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裁きのブーメラン

裁きのブーメラン
ここに挙げるのは旧約聖書にある「エレミヤ書」である。
旧約聖書は世界戦争のおおもとになっているお騒がせな2つの宗教を形作る基本書でもある。

愚かで、心ない民よ、これを聞け。
目があっても、見えず
耳があっても、聞こえない民。
わたしを畏れ敬いもせず
わたしの前におののきもしないのかと
主は言われる。(エレミヤ書5・21-22)

エレミヤは偉そうに「主」の言葉を背中にさんざん人々を裁いてまわったわけだが、その実、彼は姦淫を犯してモーゼの十戒に背いた。オンナのビョーキがあったのである。
その自己憐憫と懺悔を延々と聖書のどんだけのページ数を使うんだという勢いなのが
「エレミヤの哀歌」である。
神の世界など紙の世界なのだ。問題は死の刻印のような戒律をさえやらかすのが人間というものだ。だれが人を裁くことができようか、である。人間の完全なる平等が必要なのだ。
エレミアは神の言葉をメッセージとして運ぶメッセンジャーだ。人や世の中を裁く担当者でもない。酔いの中に埋没したとき彼はおそらく、自分に向けられた神の意思を誤ったのだろう。その時に、自らの誇りは奢りとさえなり、自ら神の声を聞けない人間に成り下がっていることにも気づかない。
ブーメランの法則とは良く言ったものである。



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