速習西洋論破哲学 ひろゆきからマルクスまで

 ひろゆきは論破した。
 かのソクラテスを論破した。
 このことについてはプラトンの『ティマイオス』だか『プトレマイオス』だか『ティラノサウルス』かなんかに収録されている。
 「星とはなんだ」と問うソクラテスに対し、ひろゆきは「なんなのか、と尋ねることがバカで、実際それはそれでしかないわけですよね。なんなのかというような問いを立てること自体がバカで、何かを説明するには言葉が必要なわけじゃないですか。このようにすると無限に言葉の説明が必要になってくるわけで、でも説明っていうのはそこにあるがままのものを説明しているわけではないので無限に抽象的な言葉遊びに陥るわけですよ」と返した。だがソクラテスは一歩も引かずに「だが星についての説明はできるわけだ」と返した。
 ひろゆきは笑った。「では、星は〇〇という成分でできていて、ということを説明すれば星の説明をできたことになるんですか。あらゆる側面に星の要素があるわけで星を一元化して説明しようとすること自体が間違いなわけですよね。それはただある。それだけのはずの問題に言葉で説明しようとするからおかしくなるわけじゃないですか。無知の知とかいいますけど、それは何かを説明しようという人間の根本的にバカな欲求によって永遠に埋められない穴を自分から作り出しているだけじゃないですか。あるものがただある、それでよくないですか」
 ソクラテスは黙り込んだ。
 このことによって晩年のプラトンはひろゆきの亡霊に取り憑かれ、自らのイデア論を放棄せざるを得なかった。「あらゆる側面に星の要素があるわけで星を一元化して説明しようとすること自体が間違いなわけですよね。」これはイデア論にも通づるところがあったからだ。星のイデアがあったとして、そのイデアは分裂していないといけないのか。そもそも何かを説明するという行為がイデアという幻想を生み出しているのではないか。そのような問いをプラトンは超えられなかった。
 のちのアリストテレスはあらゆる学問を分類することでひろゆきの亡霊から脱却しようとした。哲学、自然科学、倫理学、政治学に天体論、様々な分類をすることでイデア的な一元化ではなく物事に対して多角的な語りを施そうとしたのである。しかし、どうだろうか、それは「無知の知とかいいますけど、それは何かを説明しようという人間の根本的にバカな欲求によって永遠に埋められない穴を自分から作り出しているだけじゃないですか。」という問題を超えることができなかった。「あるものがただある、それでよくないですか」という問いに、NOを打ち出したアリストテレスではあったが最終的にそれはソクラテスどうよう「無知の知」という先行する欠陥による語りの誘惑に惑わされているだけではないだろうか。
 デカルトの「我思う、故に我あり」も、ひろゆきの亡霊にあっさりと断罪された。「我思うというのはあなたの考えですよね、故にと結論を出す前からあなたはあなたとして存在しているのではないですか。故にを使う人はバカで、故にはなんでもつかえるわけですよ。だから結局言葉遊び以上のものではないわけで、あなたの主観を言っているだけにすぎないわけですよね、つまりそれってあなたの考えですよね」。デカルトは困った。その後彼は毎日ひろゆきの言葉に魘されて早起きをし、パトロンであるエリザーベートの質問にも十分に答えられないまま死んだ。
 次に来るカントはもっと無残だった。彼の構築した観念論は「でも、観念ってあなたの観念の中の話であって、あなたの考えですよね」。カントは普遍的な主体を観念によって取られようとしたが「自分の観念」から抜け出ることができなかった。つまり、それってカントの考えですよね。ということだ。
 このようにして西洋の哲学は背後に潜むひろゆきの亡霊を乗り越えることができず、自らの理論を自らで論破する形とならざるをえなくなった。
 しかし、このような停滞を初めて乗り越えようとしたのが、ヘーゲルである。彼の哲学は西洋哲学と西洋論破学の調停を行い、西洋哲学を高次の段階へと高めたのである。ヘーゲルの説明によれば西洋哲学の扱う問題というテーゼは西洋論破学という西洋哲学の完全なる否定を行うアンチテーゼがぶつかり合うことで高次の段階であるジンテーゼへと向かうというのだ。つまり、西洋哲学は常に論破されることによって、否定されその否定の否定によって新たなる西洋論破哲学が構築され、この無限の運動によって西洋論破哲学は自己否定を孕んだ、つまり無と表裏一体の言説的な哲学を孕むことになったのだ。論破によって立ち現れる歴史運動の無限なるアクティヴィズム。これこそがヘーゲルの業績であった。
 そして、のちのカール・マルクスはこの論破によって立ち現れる歴史運動の無限なるアクティヴィズムを歴史における階級闘争の問題に位置付け、資本家とプロレタリアートがお互いに論破しあうことで、最終的にプロレタリアートが資本家を論破し、歴史の新たなる段階共産主義へと向かうだろうとした。実際、レーニンや毛沢東はこのように資本家を論破した。論破が世界を動かすことが証明されたのだ。論破、論破、世界は論破によるアクティヴィズムによって成り立っている。
 ひろゆきは笑う。なんだろう、ウソをつくのやめてもらっていいですか?
 ひろゆきは作者を論破した。

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