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2月10日からのメモ

2月10日

山本貴光さんと今野真二さんの往復書簡「知識の沼――ことばで巨人の肩にのる」を再読。


往復書簡とはどのようなものか、について思い巡らせつつ、山本さんがこのように書いている。

などと、つい、こうした際に、自分はなにを感じたり考えたり、経験したりしているのだろうと考える癖があるのは、長年ゲームをつくる仕事をしてきたせいかもしれません。というのも、ゲーム制作とは、それで遊ぶ人の経験(心と体に生じる出来事)をつくる仕事で、制作中は絶えずそのことを考え続けるのでした。とはいえゲームに限らず、文章を書く仕事でも、話す仕事でも似たようなものかもしれません。

自分がなにを感じているのか、には分け入って浸ろうとするが、「なにを経験しているのか」という視点ではそれを見ていないということに思い至る。
どういう違いがあるのかというと、「なにを経験しているのか」ということの方がまったくこの瞬間のことだけではなくそのことを味わわなかった時点の自分からどう変化して、その先の自分へ続くのかという長い時間尺の視点がある。同時にそれは距離的な俯瞰的視点でもある。
そういうふうに自分の感覚に入り込みすぎずちょっと距離をおいて眺めてみることを意識的にするのはいいかもしれない。というのは、人にものを見せる時に役立つやり方でもあるから。
自分が感じているこのことを他者の内側に生じさせる、という考え方より、自分が果たしてどういう経験をしているのか、それを他者に移し替えて考えるとどうなるか、というアプローチのほうが普遍的な広がりがありそうだし、具体的な道が見えてきそうだ。

最近はつとめて何でもscrapboxに書き込んでいる。ちょっとしたメモもじっくり考えたいときにも、読んだ本や見た映画、舞台、展示の感想なども。
その時に感じたことや思い出したことなどをはっきり残しておきたいからそうしているのだけれど、やっぱりただノートとかブログに書いてもあとで読み直すわけでもなくただ散らばって消えていってしまうだけなのだが、scrapboxはそこを絶妙に繋げてくれる。(scrapboxってなんだ?についてはこちらに書きました)
ただ、繋げてくれるといってもそこには工夫が必要。自分の中でなにを繋げたいのか、何を掘り起こしたいかを明確にする作業がないとただのメモの羅列になる。
今までは「映画」「読んだ本」「タルコフスキー」というように、話題のテーマとなる単語を#にしてメモをつないでいたのだけれど、もしかしたらそういう方法だけじゃなくて、「私はここに書いたことから何を感じたのか」「このメモの内容は何に繋がりそうなのか」「これは自分の興味のどこをくすぐったのか」というようなことに区分けすることもできるんじゃないの、ということに気づいた。
それがうまくいけば、それは今までブログでやろうとしてできなかった、大事な「自分の索引」のようなものになるんじゃないかな。

あ、この「自分の索引」のようなことを考えたのも上記対談の第三回目を読んだからなのだった。


2月14日

Netflixで『Don't look up』を見たけれど、現時点での世相をほんの少し拡大しただけで、もうすでにこのことは起こっているじゃないかとしか思えなかった。
いろんな情報が飛び交う中で、蓄積している怒りとか、ルサンチマンとか、傷ついた部分とか、なんとかして洗い流してほしいこととか、自分がいつのまにか抱えているそういうものと合致するものに反射的に飛びついて、裏もとらずに信じ込み、悪い時にはそれをまた拡散してしまう。
そういうこと、毎日Twitterで見ている。


2月16日

タルト生地を買ってみたので、Twitterで教えていただいたオンディーヴタルトを作ってみる。
バター・砂糖は大好きだが、今回はおかずにするつもりで控えめにした。


味はとても美味しかった…が、考えていたよりも短い時間で火が通ったためだいぶ焦げてしまった。

【うちのオーブンの癖メモ】
・熱が外に逃げがち→温度高めでやるべし
・下面がこげがち→上段にセットする、熱まわりを良くするためになるべく網を使う(鉄板だと上下を遮断するので)
【器の癖メモ】
フライパンとガラスの器とでは熱伝導率が違う。フライパンはすぐ熱々になって焦げやすい。

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