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「同じ場にいる」のみでは「インクルーシブ教育」と呼べない

先日のnoteに、「普通級で学ぶべきという反対運動を押し切られて養護学校の義務制が作られたことに触れるべき」ということや、「障害のある子どもが教育へアクセスできるようになったと同時に分離されたことからインクルージョンの文脈で分離教育を語るべきでない」との声をいただいた。当時から障害児教育に関わっておられた方々かもしれない。確かに私は義務制当時まだ生まれてもいなく、当時のことは本で読んだり話を聞いた限りでしかわからないため、温度のある声やコメント本当にありがたい。

何を隠そう、私自身がはじめに読んだ「障害児教育」の本は北村小夜さんの「一緒がいいならなぜわけた」。私自身、「共に学ぶ」ことの可能性を探りたく、この分野に関心を持った。

一方で、学ぶ中、そして学校や実践の場で経験する中で分かったことは、「共にいる」「共に過ごす」ことと「共に学ぶ」ことはイコールではないこと。共にいるのみでは、一人ひとりに合った学びは提供できない。ちなみに「共に過ごす」のみではインクルージョンではなく「インテグレーション」である。

ここで「インクルージョン」の定義と「インテグレーション」との違いを確認しておきたい。

インクルーシブ教育の定義

インクルーシブ教育、もしくは教育におけるインクルージョンが世界的な潮流となったのは、1994年の「サラマンカ宣言」から。その目的は排除のないインクルーシブな社会をつくること。

すべての子どもは誰であれ、教育を受ける基本的権利をもち、また、受容できる学習レベルに到達し、かつ維持する機会が与えられなければならず、すべての子どもは、ユニークな特性、関心、能力および学習のニーズをもっており、教育システムはきわめて多様なこうした特性やニーズを考慮にいれて計画・立案され、教育計画が実施されなければならず、特別な教育的ニーズをもつ子どもたちは、彼らのニーズに合致できる児童中心の通常の学校にアクセスできなければならず、このインクルーシブ志向をもつ通常の学校こそ、差別的態度と戦い、すべての人を喜んで受け入れる地域社会をつくり上げ、インクルーシブ社会を築き上げ、万人のための教育を達成する最も効果的な手段であり、さらにそれらは、大多数の子どもたちに効果的な教育を提供し、全教育システムの効率を高め、ついには費用対効果の高いものとする。(サラマンカ宣言、国立特別支援教育総合研究所 訳、下線・太字は筆者)

ここで分かるとおり、インクルーシブ教育の対象者は、「障害のある子ども」のみでも「特別なニーズのある子ども」のみでもなく、「全ての子ども」である。

その後、さらに2003年のユネスコの政策文書は、インクルージョンを
「全ての学習者の学習、文化、地域社会への参加を促進し、教育の中でも、教育そのものからも排除されないような状況をつくることによって、彼らの多様なニーズを明確にし、応えていこうとする過程」とし、
インクルーシブ教育を
「正規・非正規の教育環境における広範囲にわたる学習ニーズに適切な対応を提供していくこと」であり、かつこれを「(特別のニーズを有する)学習者の一部がいかにして主流の教育に統合していくか、という周辺的な課題のことではなく、教育システム全体をいかにして学習者の多様性に対応するように変容させていくかを模索する方向性である」としている。
黒田一雄先生の訳

インクルーシブ教育には多様な定義があるが、世界的潮流のきっかけとなったサラマンカ宣言、そしてユネスコの定義は「広義」の定義である。私はこれらの定義を総合した以下の定義を使用しており、そのポイントは三つ。

インクルーシブ教育とは①子どもたちは誰もがニーズがあることを前提とし、その多様なニーズに地域の学校で対応することができる教育システム、そして③そのようなシステムを作るプロセスそのものである。

インテグレーションとの違い

障害のある子どもと障害のない子どもが共に過ごすことは「インテグレーション」(統合教育)と呼ばれるもの。そして、「通常教育」を変革せずに、「共に過ごす」ことのみを推進することで、おき得ることは「ダンピング」だ。「ダンピング」とは、通常学級に、障害のある子どもが「いる」が、その子が学べるような工夫がなされていない状態である。つまり「お客さま」状態。

この状態を起こしてしまうことは「インクルーシブ」ではない。「インクルージョン」は「同じ場にいる」のみでなく、「活動への参加」と「学びの達成」がセットでなければならない。

よく「インクルーシブ教育」への批判として、「一緒にいるだけで学びがない」ことが指摘されるが、その状態はそもそも「インクルーシブ教育」と呼ばない。インテグレーションにおけるダンピングだ。

私のインクルーシブ教育観

ここまで書いたら、わたしのインクルーシブ教育観がわかったかも知れない。

「一緒にいる」ことで起きる学びももちろんある。だが、それがたまたま起きるのみでは、システムとして脆弱。一人ひとりが必要としている学び、その子に合った学びを得ることと、当たり前に地域にその子の居場所があり繋がりがあることは両立できるはず。

そして、私が特殊教育をすべて否定できない理由はここにある。特殊教育により、障害特性に合わせた教育課程が体系だてられた。例えば特別支援学級や特別支援学校は、通常の学習指導要領ではなく、その子の障害特性に合わせた教育課程を「特別の教育課程」として編成することができる。この仕組み自体は、とても重要だったと私は思う。

だが、皮肉なことに、「別の教育内容をその子たちに合わせて学ぶ」=「通常学級の中では難しい」という式が当時は成立してしまった。

「ほんとうにそれでよかったのか?」私はわからない。だが、先人が作った素晴らしいものは継承しながら、教育そのものを変革していくことをしたらいい。

今は通常教育そのものがより個別化が必要なのでは?と言われる時代になってきた。特別支援ではずっとやってきたこと。今こそ、より繋がりをもつ時だと思う。

※このほかに今後「教育の場」および就学先決定の方法について、そして教育課程について、詳しく書きます。

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