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搾取の対象ではなく社会資源へ

こういう記事を見るたびに思うのは、だったら工場から市場へという社会資源化がなぜ進まないのだろうか?

矯正協会が単なる事業枠でルーティン化して抱え込んでいないか、という疑念です。

良い製品なんだったら勝負できる。なのに、そうなると今度は既存メーカーが圧力かけたり「刑務所の安物にしては、という意味だ」という差別的言動で急に買いたたこうとする。

トーヨコで女の子に「生中だしさせろ」と行って回っている性売買男たちと、まるで胴元のように紹介と称したピンハネをしている女衒のような輩達と同じニオイを感じるわけですわ。

これは二丁目もおなじカラクリ。GAYだと勘当された家出少年たちが「優しい」ヤクザに声かけられて売り専へ繋いでしのぎを与えていた、というのが二丁目の真相。斡旋してもらえない子は果敢にちゃんぽん屋の前でち○こを露出して「きょう僕お腹空いてるんでご飯たべさせてください」と言ったり、馴れてる子ルミエールの前、米屋の前で買ってくれるケチなオネエのを立ちん坊して待っていた。いつしかルミエール前の子を「ルミ子」、米屋の前の子を「ヨネ子」と呼ぶようになった。(おしゃぶり2000円、本番5000円が相場でしたわ)

相手が弱い自分たちが上だとみるやいなや急に施しを与えるような態度に変わるのが気にくわない。

トーヨコの女の子たちも、二丁目のウリセンの男の子たちも、元をただせばオトナに排除され、勘当されたりして追われ、男中心社会の性欲処理の道具=公衆便所=にされている被害者でしょ。


家庭崩壊と親の育児放棄・家族棄民の産物を、女性の自立問題にすり替えるなよって心底思う!行き場のない状態に子どもや若い人たちを追い詰めているのは、崩壊した家族環境や相談できない教師や親たちでしょうに。

搾取だといって裁く前に、不寛容で追い出し排除・追放した家族を世界人権宣言違反・子ども条約違反で厳罰化をするべきで、LGBT問題ではなくむしろ女性が男性中心社会の奴隷として自分たちに火の粉がかからないよう(家庭教育の怠慢だといわれたくがないために)子どもを放り出したわけだから。

そういう社会で「出来る子」「勝ち組」は30過ぎてもイタ電かけて追い打ちを気取っている。現実問題泣いて帰って赦しを乞うことは意地でもしないとおもったら、まあまあ家に泣いて帰る人たちの多いこと多いこと。逆にあたなたちの奔放な客地意識の狼藉で東京生まれ東京育ちの子らは30過ぎてもイタ電かけられ、アウティングされて生きているというのに。

ああいう地獄絵図を天国のように妄想している人たちを見ていると、ああ懲役の産物も結局搾取構造の中に埋もれている「ほどこし」「憐憫」の対象でしかないんだろうなあと。

さすがにクマの木彫りばかり作られるよりは生産性が高いんだろうけれどもね。


トーヨコの「ナマ」「中出し」と声がけして物色する男達(仁藤さんのTweetより)

そういう傷つけられている人たちへ寄り添おうとしている人たちを、アカの手先だのなんだの、揚げ句に

ピンクのバスをガリガリに傷つけて回ったのを勝ち誇ったように「利権だ」と本にして金儲けしている人たちが、あたかも女性のスペースを守っているかのように国会に招聘され発言し議員団の組織へと繋げたかのような茶番を感じる。


なにか、どこか、おかしくは、ないか。
「可哀想なLGBT」を冷笑してみせる森奈津子氏。

バイセクシュアルだからLGBT当事者だ、というのは狭義の言い方であって、どこかの属性にあったからといって「セクシュアルマイノリティの理解者」でもなんでもないし、「理解を増進」したところで「人権は待ったなし」で好き好んで対策を軽重つけるものでもない。そこまで成熟した民主主義社会であれば別だが周回遅れの現在一刻も早く手を打たねば「毎年3万人の自死選択者」に申し訳ないし、年に400人近くトランスジェンダーは自死に追い込まれている。さらなる抑圧に『お気の毒に」と冷笑できるような人間性は持ち合わせたくないものである。自分の性的属性にあったからといって幾らでも仲間を裏切ることだって可能な人たちに何を言ったって始まらないばかりかいつ自分達の仲間が見殺しにされるかわかったものではないじゃないか。バイセクシュアルがなぜ「世界の人権」目線で最も嘘つき呼ばわりをされ最終的に社会から軽蔑されやすい=「傷つけられやすい」立場を担うのかという証拠が森奈津子氏のような言動で世の中を巻き込んだ歴史があったからだ。他の属性を冷笑し、虐げることも辞することなく、同時に男性の力を借りてあたかも理解者集団を組織したようなポーズを取ることができるからだ。最も嘘つきが集まりやすいから意見を採り上げてもらえない=女性もバイセクシュアルも、GAYもトランスも、脆弱性を抱えていていつも虐めや無理解や押しつけがましい疎外に晒されているからウソにウソを重ねる人たちが出てきても不思議ではない環境なのだ。そうした脆弱性と苦悩を背負いながら仲間達への配慮もしながら矢面に立つ「痛さ」を分からない人たちに何をいったって分からない。だけれども理不尽を押しつけられやり場のない💢や憤りの仲でクチをつぐんだ経験のある人なら容易にくぐれる心情でもあるのだ。属性はそのぐらいのものであって、これこれこういうもの「である」というステロタイプではないのだ。
トランスジェンダーたちに「自分は女性だと言いさえすれば女性だと男性器をぶら下げた人間が現れる恐怖」というロジックを創造できたのも、もっとも女性が言われたくない言葉をあたかも女性の立場で述べたという立ち位置を誰に疑われることもなく確保できる立ち位置だからだ。属性詐欺とでも言うべき立ち回りを分業し、最後に滝本太郎のような「弁護士」の看板をつけた輩が登場して法律を盾にしたようにみせかける。恫喝の布陣というわけだ。弱い人たちは太刀打ちできない。


そういう振る舞いを小学校高学年ぐらいにすでに散見されているではないか。オトナ達の縮図として学校現場に現れて居るではないか。そして事なかれと立ち居振る舞う教師達の活躍する余地を残して追い詰めているではないか。「はい、握手!あーくーしゅ!」
一皮むけば「アタシより女らしいことが気にくわない」とか「アタシではなくあの子が仲がいいのが許せない」という自分中心に男子の腕力を使ってでも回そうとする輩が生まれた
ものである。それらを綺麗さっぱり忘れたようなふりをして、「女性は弱者」はないだろうに。
少し、論理が、なさすぎる。
だが、そういうポーズのような物言いに頼もしさを感じてなりふり構わず飛びついた人たちがターフという人たちだったりする。
最終的にはトランスジェンダーのような化け物を許せない、という論理では共通するわけだ。だが、どうだろう、トランスジェンダーの人たちの一部には精神を病んでしまった人もあるが、性的な成熟と共に現れる第二次性徴の違和感はシスジェンダーを生きてきた人間には気恥ずかしさや何やはあっても「あるべき姿」と徹頭徹尾応援されているのに、違和感を覚えるやいなや「精神異常」か「異端者」あるいは「家族にあらざるもの」と排除したのはどこの誰なんだろうか?ということをもう一回考え直して欲しいのだ。

その上で、家族だの家庭教育だの性教育だのという制度についても考え直してもらいたい。
世界の潮流から見れば、法整備や罰則規定を作ったところで世の中幸せにも平和にもならないからだ。

先日ジャニーズ事務所の性虐待問題で国連人権理事会から使者がやってきた。日本の政府機関は国連はNYにしかないような喧伝をするが、国連は安全保障理事会(軍事面)=NYと人権理事会(政策・理念・行政)=ジュネーブの両輪で走っている。で、世界の視点ではアメリカという超武力大国が牛耳っている安保理の話題しか流れてこない日本の報道そのものがすでに翼賛体制なわけだ。ジュネーブでは毎年のように日本の人権政策の遅れや問題は指摘されており、ジャニーズの問題をBBCがすっぱ抜いたおかげでやっと本体を送り込むことに成功した格好なのだ。水際作戦であったことをなかったことにしてきた。日本の政権はそういう立ち回りをして国民を騙したり目隠しをしてきた。可視化されてみると世界の周回遅れも良い政策状況がオンパレードだ。
いざジュネーブが動き出したとたん国連は世界の総意ではない、とか安倍元首相のあの言葉をちらりちらりと再現し始める。
「国際社会に良心なんてそもそもあるんですか」
国際社会に良心があるから、たかが芸能界の労働環境問題が日本社会の人権問題の象徴だと目されて査察にまで来たというのに。

そしてこのことは人権感覚が世界の周回遅れ、アジア近隣諸国のなかでも遅れていることに居直るような態度すら見せているではないか。
たとえば、欧州では戦敗国のドイツを含めて大学までの教育は無償化が完了している。法外な学費を払わせているのはイギリスとアメリカの私立大学だけで、アメリカの州立大学では(もちろんアイビーリーグなどとの教育格差はあることは認めたとしても)学費無償の学校だってある。やっと日本では民主党政権の時に「社会権条約凍結を廃止」したから学費無償化を「批准国の義務」として実現しなければならなくなり、自民党政権になってもまるで自分達が考案したかのように学費補助制度をしぶしぶ打ち出しているが、あんなものは70年代に方向性が決まってなければならなかった。安保にかこつけた階級闘争ごっこで(戦前共産党をはじめ労働者の権利としてやりたくてやりたくて仕方なかったところの)明け暮れてしまった。
留置場で殴り殺された同志を見て育った人たちだから仕方ないものの、という同情心は手伝いながら、ある講演で分かち合われた話題を紹介したい。
戦後デモ行進で逮捕拘束された共産主義者が留置場でご飯がでただけで安心してああ民主主義の時代になったんだなあと独房で涙をにじませていたら、隣の部屋に大勢入っている学生は「出される食事が冷たい」「味噌汁がない」とハッキリ文句をいっていた。前衛党活動家に酔っている自分を猛反省したものだと。弁当に感謝している場合ではなかったはずなのに、と述懐している。人権問題はあらゆる人たちに共通するものだから要求水準は下げてはいけないのである。

西日本新聞

https://www.nishinippon.co.jp/item/o/1110231/

産経新聞

https://www.sankei.com/article/20230724-P7TWX7QEOVKDJICH6RIZ2J37WQ/


そして、問題に関する報道について国連人権委員会が動いた、というニュースを地方ブロック新聞などが取り上げたものの全国紙がほとんど取り上げていないことも問題の根深さと深刻さを物語っているのだ。

最後にジェンダーイデオロギーなる概念を振り回している人たちがあるようだが、文学や芸術もイデオロギーである、と言っているような事と同等なわけで、イデオロギー=思想行為の総決算の反映=ということであれば十分イデオロギーだろうが、今日本で言い回されているような「トランスジェンダリズム」などの形而上学的な形式論理の「型」にはめるとあたかも説明がついたようなムードにさせられるが、曖昧概念を幾ら並べたところで「文化・思想行為の総決算が反映したもの=動的でつかみ取れないもの=」のようにフワフワさせているものを類型的な概念をはめ込んで酔いしれている事がどれだけ危険で人間を分断することか今一度考え直す必要があろうと思う。
思想行為を含んでいるとしたとして、各属性や生活環境といった「場面の条件」によって規定されるべきもの、つまり「プシコ・イデオロギー(個々人の=精神における刺激と反応=までをふくみ込んだ総てが反映したところの思想行動)」であり、それらの個別個体の事例に共通する過去から現在未来へ向けた方向性・展望といった俯瞰図=パースペクティブ=を視野にいれた概念でなければ「言い当てた」ことにならない。
性自認至上主義とか○○主義と名付けて酔っている人たちが、名付けた後「思考停止」そのままで対話し自分達の変えていくべき課題を述べる事無く自分以外の外側に制度や政策が出来れば良いと、市民社会・コミュニティづくりのイロハさえ見失った議論が横行することが何よりも悲しく、末期的であると言わざるを得ない。
手をつなごう、なのである。

(この項未完)

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