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金具屋の歴史その3(大正~昭和初期1912-30頃)

大正時代に大きな動きとなったのが、長野鉄道(現・長野電鉄)の開業です。

これにより長野市(善光寺)から当町までの観光ルートが見込めるようになりました。特に国鉄からの乗り入れも可能になると、善光寺参拝の団体旅行がシームレスに町まで来ることができ、大きな強みとなりました。

下の画像は大正13年につくられた長野鉄道の路線図(予定図)の一部です。

大正13年長野鉄道路線図(一部を抜粋)

なにかおかしいと思いませんか?そう、現在の終点である湯田中駅から先が掲載されているのです。

実は元々、長野鉄道平穏線は信州中野から「渋・安代駅」までの予定でした。こちらのパンフレットにも大正14年秋に開通予定と記されています。しかし、湯田中地区の反対にあい、計画は中止に。工事も延期となり昭和2年に湯田中駅が終点として完成したのでした。これは幻の路線図というわけです。


さて少し時間を戻りまして、そのような鉄道網の整備に向け、金具屋でも大きな動きをおこします。まだ20代中頃であった六代目が、これからは観光旅行の時代になると、地元の宮大工をたくさん連れ、日本中の観光地を一緒に巡る旅に出ます。これは1か月半とも2か月とも言われていますが、とにかく「現在では考えられぬほどの豪遊(当時を知る関係者談)」であったそうです。おそらく鎌倉・箱根・京都・姫路あたりまで足を延ばし、そこで見て気に入った建築を宮大工に描きとらせ、新たな建物をつくる構想を練りました。同時に材料の為の山を買い、木造高層建築の実現に踏み出すのです。

建設中の臨仙閣 (左下の石積みは現在もそのまま)

昭和4年。堤防から突き出すように並べられた長い木材が見えますでしょうか。木造3階建金具屋別館「臨仙閣」の建築中の写真です。これらの木材はどう運んできたのでしょう。そう、これは川を使って運んでくるのです。すべて手作業。それだけでも気の遠くなるような話です。

金具屋別館臨仙閣

このようにして臨仙閣が完成。さまざまな建築をとりこんだ大変奇抜な建物になりました。これだけでも大変な工事ですが、この臨仙閣を基に、さらに一階増した、木造4階建の建設に踏み切るのです。


ちなみにこちらが臨仙閣完成後の渋温泉周辺の案内図。ほぼほぼ、現在の渋温泉に近い形になっています。よく見ると「タクシー」「自動車駐車場」があり、車での観光もはじまったのがわかります。

昭和初期 渋温泉絵地図

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