花が散り、花を感じる
この歳になって、自分が好きだと感じるものが少しずつ変化してきた気がする。
着る洋服
食べるもの
読んでいる本
"ひと昔前の自分"が、"今の自分"を見たら、そんなものが好きになったのか〜と驚くだろう。
ひと昔前の自分は、
着る洋服も、流行りに乗っかったものが多かったし
食べるものも、小学生が嫌いそうなものは全般食べれなかった。
読んでいる本も、ミステリーばかり読んでいて、
本を探すにいっても、ミステリーコーナーしか見てなかった。
それが歳を重ねた今の自分は、
自分に似合うような洋服をずっと着ていて、
ピーマンや茄子などを好んで食べるようになって、
生々しい深層心理が描かれている本を読んでいる。
自分の好きなもの自体は変わっていないけど、"大まかなもの"の中にある、"細やかなもの"は常に変わっている。
きっとこれを何年後かに読み返した時には、そんなものが好きだったのか〜と思うだろう。
*
歳を重ねるごとに好きだと思うものが変化している中で、個人的に意外なものを好きになったなと感じるのは、"手紙"と"花"である。
どちらもひと昔前まで、好きとは真反対の位置にいる存在だった。
手紙なんて、書くのめんどくさいし、用紙を買わないといけないし、伝えたいことがあるなら、直接話せばいいと思っていた。
花についても、すぐ枯れるし、花瓶買わないといけないし、プレゼントするなら、形として残るものを渡した方がいいと思っていた。
手紙読んで涙を流す人、花を渡されて喜んでいる人
今そう思っていないからこそ堂々と言えるが、その感情になることがあまりわからなかった。
このような書き方をしていることからわかるように、今は"手紙"と"花"どちらも好きなものとなっていて、何よりも素敵な贈り物だと思っている。
手紙については、あえて時間と労力をかけて相手に言葉を伝えることが、素敵であると以前記事にも書いたことがある。
そこの部分については変わらず、"自分の書く字"にこそ、伝わるものがあると思うし、"便利ではない手紙"にこそ、言葉の重みがあると今でも思っている。
そこに加えて最近思うことは、直接話して何か想いを伝えると、自分の伝えたいことが"高濃度"で相手に伝わらない時があると感じる。
というのも、ぼくは自分の想いを話す時、なるべく格好悪い部分を隠して、ダサくない部分の自分を話してしまうことが多々ある。(嘘とは違う)
たぶんこれはずっとそうなので、これからもずっとそうなのだと思う。
ただ、手紙となると自分がダサいと思っていることでも文章にすることができ、いい意味で"格好つけずに"想いを伝えることができる。
物理的に考えて、目の前には相手がいないということで、より素の自分というか、目線を気にせず、ゆっくりと本当に伝えたいことを伝えられる。
ついつい目線が気になってしまうぼくと、手紙の相性は限りなく良いのである。
花については、"時間とともに枯れてしまう"という花自体の特徴が素敵だと感じるようになった。
花が枯れるということは、最終的には"何も形に残らない"ということである。
これってどこか"四季"と似ている。
桜を見て、春を感じて
蝉の音を聞いて、夏を感じる。
紅葉を見て、秋を感じて、
雪を見て、冬を感じる。
どの瞬間も永遠ではなく、桜が散って春の終わりを感じたり、蝉の音が聞こえなくなって、夏の終わりを感じたりする。
何かが始まって、何かがなくなり、何かが終わるのを感じるように、
花をもらって、花が散って、花を感じる。
たとえ形として何も残らなくても、その花と一緒に過ごし感じた瞬間というのは、きっと花びらとして心の中に残ってくれると思う。
そんな気持ち。
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