バストリオ「ストレンジャーたち/野生の日々」

VACANTという空間で行われた、バストリオ「ストレンジャーたち/野生の日々」。

この感想と小さな論考を書くために、noteを立ち上げたと言っても過言ではない。これは、この作品が素晴らしかったということを記述するための記事だからである。

バストリオの演劇は、演劇は何であるかを問うものであり、同時に演劇に対しての考え方、捉え方を問うものであると考えている。

今作についてもその問いは延長されていて、音楽と光と、そして今回は絵も融合されて、一つの空間が出来上がっていく。

多くのストレンジャーたち/人間によって構成される世界と、人間たち以外が存在する世界が混在して、たった一つの大きな世界の存在を出現させる。そのうちに、自分たち(人間)の知りえる世界は世界の限られた一部だったのだということの、外の世界の大きさを感じる。世界の存在の悲しさと、その大きさを知るのだ。

人間たちの世界から突き放されていく瞬間は、このように訪れる。駅の様子が撮影された写真が、スクリーンに照射される。そして役者の口から、「あちら側には駅と呼ばれる平たい建物がある…」というような、ひどく客観的な台詞が発せられる。そうするうことで、目の前の身体を見つめる観客の視点が、照射される画像を見つめる視点へと、急速に遠ざけられていくのを感じる。人間たちの生活する世界が、客観的なものへと変わっていく。そしてそのうちに、我々の知らぬ間に絶滅してしまった動物の画像と説明が同じように挟まれる。あくまでも客観性を維持されたまま表現されることで、自分たち(人間)の視点ではなく存在している世界があり、自分たち(人間)の知らぬところで世界は動いていっているのだという大きな視点を感じる。

その一方で、役者たちの名前の由来について語る台詞が含まれることで、「人間たち」という大きな括りであった存在が、一つの生を持つ人間であり、個として浮かび上がってくる。「人間たち」という大きな括りで表されていたものが、個人としての面を持つ時、その存在がとても身近なものに感じられ、その生命が自分たちにとって近しいものに感じられるのである。ある時は役者の個人的な体験が、こうして劇の中で混在することで、身近な生の存在を感じる。

バストリオの演劇にある、視点のクローズアップとロングショットが入り混じることで、目の前にいる人間と、その人間の存在する世界とが繋がっていく。照射される舞台美術、写真、テキスト、音、身体の動きといった舞台上の要素が、人間のその周りにある世界を広げていき、観客の視点も拡大していく。
しかし、あくまでもその視点の拡大と縮小は、観客の主観に対して行われるものであり、舞台装置や俳優によって強引に行われるわけではない。
観客の視点が切り替わることで、目の前の石は「ベルリンの壁の一部」としての意味を持たされたり、名もなき石にも変わる。舞台に置かれた小さな水槽は、ただの水から音や光を反響させる舞台装置にもなり、舞台に存在する水としての意味を持つ。

バストリオの作品は、様々な形のピースが作品の中に存在し、時に重なることで複合的な世界を構成させている。
思えば、「世界」を、人間の生きる周りを構成しているのは、身体的な要素だけではない。音、画像、聴覚的なものから視覚的なもので囲まれている。時折表示される「No image」の画像が、追いつけない人間の知覚であり、かつ、もはや「No image」という思考の処理、かつそれ自体が知覚であることを 感じさせる。

「人間を小さく考える必要はない。大きくも小さくもない、正確な大きさをつかまえなければならないということである。
だが、現在人間は大きく見積もられすぎているように思える。演劇の見積もりも、多くの場合大きすぎ、誤っているように思える。」

上記は太田省吾氏の『舞台の水』に収められている「人の大きさと劇」というテキストからの引用だ。
なぜこのことを思ったのか。それは、バストリオの演劇が、人間の大きさを世界に対して等しい大きさで捉えているように思えたためだ。音や光、画像や映像が大袈裟な演出に感じさせず、あくまでも観客の視点を拡大・縮小させるのは、身体、そして音や画像を等しく存在させることを可能にしているからであると思える。生の大きさを過大に晒すことなく、等身大の人間とその生を映し出している。
だからこそ、その私たちの観ている視点と、行われている上演とが自分自身の中で噛み合った時に、見えている・行われているものがとても眩しく感じられたり、とてもかけがえのないもの瞬間に見えるのだろう。

これまで観てきた「バストリオの野生」シリーズでは、音と身体との上演を行ってきていたが、それは時にぶつかり合い、戦いあうようなものだった。その音楽は、外的に体を歪めてしまうような時もあった。
しかし今回存在していた音は、柔らかく優しく存在していた。レコードの音、ギターの音、戦い合いぶつかり合うだけではなく、共に舞台上の大きな世界の中で、共存しているようだった。
「バストリオの野生」という連作の中で、身体と音とが組み合う中で、どちらも一つの世界の中で存在させるための試みが繰り返されていたのだろうと、過去の公演を観てきた中で思った。

「元とは、前の用途の死であり、詩を持っていると言う名残は、時間の深みを感じさせた。いわば、それらは<空間>と<場所>の混血種である」(太田省吾『舞台の水』「劇場は<場所>か<空間>か」)

この上演の会場であったVACANTという場所は、2019年いっぱいでクローズする場所であるとのことだった。死を迎えることがわかっている空間であったVACANTは、上記のテキストで述べるところの<場所>になるのだろう。そしてその所以が、この上演空間が終わりを迎えるということも、この作品の上演する「世界」に、また一つ違った様相を加えていた。
残念ながら私はここを初めて訪れたが、もし私自身がVACANTに訪れていたとしたら、それに加えて自身のVACANTに対する体験も含んだ過去の時間も重ねられることになるのだろうと思った。

バストリオを正確に(正しく、という言葉遣いは語弊を含むためあまり使いたくはないが)捉える言説というのは、まだないのだろうと思う。しかしながら、この表現に対し言葉を持って語ること、考え続けることが研究する者たちのすることなのだろう。


引用
大田省吾『舞台の水』
「人の大きさと劇」(p.182)
「劇場は<場所>か<空間>か」(p.66~67)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?