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「たまたま残念な支援者にあたりました」を無くすための仕組み

まだちゃんと言葉になっていないしまとまってないけれど書いてみる。

最近思っているのは、やはり対人支援職として必要な「資質」はあるということ。支援技術は身に付けることができるけれど、資質はなかなか難しい。例えば、目の前のその人に関心を持ち続けることができること。自分の正解を押し付けるのではなく、その人にとっての正解を模索し続けることそのものを楽しいと思えること。支配的になる自分に気がついた時に絶望せずに変化し続けられること。こういったことは教えよう、学ぼう、と思ってもなかなか難しい。
SNSでもリアルでも、「残念な」対人援助職の話は尽きない。教師、医師、心理士、福祉職員。それぞれ資格はあるのに、当事者から「残念」という言葉がたくさん聞こえる。

そしてもう一つは、どんなに資質があったとしても支援技術を身につけるためにはやはり時間がかかるということ。この職種は「一人前になってから臨床デビュー」というわけにはいかない。資格を取得して一年目から右も左もわからないままデビューせざるを得ない。けれど、その支援を受ける人たちにとってはそんなこと関係ない。今この瞬間、質の高い支援が欲しいのに。支援する側も失敗体験になったりしてつらいと思う。

この問題に対して、私はずっと考え実践してきた。システマティックな養成環境を整えること。育成担当者をたくさん養成すること。質を担保するためのツールを整えること。相談しやすい文化を作ること。もちろんこれらはこれらで大切なこと。対人援助職じゃなければこのような仕組みのみでいいのだと思う。けれど、最近それだけでは足りないのでは、と思い始めている。時間がかかりすぎる。「たまたま担当の支援者が微妙でした」はなくならない。支援者の言葉により傷つく当事者は減らない。
だから、そもそも支援の構造を変えていかなければならないのでは?と考えている。

そもそも対人援助職は基本的に「個の力」に頼ることが前提とされている。必要な力を身につけて、資格を取得する。そこから個別のスーパーバイズを受けたり、研修を受けたりして、個々が何年もかけてスキルアップしていく。それを前提としている分野だと思う。

けれど、その結果、常に人材不足の状況にある。人口の1割が支援が必要な状況で、間に合わない。カリスマの「個の力」に依存し、同じように全員が「個の力」をあげるのは無理があるのではないだろうか。

経験の浅い人は常にいる。そして、当事者から見て「残念」な支援者はいなくならないことを前提とし、それでも「質の高い支援」を届けるためにはどうしたら良いのだろうか。

そう考えた時に、そもそも「担当者1名で支援すること」「1対1でスーパービジョンを受けること」という「一人」構造をやめたら良いのでは。

すべてを「チーム」で実践したら良いのではないだろうか。ただのチームではない。構成員がどんな人であっても「良い支援」につながる仕組みとセットにする。

こんなことをぼんやり考えていたら、教育では『学び合い』、医療福祉では「オープンダイアローグ 」がこの仕組みに近いのではないか?と気がついた。

難しいのは『学び合い』もオープンダイアローグも本当に届いて欲しい層には届きづらいことだろうけど。

どんな支援者であっても、シンプルな「お作法」を身に付け、あとはチームで実践することで「質」が担保できるような仕組み。

これは良い気づき。スーパーマンを10人作るより、この仕組みにした方が良いのでは。

「たまたま残念な支援者にあたりました」はもう無くしたい。

補足。「質の高い」までいくとハードル高めなので、せめて受けている側が傷つかない仕組みだったらできそう。

追記。
ちなみに私は「どんな子も『力のある先生』だったら大丈夫」というのはありえないと思ってる。どんなに大多数にとって「力のある先生」「良い先生」であっても、傷つく子は絶対にいないとは言えない。だからチーム支援を前提にした方が良いということでもある。「自分は絶対にどの子も傷つけない」と支援者や教師が思っちゃうことが一番おそろしい。

自分の物差しで見た「残念な支援者」をただディスって「まあ私は残念じゃないけど」とおもっちゃってる支援者ではありたくない。どんなに頑張っても、自分も誰かにとっては「残念な支援者」なんだろうし、「支援する」という行為やスタンスそのものが支配的で暴力的であると自覚せねば。

※写真はばあちゃん(96)の塗り絵シリーズ。

#対人援助職 #人材育成 #福祉 #教育 #障害 #チーム #オープンダイアローグ

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