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過剰と不足の間で ―秋山ジョージ『アシュラ』における人間の条件としての食―

❇︎本論は以前(2020年)課題で提出したものになります。

 本論考は秋山ジョージ『アシュラ 大合本 全3巻収録』(Kindle版)(ゴマブックス株式会社、2018)の作品分析を行い、そこから食について考える上でのこの作品の意義を論じる物である。なお、分析のメインには扱わないが『アシュラ 完結編』(Kindle版)(eBook Japan Plus、2014)も適宜参照する。
分析に入る前に、まずこの作品のあらすじを簡潔に書いておきたいと思う。平安末期が舞台であるこの作品は、飢饉によって人々が飢えて死んでいく中で一人の妊婦の女が人の肉でどうにか食い繋いでいるところから始まる。そして、その妊婦が生んだ子供が本作の主人公であるアシュラである。しかし、妊婦であった女もついに飢えに苦しむようになり、自ら産み落とした子供を火にかけ食べようとする。しかし、アシュラは食べられることはなく、物語の場面はアシュラが川に流され、ある一家の家の近くに流れ着くところに移る。そして、そこでアシュラは生き延びるために残飯などを集めては食べ、最終的には一家の子供を一人殺して食べてしまう。その後もアシュラは生きるために人を喰らいながら、「南無阿弥陀仏」を唱え続ける畜生法師や、荘園の元で奴隷のように働かされる子供たち、さらにアシュラに言葉を教え母親のように慕われることとなる荘園の農民の娘の若狭や、実の父である散所太夫などの下に保護されつつも、転々としていく。そして、狂人と化した母親に再開し、散所太夫が実の父親であることを知ると、両親への恨みと家族への憧れから荘園の家族を襲って殺し、ついには荘園のものたちに追われるようになる。そのようにして、この物語は追われる身となったアシュラを荘園で働かされる子供たちが助けに行き、アシュラを含む子供達が都に向かうというところで終わる。ここまでが全3巻のおよそのあらすじであり、続く『アシュラ 完結編』では都にいったはずのアシュラが荘園に戻ってくるところから始まるのであるが、この『アシュラ 完結編』はアシュラ本編からは若干蛇足的な面があり、アシュラ本編への一つの解釈というようなものにとどまっているのでアシュラ本編だけでも一つの独立したテクストとして見做すことが可能であると考えられる。そのため、本論考では『アシュラ』全3巻の分析に重きを置きたい。

 この作品においては、大半の人間が飢饉で飢えに曝されており、さらに飢えていない人間たちも自らが飢える可能性に怯えさせられている。そのため、この作品全体を支配している食のあり方はスタヴラカキスが三つに分けた食のあり方の内の第一のあり方であるところの生物学的な背景を持つ「欲求」(need)の領域に属するものであり、純粋に動物的な欲求なのである。そのような中で、アシュラは生きるために人の肉を食べ、食いつながなければいけない状況に曝される。そのためこの作品の状況においてはバタイユの言うような「過剰」は、通常想定されている「人間」のように一箇所に止まることはありえず、常に誰かの過剰が、別の人間に移されることになる。そのため、飢饉に曝されたものたちにとってこの「過剰」は一方向的な食物連鎖の体系のなかではなく、円環的な形で組み込まれていると言えるだろう。そのように、エネルギーの「過剰」の流れを円環として捉えるのであれば、主人公のアシュラは、人肉によって養分を得た母親から産み落とされており(排出されており)、飢えた母親に食料として扱われ、食べられかけており、さらには自らも人を食べて生き繋いでいるという意味で、排出物であると同時に被食対象であり、捕食者であるという三要素を揃えた存在であり、エネルギーの円環の要のような存在と捉えることも可能であろう。このように、飢えによって我々人間の食の選択肢に組み込まれた人体のあり方は、一方的なエネルギー移動を円環へと変えると言えるだろう。そして、この作品においては、この飢えという不足による欲求とエネルギーの円環というような動物的なあり方と、満たされているという過剰による人間的なあり方というものが区別された原理として扱われており、アシュラ以外の登場人物でさえも飢えに曝された時に、この不足の原理と過剰の原理の間を行き来している。例えば、母に食べられかけたアシュラが最初に流れ着いた一家は、干魃によって食糧不足に陥り、備蓄していた食材を消費することとなるのだが遂に食料もなくなり、飢えに苦しんだ家族は、アシュラが持っていた肉をそれが一家の次男の肉であることを知らずに喜んで食べてしまう。さらに、それだけでも飢えが満たされなかった一家の母親が死んだ後、「わたしが死んだらわたしを食べてください 」という言葉を聞き入れ、母親の死骸を食べることで生きながらえる。そして、遂に家族の父親と長男は干魃を越すことができるのであるが、雨が降ってからしばらくして、父親は懺悔として自殺してしまう。これには、明確に過剰から不足へ、そして過剰へという移行が描かれており、父親が満たされた後に、つまり過剰の原理に戻った後に懺悔と自殺というまさに人間的な行為が成されているというのは重要である。他にも、荘園で働かされている子供達のリーダー的な存在である七郎と恋仲であった荘園の農家の娘である若狭は、アシュラに襲われた父の負傷で飢えに苦しむことになるのであるが、そのような状態の中において、食料面で若狭を助けることのできない七郎への恋心が揺らぐというのは印象深い。さらに、七郎の恋敵である彦次郎という比較的金持ちの家の息子がわざと若狭に食料的な支援を行わないことで若狭が自ら彦次郎に頼る必然性を作り出し、若狭を恋の錯覚に陥らせているのも、重要である。結局、若狭は彦次郎と結ばれることになるのであるが、彦次郎による扶養によって飢えから解放された『アシュラ 完結編』においては、再び七郎への愛に目覚めている。さらにここで追記しておくならば、飢えに苦しんでいた若狭はアシュラが持ってきた肉を人肉だと言われても、欲求に抗えずに食べている。ここから、わかるように飢えによる不足の原理においては食への欲求のみが純粋に求められ、愛などの欲望が排除されている。逆に不足の原理から過剰の原理に移った時に愛などの欲望を再び見出しているのである。このような不足と過剰の区別は畜生法師が「獣の世界」と「人間の世界」と区別しているものと明確に対応するであろう。さらに畜生法師は「人間の心のおくにはみんな獣がすんでおるなかなかこの獣をおいだすことはできんのじゃどんな人間でもの獣になってしまうしゅんかんがある 」と言っており、実際飢えに曝されて人肉、または人肉と言われて出された肉を食べなかったのは『アシュラ 完結編』で投獄された畜生法師のみである。現に自分が母親に食べられかけたことを根に持っているアシュラは、母親のように慕っていた若狭が人肉と言ってだされたイノシシの肉を食べているところを見て、悲しんでいる。また、このようなアシュラの苦悩が始まったのは、若狭によって言葉を教えられてからであるというのは重要であろう。それまでは、言葉を話さず純粋に動物的な欲求として人間を食べて生きてきたアシュラが、言葉を習得してからは母親と父親への恨みと畜生法師の両親を許せという言葉の間で板挟みになる。実際、アシュラは畜生法師が自らの腕を切り、「食え」と言われるが前までのように食べることができない。そして畜生法師に「おまえは人間なんじゃよだから食えないのじゃ だれだってそうじゃ人肉なんぞ食いいたくはない理性がそさせない だが人間の本性は獣じゃだれでも獣になってしまうときがある 獣になったひとをせめてもしかたがあるまい 人間のあわれとおもうことじゃ 」と言われている。このような苦悩で板挟みになったアシュラは荘園の家族を殺して回るのであるが、その動機は以前のように生きるために殺して食べるというような生物学的な欲求ではなく、家族への憧れと嫉妬の気持ちによる殺害である。つまり、過剰の原理による殺害なのである。

 最後に注目したいのは、いつ飢えるかもしれない危機にさらされながらもギリギリ過剰の原理に留まり協力し合う荘園の子供たちである。ここにいる子供達の多くは以前に生きていくために人肉を食べた経験があり、「人間どたんばにくりゃだれだって食うかもしれん 」と言っており、母を食った一家の長男が自分の弟を食ったアシュラを責めている時にも「食ったやつがふつうじゃなくて食わねえやつは人間かよよく言ってくれるじゃねえかよおめえはぜったいに食わねえって自信があるのかよ 」と言っている。それでも彼らは助け合い、荘園の管理者たちに理不尽に搾取されながらも労働をし、生きていくために最低限の食料を報酬として得ている。中でも母を食った一家の長男を七郎が咎めた時の「おめぇの気もちはわかるぜおれにも 人間らしく生きられねえのかなってな 」と言っているのは印象深い。彼らは不足と過剰の原理の間に存在し、常に獣の世界に落ちる危険に曝されながらも必死に人間の世界に留まろうとしている。そのような彼らが終盤に追われる身となったアシュラを協力して助けに行くというのはある種の必然であると言える。そして、ここでより一層に注目したいのは、彼らの間にほんのわずかでありながらも明確に残っている文化性である。例えば彼らはアシュラを助けた後、食べるもののないアシュラに「おにぎり」という料理を与えている。「おにぎり」は少々原始的な食べ物かもしれないが、それでも料理という食文化に含まれたものであろう。寧ろ、この「おにぎり」という食のあり方は彼らの共同体としてのあり方と重なり合っていると言える。他にも、アシュラを助け、皆で都に向かうことになった子供達は「遊び」として、仲間の一人を縄で結び犠牲にするふりをするという「悪戯」をしている。このような「遊び」または「遊戯」という発想や、「ふりをする」というまねごとは、一種の文化的な要素であり、あえて言うならば「人間的」であると言えるだろう。しかし、彼らのこのような基礎には最低限の食料というものがあるのは忘れてはいけない。彼らはいかに食に困っていようと、協力することで最低限の食料を得ているのである。このような彼らのあり方は、食と共同体について考察する点で重要性を持つであろう。

 作品の分析は以上となるが、最後に結論にかえてこの作品が持つ「食べること」を考える上での意義を書きたい。それは、飢えの中で自分の妻の死体を喰らい干魃越えの後に懺悔し自殺した男や、飢えによって恋心が揺らぎ飢えの心配がなくなった後に恋心を取り戻す若狭、他にもアシュラを含む子供達からもわかるように、不足していないということが、「後悔」や「自殺」、「恋」、「嫉妬」、「料理」、「遊び」などの人間的な行為の条件になっているということである。ここから、一般的に考えられているような言説とは逆説的な結論が導かれる。それは「人間性ゆえに人を食べず、人間性を失うがゆえに人を食べる」のではなく、反対に「人間を食べる必要がないということから人間性が生まれる」ということである。このような逆説的な結論は普段の我々の生活から「飢え」が隠されているがゆえに我々には思慮の及ばない価値転倒的な領域となってしまっている。そのため、祝祭的なカニバリズムや性倒錯としてのカニバリズムと、純粋な生物学的なカニバリズムを混合して考えてしまいがちである。しかし、このような視座は、我々人間の起源とそれに関する食のあり方を考えるうえで極めて重要な示唆を与えてくれるだろう。

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