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農業で起業した、28歳きみちゃんとアルくん7歳

アルくんに会った。

かわいい優しい目で線も細いが、女の子ではない。
短いくるくる毛だが、ラブラドールでもカーリーコーテッドでもない。
ゴールデンレトリバーの男の子、7歳。アルバ。
毛が短いのは、もともと短毛というわけではなく、くるくる癖毛で毛玉がひどく、やむなくカットしているそう。
短い巻き髪まで、いちいちかわいい。

アルくんは友人宅の看板犬だ。

友人は、最近、農業をはじめた。
28歳の、きみちゃん。

彼女とは、趣味のスキーを通じて知り合った。
趣味とはいっても、私たちのスキーは、ほんの少し、関わり方が度を超している。

日本のスキー界は主に2つの組織が牽引している。
通称、SAJとSIA。
SAJは、全日本スキー連盟の略。
オリンピックやワールドカップにスキー選手やコーチを派遣しているのも、この団体だ。
傘下には各都道府県のスキー連盟が属している。
都道府県の連盟は、スキー場でスキー学校を運営し、レッスンを開講し、級別テストを開催している。
指導者の育成も行う。
各都道府県の連盟はさらに、地域のスキークラブが加盟し、在籍するクラブ員で構成されている。
クラブ員は、連盟が主催する大会に参加したり、スクール活動を行なったりする。

きみちゃんと私も、大会に参加するスキーヤーだ。
指導者資格を持ち、彼女はさらに今年、地元スキー場のパトロール隊として頑張っていた。

私たちが挑戦するのは、スキー技術を競う大会。
プロだけでなく、仕事や家庭との両立ならぬ仕事と家庭とスキーの「三立」をこなすスキーヤーも多い。
都道府県の予選大会、地区ブロック大会を勝ち抜くと、全日本が待っている。
選手として挑戦を重ねるスキーヤーたちは、全日本出場を目指し、滑りを確認し合ったり、練習や遠征で切磋琢磨しながらスキーに向きあう。
よきライバルであり、それ以上に、苦楽を共有する大切な仲間だ。
10年も20年もそれ以上にも、一緒の時を過ごしていくので、性格もお互い丸裸だし、家族ぐるみのつきあいも多い。
冬の間じゅう顔をつきあわせる親戚が何十人もいる、そんな感覚だ。

きみちゃんも、親戚みたいなそのひとりだ。
特にきみちゃんのお家は、お父さんも、きみちゃんのお姉ちゃんもお兄ちゃんも、みんなスキーをやっている。

今年1月のある日、県連の役員をされているお父さんにいつものようにご挨拶すると、きみちゃんの話になった。
「あいつ、農業はじめたんだよ」

私は驚いた。
8年前、はじめてゲレンデで会ったきみちゃんは、お姉ちゃんの後ろで小さくほほ笑んでいるような、かわいらしい女の子だったからだ。

聞くと、お父さんの反対にも負けず、数年越しで準備して、自分の手で農業を始めたと言う。
あのかわいらしかった女の子に、そんな強い力が秘められていたのか。

私が数年前から怪我であまり滑れていなかったこともあり、きみちゃんに会うのは久しぶりだった。
会えたのは、県予選当日の大会バーン。
その滑りは、見違えるようにたくましくなっていた。
冬の間、スキー場のパトロール隊で鍛えたバランスで、苦手だったコブ斜面もなんなく滑り切り、全日本への切符を手にしていた。


そして、今日、農業家となった彼女に会いに行ってきた。

お家の横に、大きなビニールハウスが3つ。
ここがきみちゃんの仕事場だ。

ご自宅はもともと米農家を兼業で続けられていたそう。
今の担い手はお父さん。
しかし次がいない。
それなら私がやろうと思った、ときみちゃんは言う。

米作りだけじゃなく、野菜づくりもする。専業で。

24歳のときに決意し、会社員経験を4年間蓄積して、26歳で退職した。
農業を学ぶため、県が運営する園芸カレッジに1年半通った。
毎日車で片道1時間。
土をつくり野菜を育て、売ることを学んだ。

今、きみちゃんは、3つのハウスと、自分の名前のついたファームのオーナーだ。
看板犬は、アルくん。
毎日、きみちゃんとハウスに出勤し、パトロールを欠かさないという。私がハウスを見せてもらおうと歩き出したときも、アルくんがささっと前に出て案内してくれた。

もともと家業が兼業農家だったとはいえ、専業で、かつ野菜づくりの先輩は、今、きみちゃんのお家にはいない。
不安や心配はなかったのか。
きみちゃんは言った。

「大変さも、自分が本当にやっていけるのかも、やってみなければわからない。もしも3年やってみてダメだったとしても、まだ30ちょっと。巻き返せると思えば、やれる」

今まで彼女から聞いたどの言葉よりも、力強く、凛として澄み切っていた。


太陽と土と野菜と、アルくんと。
ストレスとは無縁の毎日だという。
農業を始めるまでは当たり前だったパソコンやスマホのある生活も、あまり欲しなくなったそう。

経営者として考えることはいっぱいあるが、毎日たのしいー。
生き生きと話していた。

きみちゃんのハウスの野菜には、ていねいな作業の跡がみえる。
等間隔に並んだ一株一株が、太陽にむかってのびのびと深呼吸しているようだった。

アルくんも、そんな野菜たちの間でこちらに向かい、誇らしげに尾を振っていた。


帰りがけ、採れたてのきゅうりをいただいた。
苦味がなくほんのり甘味を感じる、瑞々しく濃厚な美味しさが芯までつまった胡瓜だった。

勝負事を伴い、度を超えた向き合い方の中で鍛えられるせいか、特に女子スキー選手には、努力家で、少し負けん気の強い人間が多いように思う。
たくさんの収穫を経て、今日よりまた逞しくなっていくきみちゃんと、次の大会で会うのも、とても楽しみ。

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