『モアザンワーズ』映像化のまえに/日常というわかりあえなさの寂しさ

*これは映像化された『モアザンワーズ』を一切確認していない状態で、漫画版『モアザンワーズ』ならびに『IN THE APARTMENT』について記したものになります。
*批評的な文章となるため、ストーリーに直接触れる内容を記載しています。ネタバレが嫌な方は避けてください。

日常というのは分かりあえないことの積み重ねなのかもしれない、ということを言われると胸を突かれるような思いになる。知らないでいられればよかった、と思う。
日常の中で、人と人とで関わるときに、わたしたちは他人と分かり合いたい、いやむしろ分かりあえている、と思い込んでいる。この分かり合えないことの契機の一つとして、愛情と恋愛の理解が入り込んでくると、より人との間に隔たりを感じさせることがある。

『モアザンワーズ』映像化のまえに / 日常というわかりあえなさの寂しさ

絵津鼓さんの作品を読むと共通して思うのは、完全にわかりあうことはできず、理想はうまくいかずに小さな傷を抱えて生きていく、ということだ。その作品たちの中でも、「モアザンワーズ」は恋愛を含む愛情によって分かり合えなさや孤独感が浮かび上がり、結末へと向かっていく。

『モアザンワーズ』は女性の(女子と呼ぶ方がより近しいかもしれないが)美枝子を主人公とし、美枝子の同級生の槙雄、二人が高校生の時に二人と同じバイト先の同僚となった永慈と言う男性二人を交えた三人の、お互いが出会い、そして大人になるにつれて三人の関係が揺らいでいき、やがてその関係が終わるまでの話である。

美枝子は愛情に乏しく育っている子供だ。美枝子の父は美枝子が幼い頃に家を出ていき、母は娘の美枝子に対して無関心である。美枝子は「女であること」と自身の愛されなさを重ね、自分をぞんざいに扱っている。
槙雄と永慈は、美枝子にとっては「男」というカテゴリには属さない人たちだった。美枝子には槙雄は「マッキー」でしかなく、永慈には「男」というものを感じなかった。
「男」ではないということは同時に、恋愛が伴わない関係ということでもある。「女」ということでなく、何も代償がなく関わり合える人たち、というのが美枝子にとっては欠けていたものだったのだと思える。それは永慈の妹の安寧や安寧の女友達の知佐にも同じく存在する。それは家族や親から与えられる無償の愛情に近い。

これもまた絵津鼓さんの作品に共通する特徴であるが、恋愛というものが、慈愛や親愛や、友愛と地続きに繋がっているものであるということだ。恋愛が独立した特別な感情ではなく、すべての愛情と繋がっている。『IN THE APARTMENT』で朝人が言う、「好きというよりいとしい」という言葉のとおり。
その愛情の中にある親愛のような情に対して、美枝子は居心地の良さを感じる。それは子どもの受ける愛情であって、無償のあたたかさを感じるものだ。その一方で、大人になれば今の愛情はきっと失われてしまうこと、愛情が恋愛に変わった時に、終わりを迎えることを恐れている。美枝子は互いに恋愛し、大人になっていく二人を見ると取り残されたような思いを時に感じ、寂しさを感じる。

美枝子に生じる取り残されていく、という感覚だが、それは大人になることや今のままの関係というのが壊されていくことの寂しさとして美枝子の中には寄りかかる。家族に置いていかれて愛されないという感情も、しかしその愛というのが恋愛のことを指すのでなく、家族のような密接なようで離れていて、それでいても解けないようなつながりである。安寧たちによって美枝子が自分を愛せるようになっていくのも、家族のようなつながりの中で育まれていったものでもある。
ただ一方で、永慈には親の会社への就職、美枝子は認識していなくとも女性の持つ妊娠や出産などの大人にならざるをえない道筋が、槙雄には実はない。三人の中から槙雄が静かに取り残されているというかなしさを、しかし美枝子も永慈も理解できないために三人はうまくいかなくなっていく。

そして三人が大きく入れ違ってしまうのは、恋愛に対する違いが実は互いに生じていることによる、と思える。

実際のところ、恋愛の感情が強く根付いているのは槙雄で、永慈はむしろ恋愛という感情が強く存在していないように思える。美枝子は永慈よりもその傾向がより強く、自分の感情を理解する感情の中に、恋愛感情というものが明確に存在していない。
槙雄は恋愛感情の「好き」を重視していて、恋愛感情によって人間関係の因果を理解しようともする。三人の関係が壊れた原因を、槙雄は『IN THE APARTMENT』内で「美枝子が自分のことを好きだったから」と理解して朝人に説明するが、美枝子が槙雄のことを「恋愛感情として好き」であったとは単純に言えないことが、『モアザンワーズ』ではわかる。美枝子が三人の中で生まれた親愛に居心地の良さを感じたように、美枝子は父親と槙雄を重ね、親を愛しそして愛されたいという子供の抱く愛情だった。恋愛の含む欲望らしいものなどがほとんど見受けられないような愛情である。
しかし槙雄には「美枝子が自分のことを(恋愛感情として)好きになった」として理解することしかできない。愛情が地続きに存在することを槙雄は理解できないので、朝人の言う「好きというよりいとしい」という最大限の愛の言葉を受け取れない。

他人の持ち得る感情をすべて自分が理解することはできず、自分の持ち得る感情の中から照らし合わせようとする、ことが起こり、それがすれ違いやひび割れを生んでいる。この分かり合えなさはきっと、美枝子と永慈が『IN THE APARTMENT』で槙雄と再会し、三人が「わかり合ったように見えた」話し合いを行っても、きっと完全に理解しあうことはなく続いていくのだろうという、うすら寂しさのようなものを漂わせている。

全体的に漂うやるせない寂しさ。この連作の中にも、絵津鼓さんの作品に漂うその寂しさが常に存在している。
三人があれだけ抵抗していたにも関わらず、永慈の父が望んだように、永慈は槙雄と別れ、永慈の血の繋がった子供を得ることに結局行き着いている。美枝子と母親についても、母親と同じく美枝子が母になることで、むしろ分かり合えない断絶が生まれる。(あくまでも「女」であり愛されることを当然としている母親に対して、愛されなかったと思い続けて「女」を拒否する美枝子は分かり合えず、美枝子が自分が女であるようにして可愛がられてもいいのだと思うようになるのは安寧をはじめとした他の女たちと出会ってからである。)
何もかもが大団円で終わるようなエンディングやストーリーは用意されていない。問題はすべて解消しない。やわらかいタッチで描かれる漫画に、この寂しさが加わわることで、淡々と「寂しさ」という事実が描かれる。

しかし『モアザンワーズ』やその他の絵津鼓さんの作品に共通することであるが、ストーリーはただ寂しく悲しいだけで終わらず、なぜか小さく希望が見えている。理想はうまくいかずに小さな傷を抱えて生きていく、しかし分かり合える範囲で互いを理解しあいながら関わっていく、という私たちが日常縋っている事実が、小さな希望として天井から蜘蛛の糸のように垂れ下がる。だから私たちはその希望を信じ、分かりあうために細い蜘蛛の糸を大事に引き寄せ合う。そういった心の寄せ方をすることで、寂しさや虚しさが残りつつも静かに救われる思いがある。

優しいような話なのに、うすら寂しさが漂っている。しかしわかりあうことの難しさの中で触れ合うことができる時に、かけがえのなさを感じる。そうした絵津鼓さんの作品の根本が描かれているのが『モアザンワーズ』であり、その小さな希望がどのように描かれるのかを、密かに祈りながら、映像化された作品を待つ。

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