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『才色兼備』はなぜ女性にのみ使われるのか〜『ミス東大』と『東大美女』図鑑と〜

今まで幾度となく書き始めては途中で筆を置いてきた(正しくはキーボードを打つ手を止めデータをとばしてきた)noteをついに書きあげました、にちこです。初めてなのでnoteを活かしきれてないかもです。許して。

ミスコンが終わってもう1ヶ月。まだ1ヶ月。

ぶっちゃけミスコン期間中より何倍も笑い泣いて悩んだその間にいろんな感情がわたしの中を通過して行きましたが、如何せんめまぐるしく、全てを書き留めることができなかったのが今一番の後悔です。

演者脚本を問わず、舞台をやっていた時から『感情が動くこと』に常に敏感でいるように努めそれを一番大切に扱ってきたのに、自分でも惜しいことをしたな、と思います。

ただ、一度にたくさんの感情が通過していくことでわけわからなくなったわたしの心情も、少し時が経つことで粒のある程度大きいものだけがフィルターに弾かれ残り少しずつ明快なものになり、今なら自分の手に負えるなと思える段階までようやくきて、そこからゆっくり筆を取り始めた、という今回の経験もこれはこれでよかったのではないかと思っています。
授業のノートと同じです。本当に必要なことを取りこぼさないことが大事なのであって、先生の発言を一字一句メモればいいというものではないのではないか、的な。情報過多の今の時代、取捨選択できるというのは必要なスキルなはずです。(圧倒的脱線)

改めまして、にちことは

これを読んでくださっている方々はわたしのプロフィールについてある程度知っている方ばかりだろうという前提のもと書いていますが(てめえのことなんか知るかよという方は西村若奈でググってください、個人情報がゴロゴロ出てきます)+αで前置きをつけておくと、わたしは性別を拗らせています。ちなみに途中でやめてしまったnoteはそれについて掘り下げたものだったのですが、あまりにも刺々しい文章になってしまったので放棄しました。わたしだって(これ以上)お世話になった母校をディスりたくはありません。ミスコン期間中だったのでビビっていたというのもあると思います。(わたしのことをよく知る友達の中にはわたしが炎上することをひたすら楽しみにしていたような奴もいて、その思い通りにはなりたくなかったのです)データは飛ばしてしまったのでもうありません。証拠隠滅。

話を戻します。わたしは性別を拗らせています。
わたしは10年間女子校で育ち、その間に演者として男女両方を経験し、脚本執筆を通して両方の立場から語る経験をしました。ミュージカルを一度諦めたわたしは男子校こと駿台御茶ノ水を経て男子校こと東大理系に進学し、女の子のみを取り上げる写真誌の男ばかりの編集部で女性初の編集長になり、男に負けないために得たその肩書きを前面に出してミスコンに出場しました。そしてグランプリをいただきました。
もう言ってることもやってることもめちゃくちゃです。もちろんこれらの各事象の間にはいろんな思い・心情の変化があったわけですが、この際それは置いておきます。いつかまたそこを掘り下げた文章を書く気になる時が来るかもしれませんが、とりまただ、先ほどの文からわたしが常にやたらと性別に執着した目線で物事を見ていることをわかっていただけたら十分です。

ようやく本題。『才色兼備』にわたしが思ったこと

わたしがグランプリをいただいた後、わたしの実感が追いつくよりも早く、速報としてミスコンの結果が様々な媒体で記事になりました。その時、『ミス東大』の枕言葉のようにこぞって使われたのが『才色兼備』でした。(友達や家族に、言葉から連想されるイメージとお前自身が似ても似つかないんやがと煽られ、やそれな、とわたし自身思ったことは公然の秘密です。)『才色兼備・ミス東大2018は西村若奈さん』などと見出しをつけられると、大きく取り上げていただいて素直に嬉しいという思いはもちろんありました。でもそこで終われないのがひねくれ代表・西村若奈です。

めちゃめちゃ客観視してみると、この見出しを書いた人がどこまで深く言葉を分解して考えていたかはわかりませんが、これは『馬から落馬する』どころか『馬から落ちて落馬した』レベルかもしれないのではないか、と思ったのです。つまり、才=東大、色=ミス、両方兼ね備えて『ミス東大』。うまく言葉を選べないのですが、これらの見出しに対してのわたしの感想は、代名詞だとしても結構短略的だな、というものでした。もはや情景反射のようなものではないか、と推察します。
そしてその結果として、間接的にとても重い何かを肩に乗せられた心地がしました。すなわち三段論法です。前途のように『才色兼備』=『ミス東大』、わたしにミス東大のタスキがかけられた瞬間に『ミス東大(2018)』=『西村若奈』となり、その結果として半ば強制的に『西村若奈は(=)才色兼備』ということになってしまったのです。

予期せず唐突に自分自身に付きまとうようになった才色兼備という言葉によってわたしは一週間ほど動けなくなりました。引きこもりの生活に突入し、(お得意の)思考をこねくり回すフェーズに入りました。
自分の力量を正確にわからないまま安直に東大を目指し始め、世間知らずなまま受験をし見当違いに少ない勉強量で当然のごとく不合格、なのにまだ自分のライバルを理解せず浪人、初めて周りのすごさに気づくも当日に発揮した驚異的な運の良さ(数学前の休み時間にたまたま見返した問題がそっくりそのまま出て+20点、理2最低点+5点で合格)で理2に滑り込み、結果(?)降年。そもそも東大を目指しだしたのだって、好きだけどそれだけだったミュージカルに見切りをつけるため。華やかな世界に自分が向いているなら、東大なんて逆張りをせずその当時の時点でそっちの道をしっかり選んでいたと思います。向いてないから手を引いたはずの表舞台、聞こえだけは勉強ができそうな肩書き。わたしは才色兼備ではなくて中途半端オブザイヤー2018だ、わたしは東大美女図鑑を作ってきて本物の才色兼備だって知っているはずなのに。

ミスコンも終わりコンプラもクソもこの際どうでもいいのでバンバン言いますが、わたしはめちゃめちゃ病み症です。しょっちゅう引きこもるしすぐメンブレが胃痛と頭痛になって出てきます。じゃあなんでそもそもそんなヒキニートなわたしがミスコンなんて出てしまったんだ、図鑑モデルだってやめたいやめたいと言いながらも編集部員としての立場確保のために続けてきただけなのに。出るにしたって団体の宣伝ですって言い切っちゃっている奴が勝っちゃダメだろ、団体からちゃんとしたふさわしいグランプリ出せよ。

最終的には、なんでわたしが勝ってしまったんだろう、勝ってしまってごめんなさい、まで行きました。(今は応援してくださった皆様と一緒にやってきた4人にめちゃめちゃ失礼な話だなと思います。ごめんなさい。)

ここでわたしは一つ大きなことに気がつきます。才色兼備、と言う言葉が安着に選ばれるシチュエーションは、決してミスコンに限ったことではありません。ここまで引っ張るほどの話ではありませんが、『東大美女』も『ミス東大』と同じ方式で、才色兼備とイコールで結べてしまうのです。

そこでわたしはようやく、私たちは意図せずにして、東大美女図鑑のモデルたちが社会から『才色兼備』という色眼鏡越しに見られてしまうような状況を作ってしまっているのかもしれない、と気づいて、そしてものすごく怖くなりました。それは圧倒的に本意ではないからです。

でも、そもそも。ここからが言いたいこと。

そもそも、題名に書いた通り、なぜ才色兼備は女性にのみ使われるのでしょうか。この四字熟語のどこに女の意味が含まれているのか、わたしにはわかりません。

同じような話で、美人、という言葉があります。あくまで美しい人としか言ってないのに、美人東大生といえば女子学生に限定され、そしてまた安易に『才色兼備』という枕詞がつく。性別という概念、女という言葉を一切登場させずにして、それまでも示してしまうということが、当たり前のように起こっています。

わたしはそこが気になってしまう。
ミスター東大はどうなんだ、美しい人だし才と色を両方兼ね備えていると言えるだろ、と過激派にちこは思ってしまうのです。

別にわたしは、こういうこと自体に対して、性差別だとかどうとか言っているのではありません。どちらかといえばむしろ逆で、それらが全ての性を内包する言葉であれば、もしくは全ての性を内包した言葉が存在すれば、セクハラだとか性差別だとかの問題が少しは減るんじゃないの、と思っています。
でももっといえば、もともと、性差はあって当然だから分けて考えるのは場合によっては合理的だろうと思っているし、わたしは特別そういった問題に関心があるわけではありません。わたしはただこじらせているのです。こじらせているから、ただ単純に、すぐこういった観点でものを見てしまうし、気になってしまう。どうして『才色兼備』は女にしか使用されないのか。わたしはこれから自分の肩にかかってしまった才色兼備という襷とどう向き合っていけばいいのか。

わたしから見た、わたしにとっての東大美女図鑑

東大美女図鑑は、常に炎上予備軍層に存在しているコンテンツです。身内ですがはっきり言います。そんなことはわかっています。

セクハラパワハラ・男女参画(あえて親の世代に流行った言い方を使いますが)に多くの関心が寄せられ、素晴らしい意志を持った尊敬できる本物と同じくらいたくさんのファッションフェミニストがsns上に湧いている今の時代に、『美女』というなんとも危うい単語を前面に押し出しているんだから、当然です。おまけに、今何かと流行りの『東大』という言葉までついています。(東大に流行り廃りがあるのかはわかりませんが)叩いてくださいと言わんばかりのコンテンツ名。

そのぶんキャッチーで印象に残りやすいからいいのだ、と言うと炎上商法狙ってるだろ、となるのではっきりとそうは言いませんが(そういう側面をはっきりと否定もしませんけど)私たちは私たちなりに、愛着もありつつ、このコンテンツ名について考えも巡らせてきました。

そして東大美女図鑑創設から5年目に、その時たまたま編集長であったわたしが現行の編集部と意見交換をする中でたどり着いた一つの結論は、『東大美女図鑑』という六字の中で一番大事にしたい文字は『鑑』である、ということです。『東大』は、帰属先を示すただの位置情報。美にも女にも文字どおり以上の意味はありません。図鑑という単語に『人間をもの扱いしている、女性軽視だ』ということを言う人もたまにいますけど、そこまでいくともはやいちゃもんの域でしょう。新刊vol.10の巻末に書いた編集後記が全てを言い尽くしているので、読んでくださった方もいるとは思いますが、ここに再度載せておきたいと思います。

東大女子。
学内でも学外でも、まだまだ稀有な存在として扱われます。
しかしいくら少ないとはいえ、一学年に600人ほど。
彼女たちは、果たして『東大女子』の一言でくくれる存在でしょうか。
ある種の偏見を含んだその言葉で、彼女たちの何パーセントくらいを表現できているでしょうか。
東大美女図鑑五年目。記念すべき10刊目。
私たちは、常に未来ある20歳前後の女子大学生の等身大を切り取ろうとしてきました。
東大美女図鑑も、彼女たちも、それ以上でも以下でもない存在です。
今までも、そしてこれからも。
Vol.10のテーマ『無色透明』
この節目の刊に向けて、私たちは今一度原点を見つめ直し、リブランディングを進めてきました。
これからも、今までのように、今まで以上に。
無色透明なファインダー越しに、彼女たちの持つ、外見だけでなく知能だけでもない『美しさ』に正直に向き合い、
唯一無二で、同時にありふれた女子大生である彼女たちをまっすぐに発信していきます。
東大の女子率:19%。
この数字をどう捉えるかは人それぞれ。
私たちは、単にこの数字を引き上げたいわけではありません。
女子高生に、『鑑』にしたい女性を見つけて欲しい。
親近感の湧くロールモデルとして、東大を目指すきっかけにして欲しい。
東大美女図鑑モデルに自分を重ね合わせて、東大に進学した後の明るい未来を思い描いて欲しい。
特別ではない、一つの選択肢としてもっと東大を見て欲しい。
JKやその親御さんたちにとって魅力的な大学になれば、数字は自然についてくると思います。
東大美女図鑑は
世間から見た『東大』『東大女子』と、
実際のそれらとの間にある溝を埋める存在であり続けます。
東大美女図鑑vol.10 編集長   西村若奈

わたしが東大美女図鑑というコンテンツについて思っていること言いたいことは、これが全てです。
『東大美女図鑑』は、『才色兼備図鑑』では、ありません。

最後に。

わたしはフェミニストではない、ということだけは重ねて声を大にして言いたいと思います。男女平等とか、正直どうでもいい。だって根本的に作りが違うから。同じ、には永遠になれない。それでも対等にはなれる、としても、それはあやふやな基準の上に鎮座した、いくらでもケチのつけようのある対等です。
天から与えられたような性別とかこんなものは、最後にはこれが自分と割り切ってしまうしかないと、わたしは思っているし、だからこそ、割り切る方法をわたしは常に模索しているのです。

わたしはただひたすらに、性別をこじらせた落ちこぼれ女子大生(21)でしかありません。ずっと、男になりたい、男だったらわたしは、と思って生きてきました。でもそれはあくまで女の対義語としての男であって、隣の芝生は青いだけだというのもわかっています。わたしは多分、女であることが嫌なのではなく、男ではないこと・男にはなれないことに、人生の半分を損しているような謎の焦燥感を感じていて、それが嫌なだけなのではないかと、最近思うようになりました。来世があるなら今度は男に生まれてみたいです。

急に規模の大きい話にはなりますが、わたしの一つの大きな目標として、人生が終わるときに、女に生まれてよかった、と思えるといいな、というのがあります。
まあでもまだしばらくは、『ミス東大』『才色兼備』という肩書きのどこかに内包されている女に翻弄されて生きていくのだろうと思いますけど笑

まだまだ人生に迷っている21歳のにちこを、これからも見守ってくださる方がいたら嬉しいです。

↑※これらはあくまで個人の意見であって、団体の方針を必ずしも代弁するものではありません。もう引退するし。悪しからず。










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