかんないのは至極当然のことだし、

君の辛さは君自身で蹴りつけなきゃいけないし、

それでも僕は君が辛いと思っている事がわからないことが辛くて、

そしてその辛さもまた、僕自身で解決すべき辛さ」 

こういうことだ。

「人はいつでもひとりであるし、感情の共有なんて出来ないから、自分自身で自分の感情には落とし前をつけろ」と言うのは僕の常々言っていることだ。僕の僕自身に対しての教訓であり、あいつにも事あるごとに呟く。だから僕は、僕自身の感情の落とし前の付け方が下手くそなことに悩んでおり、それはあいつの気持ちに対してぐちぐち悩んでいる「つもりはない」のだ。

・・・但し、この「つもりはない」と言うのが大きなところなんだと思う。「つもりはない」とかっこよく宣言しているのは、どうやら僕だけかもしれない。それを彼女は指摘してくれた。

みるくさんに私自身が近づきすぎたら、みるくさん、多分めっちゃ私の事で悩む。みるくさんが悩まなくていいことで悩むし、みるくさんがそのつもりなくても悩む。みるくさんは他者との境界付けるのが苦手な人で、全部自分の中に取り込んじゃう人。」

やはり「つもりはない」のは「つもりがなかっただけ」で、実際他者から見たら僕は「つもりがある」人、と言うかつもりもなにも「境界付けるのが苦手」なのは自分でも自覚していたはずだが、改めてずばっと言われると堪えるものが大きい。口に物を運ぶのも躊躇してしまい、注文したアイスティラミスはただ溶けて行く。勿論冒頭に挙げた一言で、僕は彼女の友達でいるにはしっかりしていなさすぎるから、何処まで近づいていいか分からないと言われたのかと思ったけれども、話を聞けば「彼女こそ僕を悩ませたくない」と言う裏打ちがあった事に僕の心はいたく震えた。僕の元あいかたに対する態度を垣間見ただけでそこまでの裏打ちを取ってこんな科白を吐く彼女は、一体何者なのか僕にはちょっとまだよく分からない。そして彼女はまた白ワインを追加注文して、「煙草吸ってくる」と言って席を立って行った。

 この一言を言われるより前の話を付け加えれば、僕こそ他人に正論を言われて怖気づく事は多い。「恋に恋している」だとか「物事を考え過ぎる」だとか「そんな男と一緒に居てもあなたが傷つくだけ」とか。そんなことは自覚しているし、言うだけ言って僕の内心を当てにくるような物言いをされるとただ腹が立つだけだ。当てた後のフォローの言葉なんてさしたものでもない。ただ、彼女の場合は当てるだけ当てて、散々に僕の気持ちを追いつめた後、僕が困った顔をして本音を出したところで、

 「知ってましたよ。みるくさんがそういうのも知ってた。計算してたごめんなさい。みるくさんがこれからどうしたいのかも知ってた。みるくさんは私が正論で追いつめてもそれを受け止める人だって思ってる。だから言うんだよ、私はみるくさんの事が好きだから。」

とさっとそう言った。

 そこまで僕が元あいかたに入れ込んでいる事実を見抜いたうえで、「入れ込み過ぎている=境界付けるのが苦手」 な事をキーに此処まで話を展開し、僕の事を泣かせ、そして「そんなみるくさんだから、私が悩んでいる姿見ても悩む」と言うところまで話を持ってきて着地させた。そこまで考えて当てられた事は無い。

 「そうだよ、めっちゃかっこ悪いけど、僕はまだ友達続けたいよあいつと、嫌いになんてなれないし、だけど境界付けられない自分がいるのは確か。いま言われたことは正論でしかないけど、でもすぐに答えは出ないから、待って。」

 頼りない僕の一言に僕自身も呆れかえるが、彼女は、

 「答えをすぐ出せって言ってないですよ。ずっと先まで経って、あのときの私の一言が、みるくさんのなかで引っ掛かる時がやってきて、ちょっとでも、こうちょっとでもなんかこうね、こう思う物があればって、思うだけです。」と答えた。はっきりと「みるくさんの為になって欲しいんです」とは言わなくて、そのあたりの言葉を選ぶ事が窮屈そうだった。

 そこまで計算をしたうえではっきりと物を言われたのはこれまでになかった。だから有難いと思う半面、境界の付かない自分との向き合い方についてのもやもやごとがまた増えた。先述しているし、何度も書いている事だが、僕は元あいかたはお互いを同一視しすぎている。同じ海の中で同じ呼吸をしている感覚がする。兄弟かはたまた双子か。然しいくら兄弟であれ双子であれ、産まれてしまえばあとはお互いに他人だ。もうちょっと相応しい線の引き方もあるだろうが、多分周りの人がやるように線を引く事は、僕には向かないのかもしれない。何せ元あいかた以外、目の前にいる彼女のことまで境界付けられないぐらいの人間だからね。そうやって、自分の特性をはっきり指摘されることは、「じゃあそれが貴方の弱みですので、境界付けられるように克服しましょう」と言われる事だけじゃない。「克服できなくて悩んでいるのなら、それと寄り添いながら生きる方法をちょっと探してみようか」と読み替えたっていいはずだ。最終的には「此処から此処までは自分、此処から先は知らないよ」の線引きがうまくなればいいと思うけれども、初めからその地点を狙って自分の気持ちをやりくりするのはハードルが高すぎる。最初、彼女に正論で指摘された時には、彼女の指摘をすべて受け入れ、すぐに実行しないといけないような気持ちに駆られた。だけれども、彼女はそんな事僕に課していない事は、何時間か考えて分かってきた。「何処まで近づいていいか分からなくなる」の要因はこう言うところにもあるのだろう。言われた事に全部応えようとしちゃって、苦しんでしまうところ。とか。

 「境界が付かない」特性と寄り添う方法はまだ全然見えない。まずは自覚をするところからだ。そしてとりあえず出来る範囲で文字に起こすことからだ。文字に起こせば、自分の内部のもやもやが、一応のこと形になって外に出る。その事でちょっとぐらいは自分の中にあるものを客観視する補助ぐらいにはなると思いたい。「距離を取る」を言う事に関して言えば、「自分の中の物と距離を取るために、物を書くと言う手段があるよ」と教えてくれた恩師の言葉を思い出す。自分と元あいかたとの距離がめちゃくちゃになるなら、まず今自分が何処に居て、相手が何処に居るかの現在地を書いて理解する事も1つの手段だ。それが自分にとって唯一無二の手段とは言わない。たった頼りない、1つの手段でしかない。所謂こんな「自己救済」の為だけの文章に、他人にとってどれだけの価値があるかなど考えられないし、こんな文章がバズる訳もない。バズる為の文章を徹底する元あいかたと、バズること度外視して筆をとる僕とは逆の方向を向いているが、もうバズりたいって思っちゃうこともまず「境界がめちゃくちゃになっている」事の1つだ。ずっと認めたくなかったけど。(商業文と小説エッセイはベクトルが真逆と言うのは僕も本で読んだ事があるが)別に僕は小説もエッセイも書きたい訳じゃないんだけども、やりたいやりたくない以前の問題に、「書くことはツールであること」を自覚したほうがいい。境界を付けるためのツール。自分の為の「ツール」であるのみだ。ただそのあたりに転がるものさしだ。「ものを測るために向いているものさし」なんてそれナンセンスじゃない?ものさしってもの測ること前提の道具でしょう?書くこともそれ前提のツールでしかないから、最小限の用途もこなせないツールにそれ以上の価値を求める事もナンセンスだ。

 「境界付けるのが苦手」

指摘された事柄を前向きに受け止めるためには、何処の時点から境界が付いていないのかをまず知ることから。そして何処までが自分の問題として考えられるのかの距離を測る。とりあえず、偉そうなことはそんなに言えないけれども、まずひとつ「書く・書きだす」と言う行為の起点が「あいつ」ではなく「僕」になったらいいのかなぁとぼんやり思う。

 この行為は、僕が僕の為に誰の影響も度外視して始めた行動なんです、と嘘でもいいから言い通せれば。あいつのフィルターを外して、僕のフィルターだけでこの行為を肯定出来ればいいのかもしれない。「ぐちゃぐちゃになってもちゃんと距離を測れるためのツールを備えているから安心してね」って、言えるようになればいいけれども、まだそこまでの見通ししか立たないし、それよりももっと肝心な物からも逃げている気がするんだ。

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