見出し画像

「定年女子」番外編⑧

さてと、事業部解散私以外全員退職、そんな中、事務系業務の守備範囲の広さ?が幸いして別の部署に移動となった私、これがまた180度違う社風!?と組織だった。面接で黒歴史のように直近の部署の話は封殺されてしまった訳だけど、よもや同じタイトル、Sales Administrationという業務内容がこれほど真逆というか違うということには気づかなかった。多分それを事前に知らされていたら潔く辞めていた、かもしれない…
 彼らの部署内で公開していた組織図、それには…Typistと記載されていたのだ!おい、何十年前の話なんだ。これが1993年初秋のこと。
私が一番最初に仕事を始めた1980年のアメリカ企業でさえCleark Typistだったのに…その組織図、その名称、を発見した時はさすがに衝撃だった。
 当時会社はそれまでの個別会社から一つの組織への移行する過渡期で、それまで独立した会社が事業部門となったばかりだった。そんなこんなそれぞれの事業部門は全くと言ってよいほど違う社風というか伝統というか慣習というか、そういうものが残っていた。この部署に移動する前に本社総務系への移動話があったのだけれど、その時は始業時間15分前に必ず出社!という話を聴き、それは出勤時間が8時45分ということか?と聞いたら、いや出勤時間は9時だがその15分前に来ることになっていると…今でいえばサービス残業的な?
さすがに子育て真っ盛りの私、ましてや都心まで、任意で時折ならまだしも必須だったら勤務時間にすべきでしょ!と正論言って断られたのだ。

 簡単に言えば、他に拾ってもらえる部署もなく、タイピスト上等!って気分で移動を受けて仕事がスタートした。それがまた何というか、当時まだテレックス!、時折ファックス、ノンカーボンとは言え、古い電動タイプライターで書類を打つという、明らかに出産退職前の企業より10年近く遅れていた。業務内容も指示されたものを指示された通りに、その後は8枚近い紙をそれぞれの部署に回し、ファイルし、終了~。
ましてや、扱っていたものは大型機械、一台売れば何千万から何億!、毎日見積もり依頼が来るわけもなく、海外取引先に連絡するのも時折で、ひとことでいえば暇!な部署だったのだ。
 そこで働き始めてひと月もたてば、これはまずいんじゃないの?ということが見えてくる。月次データは以前と同様に毎月届く、それを上長はさらっと見るだけで後はこちらに回ってくる=ファイリング!
そのデータを見れば、単月ではもちろん赤字垂れ流しだし、年間予算はどうなってるんだ?思えば…やばい?!前職の部署だけでなく、ここでもバブル終了の流れは届いていたのだ。
 そんなこんなひとり不安に思っていた10月頃、突然の通知が事業部内全員に届いた。

 まあ、この話はちょっと落ち着いたころしよう、どこまで書いてよいのか、ということもある。
はるか30年前とはいえ強烈な印象は未だ消えずに残っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?