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高校生の考えるSNSの問題点とSNS企業に対する批判

皆さん、こんばんわ蒼葉レイです。

今回のテーマはSNSを学生時代から身近に親しんできた私の視点からSNSに対する不満についてお話してゆきます。


考えなくても良い事まで考えるようになった

昔は地域や周囲の人間関係に基づいて自分の価値観を形成していたからこそ、よく言えば「自分と極端にかけ離れた人」と無理に比較する必要はなかったし、自分と直接関係の無い社会のイライラした感情に触れる事はなかった。

僕たちの場合は、スマホを持っていなかった小学生時代が上記のような状態でした。

ただ、SNSによって周囲に理解されない自分の感情を発信し、同じ悩みを持つ仲間と繋がれるようになった事はプラスですし、周りにいない自分らしい生き方をする人達から新たな視点を得れる所は良い時代と言えるのかもしれません。

しかし、それ以上にSNSで自分の持つ身体的・環境的側面を馬鹿にされると、今までそのような事は指摘されなかったからこそより辛くなります。

また、それによって「自分ってこの程度の人間なんだ」と思って鬱になる人もいるし、自分の自尊心を保つために自分よりも恵まれていないと感じる人と比較して自分の優位を維持する事で正常化バイアスをかける人が増えたという弊害も感じます。

それ以外にも自分の違和感に名前がついた事による自分への劣等感が生まれた事も弊害の一つかもしれません。


皆さんは「境界性知能」という言葉をご存じでしょうか。

これは平均的な知能指数と知的障害の間にあるグレーゾーンの事を指し、その割合は7人に1人とされているというデータがあります。

ただ、これを読んでいる多くの方はこのような言葉に触れる機会はなかったですよね。

この情報もこの言葉を知らなければ、自分に劣等感を感じる事はなかったかもしれないが、知ってしまうと自分は「普通以上なのか」気になってしまう。

勿論、私は特定の性質を持つ人に対する差別は断固反対ですし、僕も不登校などのマイノリティを経験した中でより一層、自分の持つ性質や環境を理由にした差別はあってはならないと感じるようになりました。

しかし、この「考えなくても良いことまで考えてしまう」という病は僕たち世代を苦しめています。

学生時代に過激な意見が身近にある

昨今の戦争に伴い、SNS上には様々な残虐な画像や特定の人種、宗教にルーツを持つ人への差別的発言が拡散されています。

こうした過激な投稿は多感な学生にとっては、刺激的で知的好奇心から来る関心を集めやすい内容もあるでしょう。

ここに教育上、大きな問題があると思います。

アメリカでは、Tik Tokで拡散されるテロリストの言説を支持する若者が一部で急増している事が問題になったり、過激な政治的主張の拡散によって同じ国・家族の中で分断が生じるケースも増えています。

1950年代の日本でも一部の若者の中で共産主義思想が広まり、一部が暴徒化した事件がありましたが、そうした過激な意見が広まりやすい時代とも言えるでしょう。

僕も中学生時代にここまでがいかないものの、過度に中国・韓国を馬鹿にした動画が散見されていましたし、知的好奇心からそうした意見を見ていると、何だかその意見に飲み込まれて行かれそうな中毒性を感じました。

SNS企業が批判され始めている

最近はそうした過激な意見、特定の人物・ルーツを持つ人への誹謗中傷、自動に対する性的搾取、扇情的な詐欺広告等について、それを放置するSNS企業への批判が高まっています。

特にヨーロッパ諸国ではSNSに対する規制に関する法整備やアメリカではSNS企業の幹部らを集めた公聴会などが開かれています。

また、日本でも誹謗中傷に対する法的罰則の強化に関する法案が可決されました。

この流れは「人権」に基づき加速されていくと思いますし、僕自身、情報発信には責任が伴う事を忘れないようにしたいと思います。

それから、十分な対応がなされていないSNS企業に対しては、広告を出すのは適切ではないという理由からスポンサーからの圧力も想像されます。


攻撃的な意見からは意識的に距離を置く

あくまで全ての批判をやめるべきだとまでは言いません。

しかし、社会通念上の相手への配慮やリスペクトは必要だと思います。

また、一般的なモラルについて、「SNSでは何を言っても良い時代」は終わりました。

だからこそ、自分の発信に対しては十分な検証と受信の際の理性を忘れずに、本来のSNSの価値である「素敵で新しい人間関係からくる社会的な価値の創造」を大切にしたいなと思います。

今日も最後までお読み頂きありがとうございました。




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