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おやつも渡せない時代に

6歳から、片道1時間半を電車で通学していた。
周りの大人が「えらいね」と褒めてくれたけど、自分にとっては当たり前だったから、くすぐったかった。

電車の中で本に夢中になっていると、よく大人が「どこで降りるの?」と声を掛けてくれた。
私が降りる駅になると、肩を叩いて教えてくれた。

そうじゃない時は、読書に没頭するあまり、度々電車を乗り過ごした。
気づいたらまったく知らない駅にいて、途方に暮れた。
夕日に照らされるホームに立つと心細かった。

知らない人が心配して、家に連れて帰ってくれたこともあった。
おやつにと出してもらったブドウを食べながら、母が迎えに来るのを待った。
のんびりブドウを味わう私とは対照的に、「お子さんを預かっています」と電話がかかってきた母は、肝をつぶしたらしい。

ある日、いつものように電車で本を読んでいた私のすぐ横に、お姉さんが立った。
顔をあげると「〇〇(学校名)なの?私も〇期卒業なの」と言ってニコッと笑った。
「どこから通ってるの?そっか、遠いね。お腹すくでしょ、これ食べてね」と、お菓子をくれた。
うれしかった。30年経っても覚えているほどに。

大人になった今は分かる。
一度も怖い思いをしなかった私は、とてつもなく運がよかったこと。ただ運がよかっただけじゃなく、たくさんの大人の目が、幼かった私を守ってくれていたこと。
6歳の子どもが電車通学できる日本はすごい。

なんで急にこんなことを思い出したのか。
引っ越してきた家の最寄り駅から、母校に通学している子を見つけたから。
知らない子。だけど懐かしい制服を着たその子を、とても他人とは思えない。お菓子をくれたお姉さんも、こんな気持ちだったんだろうか。

度々、通勤時間にその子を見かける。話しかけてみようかと思う。でも毎回思いとどまる。怖い思いをさせるだろうから。きっと知らない人に話しかけられたと知ったら、親御さんも先生も心配するだろう。

30年前の社会は、今よりもっとおおらかだったのかもしれない。
声をかけることも、おやつを渡すこともできない時代に、大人になった。だから、心の中で制服の背中にエールを送る。

大人になった今は分かる。
あの日お菓子をくれたお姉さんは、今の自分よりだいぶ若かったこと。
メールの返信に没頭しながら通勤電車に揺られる私に、降りる駅を確認してくれる人はもういない。しばらく前から見守る側になったはずなのに、私は幼い頃のまま自分の世界で手一杯だ。

余裕のない自分を切なく思いながら、そっと制服の背中を見送る。おやつも渡せないこんな時代に、せめて子どもを見守る大人の一員でありたい。

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