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今の、自分の実力を認める

今、近所の公園でこれを書いている。

多分、大して有益な情報は書けない。

改めて読み直した時、「無意味〜。無意味なnoteを書いちまった〜」と思ったら消す。

しかし、なぜ、書いているかと言うと、書きたいから書いているのである。

近頃、苦しい時期を通っていた。

誰しも、あると思う。辛い時期が。

それで、一生この辛い時期が続くのかと思った。

冷静に考えれば、そんなこと、あるわけがない。

あるわけがないのだけれど、そう思った。

その時期、誰とも連絡を取り合わなかった。

しかし、ひょんなことから親友が連絡してきた。

変わらず私は親友にも、自分が辛いことを言えなかった。

ところが親友は(LINEなのに)、何かを察知して、言った。

「あのなぁ、辛い時期って、ある。

それを誰にも言えないこと、これもある。

だから、元気になったらでいいから連絡しろ。

いいか? 分かったな?」

私は、その瞬間は、何も感じなかった。

感じる心が死んでいたから、カジュアルに「ありがたいな」と思っただけだった。

しかし、その魔法の言葉は、後から効いた。

その言葉は無意識に、「元気になるまで生き延びろ」という裏どりをしてくれた。

元気になったら連絡しろということは、逆に言えば、元気になるまで生きなければいけないということである。

そのことを優しく諭され、まんまと親友の意図に絡め取られた私は、生きることがそれまでほんのちょっぴり辛かったけれど、そこからどうにか「あ、そうか。生きなきゃいけない」と思えた。

生きる、生きないということをカジュアルに言うことは、いつも憚られる。

しかし、私は、いつもそんなことを考えている。

自分に、ガッツがあることを知っている。

自分に、ある一定以上のポテンシャルがあることも知っている。

それすら信じられなくなったら終わりだと思いながら、いつも見えない壁をよじ登っている。

しかし、時には、「あ、もう、自分だけの自己流の考えだけでは無理〜」と感じる。

そういう時、アドラーとかニーチェの価値観、自己啓発、スピリチュアルの力を借りることもある。

それらは一瞬、私の心を赦してくれる。

長く、自分の心の糧になる知識もある。

だけど、最終的には、自分で決めなければいけない。

何事も。

私には、それが、苦しい。

しかし、今日の朝の光は特別美しく感じられる。

「あ、なんか、越えたな」

そう感じた。

何かが変わったわけでもないのに、いきなりそんなことを思う自分が、自分でも変だと思った。

しかし、もしかしたら、そういうものなのかもしれないと思った。

根性論でもなく、ロジックでもなく、人はある時、突然に躓き、しかし、突然に復活する生き物なのかもしれない。

知らんけど。

このnoteが、誰かの役に立つとは思わない。

そういう、「誰かのために論」は今回は控えたい(その概念は否定しない)。

けれども、私は、哲学的意味合いでも心理学的意味合いでも宗教的意味合いでもなく、なんとなく全ての物事は繋がってるように感じている。

だから、まぁ、こういう意味のないnoteを書くことにも、なんとなく意味があるように感じる。

もしも、これらの文章が目に留まり、そして何とも思わず過ぎ去った人がいたとしても、全然構わない。

余裕で「ごきげんよう。また、どこかで会えたら」と思うし、むしろ、そういうもんだと思う。

私は、あなたの幸せを祈る。

これを読んだあなたも、少しだけ私の幸せを祈ってね。

そしてまた、元気になったり、ならなかったりする中で、この意味がよくわからない人生の中で、再会しましょう。

それでは。

サポートをしていただきますと、生きる力がメキメキ湧いてきます。人生が頑張れます。サポートしてくれた方には、しれっと個別で御礼のご連絡をさせていただいております。今日も愛ある日々を。順調に、愛しています。