見出し画像

ディズニー+に入ったので②:歌わずとも踊らずとも──『ラーヤと龍の王国』

『ラーヤと龍の王国』(2021)を観た。本作は東南アジアの伝統文化にインスパイアを受けたものらしい。

あらすじとしては以下の通り。

昔、龍と人間が暮らす大陸クマンドラがあった。しかし、ある時クマンドラに魔物ドルーンが現れ、人々を石に変えていった。龍たちはドルーンを封印するため、自らの力を「龍の石」に封印した。そして、龍シスーが「龍の石」を用いて、ドルーンを封印し、石になった人々を助けた。しかし、この激闘によって龍たちは姿を消し、クマンドラには人間だけが残された。残された人間たちは龍の魔力が宿った「龍の石」をめぐり争いを始め、砂漠の国・テイル、水の国・タロン、雪と氷の国・スパイン、戦闘民族の国・ファング、そして「龍の石」を守る国・ハートの五つの国に分裂してしまった。ラーヤはハートの王の娘であり、「龍の石」の守り人になる。五つの国が互いを信じ合うことでクマンドラを復活させようとしていたラーヤの父はある日、ハートに他の四つの国を招き、共に手を取り合うため食事会を開いた。ここでラーヤは歳の近かったナマーリ(戦闘民族の国・ファングの首長・ヴィラーナの娘)と仲良くなる。二人は共に龍に憧れを持っており、共に戦士としての自負を持っているというように共通点も多かったため、すぐに仲良くなった。ラーヤはナマーリに「龍の石」を見せようと祠に案内するが、ここでナマーリに裏切られ「龍の石」を奪われそうになる。ここで駆けつけた各国が「龍の石」を取り合ったため、「龍の石」は五つに割れてしまった。これにより、魔物ドルーンが復活し、世界は荒廃してしまう。父に逃されたラーヤは石にされた人々を救うため、龍シスーを探す旅に出る。そして、シスーを見つけ、シスーと共に各国を回り、仲間を増やしながら、五つの欠片を集めていく。

ストーリー自体はかなりありがちな話である。しかし、この物語はラーヤとナマーリの因縁に軸が置かれており、広義の「シスターフッド」映画となっているのが特異だ(ナマーリの耳飾りが左だけなことに暗示されているものはあまり本質ではないだろう)。更に、CG背景のテクスチャーがかなり良く、ジェイムズ・キャメロンの『アバター』(2009)やユニバーサル・ピクチャーズの『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(2023)などのような広大な世界を舞台に展開しているところが面白い。従来の「ディズニー・プリンセス」ものと比べても、バトルシーンやアクションシーンが多く、スパイミッションのようなアクションがあったのも印象的だった。

個人的にかなり驚かされたのはこの作品はほとんど歌わない映画であったということだ(唯一、龍のシスーを復活する際にラーヤが数秒歌を口ずさむがこれはミュージカル的なものではなく、復活のために捧げる詞に過ぎない)。ついでに言えば、踊りもない。「ディズニー・プリンセス」(ラーヤをディズニー・プリンセスに入れるかは微妙なところだが)の冒頭といえば、村人や国民の愉快な歌声などが聞こえてくるものが大半だが、この作品にはそのようなものはない。代わりに、この作品の冒頭では祠の仕掛けを抜けていき、父と剣術で闘うラーヤが映されている。このように、この作品では剣術や武術での鍔迫り合いや殴り合いが歌の代わりに挿入されており、ラーヤとナマーリは三度殴り合い、剣を交える。この戦闘でラーヤとナマーリはほとんど対話をしない。ただ拳と剣を交え続ける二人が軽快に映される。「ディズニー・プリンセス」といえば、内面を吐露するための叙情的な装置として歌が用いられがちだが、この作品では誰も内面を吐露したりはしない。龍のシスーは自らの喜びを語ることなく、海を愉しげに泳ぎ回り、別の所では魔力が戻った喜びをもって天翔る。ここには歌声もなければ、内面の吐露もない。「告白という制度」がないのである。
そして、このような内面の不可視性はこの物語のテーマである「信じること」にも繋がっている。ラーヤは信じた相手に裏切られたことで父を失った。作中では何度も騙してくる悪人が現れ、人間不審になっているラーヤは自分に寄り添ってくれる仲間をも疑ってしまう。そして、これにより信じることの大切さを説く龍シスーと対立する。「信じるためには自分から一歩踏み出すのだ」という父とシスーの言葉を受け、信じるために一歩踏み出すラーヤであったが再度ナマーリに裏切られてしまう。ナマーリは国のためにラーヤを裏切るしかなかったのだ。だが最後、ラーヤは魔物封印のため再度ナマーリを信じるのだ。また裏切られるかもしれないにも関わらず、賭ける。このような信頼の崩壊と予期的構造の飛び越えは、「告白という制度」の欠如によって寧ろ可能になっている。ただ殴り合うことでコミュニケーションを取るラーヤとナマーリは、「ディズニー・プリンセス」のように歌の歌詞にのせて理解し合うようなことはない(『アナと雪の女王』(2013)のアナとハンスの歌に見られるように、歌で解り合うこと自体実は疑わしい)。内面を吐露し尽くせないからこそ、信じることに賭けねばならない。安易に解り合うのではない誠実さがここにある。正直、ミュージカルにしたほうが産業的な成功をし易いだろうが、このような賭けに出た制作陣には感服する。
ただ、それにしてはアクションが物足りない感じもあり、ミュージカルの壮大なスペクタクルを超えるためにはそれを補って余りあるアクションの魅せ場が必要になってくるだろうとも感じた。先のマリオ然り、フィル・ロード&クリス・ミラー『スパイダーマン:スパイダーバース』(2012)『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』(2023)やユニバーサル・ピクチャーズ『長ぐつをはいたネコと9つの命』(2022)などの軽快でいてメリハリのしっかりしたアクションに習うことがありそうだ。

他にこの作品で注目すべきところといえば、ラーヤが旅する船とその仲間たちだろう。船に関していえば、この船が小さいながらもレストランを兼ねているというのが重要だ。最初に訪れた国で仲間になった少年ブーンは家族を失い、船の上で船長兼シェフとして働いている。ラーヤは彼の料理に毒物が入っているのではないかと疑い、食事を食べないが、旅を重ねていくうちに仲間たちと食卓を囲むことになる。ラーヤの父も五つの国が互いを信じ合うために、食事会を開いたのであった。
また、仲間たちのことでいえば、彼らの年齢層が皆バラバラなのが興味深い。仲間たちは各国をめぐる中で仲間になっていったが、皆家族を魔物ドルーンに石にされているという共通点を持つ。少年ブーンを初めとして、猿三匹の窃盗団に育てられた赤ちゃんの女の子ノイ、国の中もすべてを失った巨漢のトング、さらに龍シスーが人間に化けた姿は老婆であった。これらの仲間に加えて、ラーヤがいる。赤ちゃん、少年、青年女性、中年、老婆。家族を失った彼らは船の中で疑似家族のように食卓を囲むが、それは家族へのノスタルジー故ではなく家族の拡張として意識されている。これは全てが終わった後、皆が自身の国から家族を連れてラーヤの国に戻って来るところに象徴されているだろう。ラーヤが父に向けて「ようこそ、クマンドラへ」というところでこの映画は終わる。彼らは食事に行くのだろう。完全には解り合えないと知りながらも互いを信じ、内面の吐露という偽りを超えていくために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?