掟と真実 〜ガリレオ・ガリレイに捧ぐ〜 ①

一六三六年 フィレンツェ ガリレオ 72歳




いつの日からだろう。こうして、満天の星の下、


吸い込まれるようなこの限りなく透明な闇の中で、


ただひたすらに、全ての感覚を研ぎ澄ませ、


何かを考える訳ではなく、何かを思う訳でもなく、


宇宙(そら)の、そして闇のその先を、


ただ、そう、ただ見つめ続けるようになった日は。



そこに何かがあるような、そんな思いになったのは…。




イタリア、トスカーナ地方の都市、フィレンツェにある小高い丘の上から、満天の星を見上げる一人の老人が居た。

右手に杖を持ち、黒い衣装に白い髭をたくわえて、体こそ痩せ細っているが、眼光は気力に満ちたものである。


対象となるその人物がたとえ誰であったとしても、人の生涯を伝える時に、言葉によって多くを語る必要は無いだろう。

その人がどんな人生を送ってきたかは、ただ一目見れば、大抵は感じる事の出来るものだ。


しかし、この老人の人生を最も雄弁に語る事が出来るのは、人ではなく、この満天の星かもしれない…。



一五八一年 十月 ピサ ガリレオ 17歳

(鈍色(にびいろ)。灰色でも銀色でもない、透明感の無いこの色…)

うっとうしい小雨の夕方、行き付けの酒場の外に掃き捨てられている鼠の死骸を見て、ガリレオは頭の中で呟くのだった。


店に入り、いつものカウンターに腰掛け、ワインを飲む。高級なワインなどではない。安酒である。

美味である必要も無い。ただ酔えればそれで良かった。このバール、つまり飲み屋も褒められた場所ではない。いわゆる、場末の酒場である。

(人生を色に例えるというのはよく聞く話だが、俺の場合、この色だな…)店の隅でワインを煽り、一人自嘲する。

(何が分からないのかも分からない。何でこんなにも憂鬱なのか?何でこんなにつまらねえのか?酒を飲めば憂さが晴れるというが、本当に憂さが晴れるのか?飲めば飲むほど、虚しさが込み上げてくるのはどういう訳だ?)

隣のテーブルの男と女の笑い声が耳障りだ。身なりからして、貴族なのだろうが、こういう酒場で彼らがするのは、女を口説くだけだ。16世紀のフィレンツェ、ヴェネチアは世界有数の歓楽街である。一攫千金を夢見る女性、そして女に群がる男たち。

「フィレンツェ、ヴェネチアならまだ良い。ここはピサだぜ?こんな田舎に居る女なんてドブ臭えに決まってんだろ?」

自嘲気味に独り言を述べる。嫌でも会話が耳に入ってくる。

「君は他とは全然違うんだよ。君と一緒に居ると、新たな自分を発見出来る気がするんだ」

次から次に歯の浮くような台詞を決める男。言葉にうなずく女。腹の底では何を思っているのかといえば、互いに刹那的な事だけであるのは間違いないと批判的に考えつつ、ガリレオ自身も同じ場所に居るのだから、その一人と同類な訳で、彼らに文句を言うのは筋違いというものだ。

(しょぼいよなぁ…。俺を含めて)

強くなっていく雨音を聴きながら、ひたすら自嘲の言葉を頭の中で呟く。

酒場の扉が開き、

「遅えじゃねえかよ!何やってんだよ」

入ってきた男にガリレオは苛立ちをぶつけた。マルツェッロだ。マルことマルツェッロとは、幼馴染みである。フィレンツェでは近所に住んでいて、悪友ともいうべき存在だ。同じピサ大学に通っている。

マルツェッロは商家の金持ちの息子で、ガリレオのように貧しくはなかった。だが何故かお互い気が合って、何かする時には大抵彼と一緒だ。

「いや、悪い。授業の居残りでよ。政治学の課題が今一つだって教官に絞られてたんだよ」

申し訳無さそうでもあり、開き直ったようでもある態度でマルツェッロは答えた。

「お前みたいなのが政治学んでどうすんだよ?おめーが治める世の中なんざ、一気に崩壊してハルマゲドン突入だろ?神の大いなる日の戦争って奴だ!教師って奴は何で気付かないのかねぇ…」

そう言いながら、ガリレオはマルツェッロにワインを注ぐ。

「ハハハ、そう言うなよ、そんな俺だからこんな田舎の大学に居るんだからよ」

マルツェッロは注がれたワインを一気に飲んだ。

ガリレオは更にワインを注ぎながら、

「お前んとこの兄さん達はすげー秀才なのにな。お前だけどうしてこうなっちゃったのかねぇ…」

と、皮肉を続ける。

「バカヤロウ!そりゃー、お前のお陰じゃねえか!」

マルツェッロは、ワインのボトルが空になっているぞと、カウンターの女性に指で合図しながら、ガリレオに返答した。

仕方の無い会話をしながらも、マルツェッロと話していると確かに気が紛れる。彼と話していると、世の中の疑問や憂鬱な気持ちが、馬鹿馬鹿しく思えるのだ。お互いが似た者の気を感じ合っているのだろう。

全く他愛も無い会話や世間話をしながら、しばらくマルツェッロと酒を飲んでいたら隣のテーブルの女が、椅子を蹴って

「何でいつも、あんたはそんななのよ!もう二度と会わないわ!」

と、金切り声を上げた。

女は息巻いて、大降りになっている雨の中を出て行った。

「何だ?振られちゃったのか?」
マルツェッロはウエイターの持ってきたフリッタータを受け取りながら隣のテーブルの男に目をやった。

「そのようだな。大体さっきから話を聞いてりゃロクな事言ってねえんだよあいつ。振られた過去の女の話とか、何人と付き合ってどうのこうのとか…。
そして、自慢話しててもよ、自慢は全部親のやった事だぜ?面白くも何ともねえんだよね。お前本人は何をやったんだ?って聞いてて自然とムカついてくるぞ。
まあ、普通と思うよ、あの姉さんの反応は。普通するか?付き合ってる女の前で過去の女の自慢話とか。デリカシーってやつが無いんだよな」

ガリレオもフリッタータを口にしながら更に批判を続けた。

「君と一緒に居る事で新たな自分が発見出来る気がするんだってよ。居なくなっちゃったから新たな自分は発見出来なくなっちゃった訳な」

「いや、こういう結果になっちゃった自分は発見出来た訳よ」

マルツェッロもこの手の話は嫌いではない。面白がって批判は原型を留めないまでに酷くなっていく。

そんな嘲りにも似た話をしていたら、いきなり後ろからワインボトルで殴られた。話が聞かれていたようだ。

酒が回っていたので、その後はどうなったのか覚えていないが、マルツェッロと二人で店の外で四、五人の男と殴りあいになっていた事は覚えている。

相手はどうやら、振られた男の仲間のようだったが、「覚えてろよ!」と怒鳴ってたから、殴りあいには勝ったと思うが、もはやそんな事はどうでも良かった。

そして気が付けば、朝日を浴びて、血だらけの洋服のまま、体中激痛で、店の外の鼠の死骸の隣でびしょ濡れになってマルツェッロと一緒に寝ていた。

「ほら、マルツェッロ!帰るぞ!」

(…確かに俺の人生は鈍色だよな)ガリレオは呟いた。 


一五八二年 五月 ガリレオ 18歳

今日も大学に足が向かない。相変わらず憂鬱で、退屈な毎日を送っていた。

(さて、どうやって時間を潰そうかな」)

部屋に居るのも退屈なので、とりあえずは、下宿している叔父の部屋を出て思案する。大学に通う道の途中にピサを横断するように流れるアルノ川がある。夜は星を眺めるのが多かったが、大抵昼はアルノ川のほとりで昼寝をするのであった。
星空の広大さとはまた違う川の流れの雄大さ。これもガリレオが好きな光景の一つだ。特に夕日の差すアルノ川の流れは妙な美しさがある。澄んだ美しさは無いが、穏やかなのだ。川の流れを見つめ、時に無心に、時に考え、時に昼寝。

(親の薦めで医者になる為にピサ大学に入学したものの、やはり人間には、適性というものがあるよな。俺は医者には向いてねえ)

学問が深遠な事を探求するという意味では、問題や課題を掘り下げる深さに違いは無いものの、質という点では全く違うのだ。
幼い時から“どうして?”と周囲に尋ね続けた探求心の塊のようなガリレオだったが、大学の授業では“どうして?”の答えが、“過去の文献”なのだ。

“何々先生の文献にそうあるから、それが答えだ”全ての答えがこうなのだ。
しかも、この学問の結論は、観察によって万人に“こうである”という、明らかに分かるものではなく、“…であろうと思われる”という類のものだ。頭の中がスッキリしない。
“…であろうと思われる。”というのは、何なのだ?
どうしてそれが答えとして尊ばれるのだ?医学の授業を受ければ受けるほど、苛立ちが増し加わっていく。結果、日に日に苛立つ自分の存在が嫌になっていく。

(曖昧なんだよ。答えが)

落ちていた枯れた木の枝を小さくちぎりながら、川に向かって投げた。

(俺が知りたいのは、そんなヌルい事じゃ無いんだ。俺にとっての回答ってのは、広大な砂浜から一粒の砂粒を選ぶかのような、体中の神経を一点に集中させるような、あの感覚、ピリつくような、あの快感なんだ…)

手に持ってちぎっていた枝が、細い枝がなくなり全部太くてちぎれない枝になった。

(刃が丸い。鈍らだ。もっと鋭く、切れたのかどうなのかも分からないほどの鋭さで、俺の思う疑問や謎を切り裂いて欲しいんだ…)枝の残りを川に投げ入れた。すると、大きな魚が水面を跳ねた。

(流れに身を任せるとはいうが…)

「帰るか」

一言呟き、おもむろに立ち上がり、下宿部屋に帰る事にした。


毎日アルノ川のほとりに行く訳にもいかない。アルノ川で過ごす時間は確かに好きだったが、今日は授業を受ける事にした。古ぼけた校舎の入り口の所で、違う学部の生徒が話をしていた。

「今日の特別講師のオスティリオ・リッチ先生ってトスカーナ公国付数学教授なんだってよ?」

「だってな。どうやったらそんな存在に成れるんだろうな?特別な講師だぜ?全然わかんねーや」

彼らの会話を聞きながらガリレオには穿った考えが浮かんでくる。

(数学?公式あてはめて答え出すだけだろ?決められた答えを出すのがそんなに凄い事なのかね?)そうは思いながらも、特別講師というのがどれ程のものなのか?
という思いを満たしたい気持ちもあり、学部は違うがリッチ先生とやらの数学の授業を一度聴いてみたいと思った。

(発展性の無い医学の授業より少しはマシだろ?わざわざ特別講師として来てくれた訳だしな)

ガリレオは数学というのが今一つピンと来なかった。堅苦しいイメージがあって、融通が利かなくて、小うるさい。面倒なイメージしか想像出来なかった。


消極的な考えしか浮かばなかったが、そのまま普通に医学の授業を受けるのも癪だったので、リッチの授業が行われるという教室に入ってみた。流石に特別講師の授業である、多くの公聴生が居た。ガリレオは壁際の端の方で話を聴く事にした。

オスティリオ・リッチが現れた。温厚そうな、それでいて威厳のある人物に見えた。彼の立派な髭や黒尽くめの衣装がそう見せていたのかもしれない。

(いやいや、案外見掛け倒しって事もあるからな)

ガリレオは変わらず穿った目線でリッチを見ていた。


公聴生を一通り見回して、リッチは挨拶をする。そして、

「公式というのは決まった事な訳だ。これは何がどうなっても変わらない。そして公式で答えは一つしかない。それが数学における真実であり、事実だ」

開口一番こう言った。そしてリッチは横を向き教室の左端に向かって歩き始めた。

「君たちは、数学っていうのは、決まった公式だと思っているだろう。それは確かにそうなのだが」

生徒の方に向き直り、

「しかし、数学において本当に重要なのは、決められてしまった公式ではなく、実は仮説、未だ発見されていないもの、つまり発見されていないものを発見する力である想像力なのだ。そしてその想像して出来上がった形を、どうやって数字を用いて式に表せるか?それこそが重要なのだ」

更に少し間を置いて述べた。

「つまり、こう考える事は出来ないか?‘答えがあって、公式がある。公式など決められたものは、どうにでもなる’と」

リッチは自身の述べた言葉を証明する数学の実例式から、流れるように授業を進めていくのであった。そして、ガリレオは頭の中で呟いていた。

(公式が答えなのではなく、答えを公式によって…)

ガリレオは繰り返し頭の中で呟いた。そして、不思議と鈍色の箱の鍵がカチンと開くような感覚を感じた。思わず身を乗り出して話を聴いている自分がいる。そして何故か目の前に違う色が見え始めた。


(煙のような鈍色を抜けた…。紺?濃紺?黒?…。だが、この透明感は一体何だ?)

幻覚にも似たその感覚にガリレオは戸惑っていた。

(俺はどこかでこの色を見ている…。黒なんだが、どこまでも透き通った闇…)


不思議な感覚に包まれていると、現実に引き戻されるかのように、講義の最後にリッチが質問は無いか?と公聴生に尋ねた。ガリレオは躊躇無く挙手していた。

「先生、数学というのは結局何なのですか?」

ガリレオの質問は授業の内容に関係無い、あまりに漠然としていて単純な質問であった。その為、数人の生徒から嘲りとも思えるような失笑がおきた。だが、リッチは答えた。

「良い質問だ」

そして彼らの失笑を遮るように、

「だが、私にもその答えは分からない」

と述べた。意外な答えに生徒達は驚きをみせた。そして、こう続けた。

「皆も、幾何学精神という言葉を聞いた事があると思うがこれは、今日最初に話したように、大まかに言えば‘式あって答えあり’という考えだ。だか、何度も言うようにそれは‘答えあって、式あり’という方法も成り立つといえる」

再びリッチは教室の左の方に歩き始めた。

「式に対する答えを探す事が全てなのか?それだけではなく、まず、明確な答えがあって、後で式を探すという方法もある訳だ。この場合、答えは数学とは程遠いと思えるような、一見曖昧と思えるあの感覚、つまり直感というか感覚的なもので捉える事になるだろう。そして後で式を理性的に探す訳だ」

話の途中でリッチは黙って考え始めた。

「数学というのは何なのか…」

呟き、また少し考えて、再び答え始めた。

「大昔の話だが、エウクレイデスという数学者がエジプトの王に「幾何学を学ぶのに簡単にすます方法は無いか?と尋ねられた時、エウクレイデスは「幾何学に王道無し」と答えたという。つまり、この道に王道、近道は無いとの意味だ」

そして誰と目線を合わせる訳でもなく、生徒の方へ向き直った。

「それが答えとなるかもしれない。つまり、数学とは気の遠くなるような努力と根気で、多くの式を発見する以外に、それ以外に一つの公式を見つける方法は無いという、こういうものではないかと」

リッチは、ガリレオに微笑みかけて述べた。

「その問いについては私も探求者なので明確な回答とはいえないが、これでいいかな?」

ガリレオは素直に

「はい!凄くよく分かりました!ありがとうございました!」

と答えていた。リッチの答えは他の生徒達には漠然とした答えに思えたようだ。だが、ガリレオにはそれは非常に鮮明な答えだった。


教室を出て下宿先に向かって歩いている。圧倒された。そして、脳裏に過ぎったあの不思議な色“透き通った闇”について考えていた。

…確かに暗い色ではある。だが、先が見えないような黒ではない。その漆黒の先に何かがあるような“透き通った闇”。鈍色のような先の見えない感じの無い、“透き通った闇”。不思議な心地良い黒。その先へ行ってみたくなるような、どこまでも“透き通った闇”。そして“これだ!”と悟る自分が居た。

(俺はこの“透き通った闇”を知りたかったんだ。どこまでも澄んでいて、それでいて黒いこの色を!)

感じたのは導く光などというものではなかった。だが確かに希望に似た感覚をガリレオは掴んでいた。


次の日も、リッチの講義を聴きに行った。ガリレオは同じように質問する。

「それでは、実際、数学はどのように利用出来るのですか?」

リッチはガリレオの方を向き、答える。

「君か。これも良い質問だ」

リッチは、また前日の講義と同じように、少し考えて答え始めた。

「数学というのは、利用する学問なのだ。ある公式とある公式を組み合わせていく。そうすると、必然的に答えが出る訳だが、その出した答えを何に使うのか?それが最も大切な事とも言える。これが抜けると、頭でっかちな人間にしかならない」

そしてまた、教室の左に向かって歩きながら話を続ける。

「したがって私は、建築や設計、工芸などの分野で計算式を活かして、そう、活かしていく方法が見つかれば、世の中はもっと住み良い所となると信じている。このピサにある大鐘楼が、どうして傾いてしまったのか?私は詳しく調べた訳ではないが、少なくとも何かの計算が間違っていたのだろう」

下を向き、考えながら真剣にリッチは答える。

「測量、重量、高さ、面積…それらが数学を利用し精密に繊細に計算されて設計されていたとしたら、ああいう結果には、なっていない。それで、私は地元フィレンツェでは、工芸や建築も数学と一緒に研究しているのだ」

真摯に答えるリッチにガリレオはいつの間にか引き込まれていた。そして新たな世界、“透き通った闇“を心地良く感じる気持ちが強くなっていくのを感じていた。


リッチは講義期間を終え、フィレンツェに戻っていった。フィレンツェはガリレオの家族の居る街でもある。妙な親近感をリッチに感じていた。そして “自分もそこにいる人間だ”とガリレオは確信した。リッチに対する憧れという感覚がその思いにさせるのか?もちろん、それもあるだろう。だが、人に対する憧れよりも、この透明な黒の世界に住みたいという不思議な希望の方が勝っていた。


それ以来、医学の論文研究を放ったらかしに、来る日も来る日も数学に関する本を読み漁っている自分が居た。本来、本を読み、根を詰めて探求するのは嫌いでは無い。読むだけではなく、疑問点をリストアップし、考えた公式をひたすら記入し自分なりに論文らしきものも書いてみた。

楽しかった。学べば学ぶほど透明感が増していくその感覚が快感なのだ。そうした日々が数ヶ月続いた。そしてまた、リッチが講義に来るとの知らせがあった。ガリレオは当然のように、講義を聴きに行くのであった。

(以前聴いた時よりも、内容が近くに感じられる)

ガリレオは以前には見えなかったものが見えるような、そんなある種の確信を得るのであった。


リッチの授業は、深いものではあったが、あくまで特別講師としてピサに幾日か滞在し数学や幾何学を教えるというものである。したがって、講義の内容はどうしても、数学の可能性や興味深い点を生徒に感じてもらうという一般的な内容に留まらざるを得なかった。
勿論、ガリレオはその授業によって大いに覚醒した一人ではあるのだが、複雑で込み入った内容は当然の事ながら多くの公聴生の居る講義の中では不可能である。それでもどうしても尋ねたい点があったので、講義が終わった後、ガリレオはリッチに面会しに行く事にした。

薄暗い大学の研究室の机に向かってリッチは何かを執筆している。

「先生、教えて頂きたい点があるのです」

緊張した面持ちで、そして自分の書いた論文を元に、色々と質問するのであった。リッチは驚嘆した。

「これは、君が書いたものなのか?誰に教わって書いたのだ?」

ガリレオは、はにかみながら、

「自分で色々考えながら、ひたすら本を読んで…」

と答えた。

(何と!これだけのものを、独学で探求したというのか!しかも数ヶ月で?)

リッチは心の中で驚嘆した。その論文は拙いものではあった。だが、リッチは何よりその情熱に驚かされたのだ。そして文面を見ればどれだけ真摯に研究してきたかが分かる。そしてリッチは確信するのであった。

‘この男は怪物になる!’自分の驚きを悟られぬようにして、リッチはガリレオに尋ねた。

「君は医学を学ぶためにこの大学にいるのだろう?何故、このような数学論文を?」

ガリレオは、引き続きはにかみながら答えた。

「どうも医学は苦手でして、その…。何でなんでしょう…」

そう言われれば、どう答えていいのか分からなかった。考えてもいなかった。というより‘透明な黒に住みたくて’などと言える訳もない…。リッチは溜息をつき、

「ふむ、だが、この論文は良く書けている。詰めの甘い点もある。だが補って余りある情熱がある」

リッチは受け取った論文を閉じた。そして、

「この論文にある、疑問に対する答えだったね。それは、君が解いてみなさい。ヒントは授けよう」

と答え、書棚の中から、古ぼけた二冊の本を取り出し、ガリレオの論文と一緒に渡した。

「エウクレイデスとアルキメデス…。二人ともキリスト以前の時代に存在した偉大な哲学者だ。私の講義の中では、よく彼らの研究を議題にしているが、今の時代では、もてはやされてはいない学者だ。いわば忘れられた存在だ」

そしてガリレオの持つ二冊の本を見ながら、一息ついてリッチは述べた

「しかし私の研究とは、実のところ彼らの意思を研究する事に他ならないのだ。偉そうに述べるなら、彼らの後継者になりたい。それが私の願いなのだ」

リッチは書棚を整頓しながらガリレオに語りかけた。

「人の一生には限りがある。探求し、研究した課題が大きければ大きいほど、疑問も論題も膨大に多くなり、それはとても自分ひとりで担える研究課題ではなくなってしまう。いずれ私も地の人の道を歩み死ななくてはならないだろう」

リッチはガリレオを見つめた。

「どうだろう?君さえ良ければの話だが、私の研究を手伝ってみる気はないか?その二冊の本は、他の生徒には私が決して触れさせなかった論文だ」

それは、回りくどい言い方ではあったが、弟子になれという薦めに他ならなかった。ガリレオは即答した。

「よろしくお願いいたします!」

リッチは嬉しそうに微笑み、続けた。

「今回の講義滞在の後は、私はここ、ピサにはそんなに来れなくなるだろう。他の都市にも行かなくてはならないし、フィレンツェでの仕事も膨大にある。だが、私に会わなくとも、君は君のこの論文の答えを出せるだろう」

ガリレオは答える。

「私も家族はフィレンツェに居まして、ピサには大学の為、居るだけです」

リッチは笑いながら答えた。

「ほう、そうなのか。君はフィレンツェの出身なのか」

「はい、生まれはここピサですが、フィレンツェに家族で移転しました」

リッチの笑顔によって、いつしかガリレオは緊張を解して会話する事が出来ていた。同じ世界を共有する事が出来る人が居る。仲間というにはおこがましいが、心地良い思いを感じていた。

(この人も“透き通った闇“の世界に住んでいるのだろうか?)

辺りは既に暗くなって、空を見上げれば星が輝き、月が微笑んでいた。


リッチがフィレンツェに帰った後、ガリレオの行った事は一つだけだ。そう、渡された二冊の論文を研究する。それだけである。大学での医学の授業には、時々気休めに行き、下宿先では二冊の論文を研究。そんな日々を送っていた。そして、色々分かってきた。数学というのは単純に数字の研究というより、物理学としての背景があって、発展してきたという事。仮説を定説とさせるのは哲学者の仕事である事、そしてどうやら、世の中で一般的なのは‘アリストテレス’という哲学者の論理なのだという事。

(本当に研究ってのは、人生そのものだな。人間そのものが公式って感じだ)

ガリレオは学問というものの深さを改めて感じるのであった。エウクレイデスとアルキメデス。この忘れられた研究者達。ガリレオは中でもアルキメデスの存在が興味深いと思っていた。

(物理学か…。観察し、発見した事を数式にして、答えを出す事で、発見した事実を確証させる学問。アルキメデスは物体には支点があるという事実を発見した学者としても有名だが、テコの原理がこんな数式によって確立されているとは思いもしなかった)

部屋の中を整頓しながら考えていた。

(支点かぁ…。確かに不思議だよな。その支点を中心にして様々に考えていく訳だが。力の作用というのが加わってまた色々景色が変わる。でも、何かの法則性があるはずなんだ。法則性が…。そして法則性は数字に変換出来る。数字に変換出来るものは、数式で表して、答える事が出来るんだよな。支点ねぇ…)

考え過ぎて煮詰まってきた。そんな時ガリレオにとっては、星空を見る事で頭を浄化させるのが習慣なのだが、たまには街へ出てワインでも飲もうと思えた。そんな時にはマルツェッロを呼ぶ。昔からの公式だ。


マルツェッロは相変わらず大学での居残りで、政治学の何かの課題に取り組んでいたので、ガリレオは教室に居るマルツェッロにジェスチャーで合図を送り、先に馴染みの居酒屋に行くと告げた。二人の風習である。

(そういや、ここで酔っ払って喧嘩になったんだっけ)


続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?