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型を崩す~破調についての雑感~

短歌のルールは「57577」のリズムで作る(あるいは読む)ことくらいしか無い。だからこそ、このリズムは短歌の生命線である。

では破調の短歌を短歌と呼んでいいのかどうか。

結論から言えば、作者が「短歌である」として詠んでいるのであれば、それは短歌である。短歌のルールの上で読まれることを期待しているのだから、元々の「57577」のリズムをどのように崩しているのかがポイントになるだけだ。

一句目の「5音」を「6音」とするとやや窮屈な感じを受けるし、結句の「7音」が「5音」で終わっていたら唐突に終わった印象を受ける。元のリズムがあるからこその感覚である。

ただ破調で詠む際に気をつける点として、短歌の読者層にはある程度短歌として通じるが、普段短歌を読まない人には、そもそも短歌と認識してもらえない恐れがある、ということは理解しておきたい。そのリスクを引き受けた上で発表するかどうかだろう。

型があるものは「どう崩すのか」が芸術的かどうかの大切な要素の一つだ。抽象画家のデッサンが異様に写実的なように、型破りが活きてくる前提には「そもそも型を使いこなせているのか」がある。徹底して定型を意識するからこそ破調が凄みを持つのだ。

完全な定型の例
フロイトとユングの違い説く友の首から生える一本のヒゲ
(あまねそう『2月31日の空』Amazon Services International,Inc. 2013)
破調の例
母はわれを生みたまひけり昔むかし虎が煙草を吸つてゐた頃
(十谷あとり『風禽』いりの舎 2018)
大幅な破調の例
おれか おれはおまえの存在しない弟だルルとパブロンでできた獣だ
(フラワーしげる『ビットとデシベル』書肆侃侃房 2015)

※記事の写真は「生け花」(作者は身内 2018)

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