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鈴蘭の日なおいしい話。

鈴蘭の日に関係あるようなないような、ふたりが美味しいものを食べてる話。


 花見がしたい。
 でも、外に出られない。
 コロナが世界中をガラリと変えて、はや一年ちょい。
 自粛要請が出ては解除され、また要請が出ては解除され、最近はマンボウとかウリボウとか言い出している。
 勤務先の日本語学校のうち、一校は新学期を迎える前に倒産し、もう一校は辛うじて生きているが、仕事はない。当たり前だ、外国人が殆ど入って来ないんだから。
 ビジネスなんちゃらで、弾丸観光してる中国人なんかは別として、中長期滞在ビザで入ってくる外国人は激減して、そのままだ。
 そんなわけで、今のところ、完全に個人事業主状態でオンライン授業で稼いでいる。
 ほづみくんという旦那さんがいて、コロナ禍でも生活不安がないからこそ、だけど。
 おかげさまで、今日も元気に朝ごはんを食べ、店の手伝いだ。
 もっとも、ここしばらくで、また感染者数が激増しているから、来店のお客さんは少なく、デリバリーやテイクアウト、予約制の焼き菓子販売がメインになっている。
 今日は、月に一度の焼き菓子の受け渡し日で、朝から断続的にお客さんがやってきて、「せっかく来たから」とコーヒーを飲んだり、店でしか食べられないメニューを頼んで、そそくさと帰っていく。
 殆どがおひとり様で、世間話もしないから、静かなものだ。
「退屈だねえ」
 テーブル席から引いた食器をシンクに浸けながら、つい零れた呟きに、ほづみくんが首をかしげた。
「え、おやつボックスの注文、いきなり十箱入って結構パニックだよ」
 言いながら、本日のおやつ、いちごジャムとクリームチーズのパウンドケーキをパラフィン紙で包んでいる。
「あ、違う。これ、もう閉めていいの?」
 横から手を出して箱を覗くと、ケーキと赤ワインのミニゼリーが綺麗に収まっていた。
「右端のやつから、ケーキが入ってるのは大丈夫」
「オッケー」
 紙箱の蓋を閉めて、シールで封をしていく。
 中身を確認しながら流れ作業的に蓋閉めと封をして、無事に十箱完成させた。
「これ、デリバリー?」
「や、車で取りに来るって。あと十五分くらい」
「りょーかーい」
 レジで納品書兼領収書を打ち出して、紙袋にテープで留める。
 あとは持っていくだけ状態にして、息をついた。
「ありがとう。で、桜子さん、退屈なの?」
「へ?」
「さっき、退屈だねえって言ってた」
「……あ」
 なんの話か、やっと理解した。
「お店はそこそこ忙しいから、暇じゃないんだけど。刺激がないっていうか、娯楽がないっていうか」
「ああ」
 苦笑いするのは、ただでさえ飲食店なんて感染リスクが高い業種なのだからと、ここ最近、ろくに外出していないことをわかっているからだと思う。
「確かに、気候が良くなってるのに、あんまり外に出てないね」
「ねー。運動不足も深刻だけど、気晴らしできなくて心が緩やかに死んでいく」
「でも、感染怖いもんね。変異株が増えてるっていうし、重症化する年齢が下がってきてるっていうし」
「気晴らしして感染したんじゃ、馬鹿みたいって思うし、実際怖いし。でも、退屈」
「今年、結局花見もまともにできなかったなあ」
 近所には桜が植っている公園がいくつかあるけど、みんな考えることは同じらしく、小さい公園に結構な人口密度だった。屋外でも、あれじゃ怖い。
 そうこうするうちに桜が終わり、ハナミズキと藤が咲き、今年は藤も終わってしまった。
 見る花がない。
「こう…どっかの山奥とかの、ひとに知られてない場所にひっそり咲く花とか見て、美味しいもの食べたいねえ」
「あー、わかるなあ。軽めのロゼをキンキンに冷やして、玉ねぎのキッシュと生ハムのサンドイッチ詰めて」
「ちょっと陽射し強いくらいのとこで、冷たいワイン、キュッとやってキッシュにかぶりつくの」
「うわー…たまらん」
 ほづみくんがデコを押さえたとき、カウベルが鳴った。
「すみませーん、思ってたより道が空いてたんで早く着いちゃったんですけど」
 スーツ姿の女性が入ってきて、話を中断する。
「あ、はい。スイーツボックスのお客様ですよね」
「はい。あ、あの、もしできたら、なんですけど。このポットにコーヒー詰めていただくことってできませんか?」
 女性が持っていた紙袋から、大きめの魔法瓶を取り出した。
 ほづみくんを見ると、軽く頷く。
「大丈夫ですよ。容量計って、計算しますし」
「ありがとうございます! やー、こちらのコーヒー、美味しいからどうしても飲みたくって」
「こちらこそ、ありがとうございます。コーヒーの準備ができるまで、テーブルでお待ちください」
 顔を見合わせて、笑う。
 本当にお客さんに恵まれてるなあ。
 自粛疲れでしんどいけど、店でこういうことがあるからなんとかなってるとこがある。
 メジャーカップを使って魔法瓶の容量を計るほづみくんの横でコーヒー豆のキャニスターを取り、にんまりと笑ってしまった。



 その週の半ば。
 休店日の朝食の時間は、まったりしている。
 私の勤め先がひとつ潰れたことで、家にいる日が増え、ほづみくんがそこに不定休を当ててくるようになったのだ。
 今朝のメニューは、最近ほづみくんがハマってるみっしり系サンドイッチ。
 作りたてやトーストサンドとは違って、前日に作り、一晩寝かせてパンと具材をしっかり馴染ませたサンドイッチだ。
 具材の水分で若干しっとりしたパンは、普通のサンドイッチ用より厚めに切ってある分、もっちりみっちりした食感。
 今日は厚切り卵と薄切りを重ねたハムをアンチョビ入り辛子マヨと一緒に挟んだ、シンプルだけと美味しいやつです。
 これにはちみつカフェオレと、ブロッコリーとにんじん、さつまいものスチームサラダにカリカリベーコンをオイルごとかけたやつ。毎日のことだけど、幸せな朝ごはんだ。
 リビングで、これも毎日同じスタイル、ほづみくんの膝の上でいただきます。そのうち、私のクッションなくなってそうでこわい。
「んー、アンチョビマヨ、おいしー」
「生臭くない?」
「ないない。カラシのおかげかな? ちょびっと大人味で、甘めの卵焼きとぴったり」
「よかった」
 嬉しそうに笑って、ほづみくんもかぶりつく。
 カフェオレを啜って、「今日さ」と切り出した。
「何も予定ってないよね?」
「ないよー。大学院も、完全オンラインだし、うちの分野だとオンラインは無理だからって開き直って課題レポートの講義、多いし」
 おかげさまで、書籍代が増えたし、パソコンで作業する時間も増えた。
 たいていほづみくんのそばでやっているので、旦那さんはご機嫌ですけども。
「ならさ、ちょっと長めの散歩、行かない?」
「長めの散歩?」
 なんのこっちゃと首をかしげると、にまっと笑う。
「散歩って言っても、現地までは車なんだけどね。前にちょっと話したことあると思うんだけど、仕入れ先の農家さんのそばに鈴蘭の群生地があるんだよ。あそこなら観光地でもなんでもないし、近隣住民がそもそも殆どいないし、どうかなーって」
「…花見?」
「桜も藤も終わっちゃって地面の花だけど」
「全然いいっ。行く!」
 花見も嬉しいけど、純粋な娯楽としての外出が久しぶりすぎて、散歩に行く前のわんこの気分だ。
「お弁当は? 作るの?」
「作るのもいいけど、ちょっと気になるパン屋があってさー。飲むものだけ持っていって、混み合う前にサッと買い物して行こうかと」
「いいね。普段買わないパン屋さんのパンも久しぶり」
「だよね。僕、ハード系のやつ、バリバリ食べたくって」
 ちょっと視線が遠い。
 この近所のパン屋さん、惣菜パンは美味しいんだけど、ハード系は昔ながらの日本の味なのだ。つまり、皮がやわらかい。
「なら、バターとかも持ってく?」
「そうしよっか。紙皿なんかもあれば便利かな。あ、桜子さん、何か読むもの持ってったほうがいいかも」
「読むものって…本とか?」
「うん。今日はリフレッシュのための外出だからさー。花見て食べて帰るんじゃなくて、しばらくのんびりぼんやりしたいじゃん」
「なるほど。なら、積読本から何か持ってく」
 ひとがいないなら、ゆっくりもできるだろう。
 オリーブオイルとベーコンの油がいい感じに絡んだブロッコリーを頬張る。ん、良い茹で加減です。瑞々しくて美味しい。
「このサラダ、美味しいねえ。野菜がいくらでも食べられる」
「だろー。ほうれん草にベーコンを炒めた油ごとかけるホットサラダがあるから、他の野菜でもできるんじゃないかなーって思ったんだよね」
「ほうれん草より食べ応えあって好きかも。にんじんとか、普通のドレッシングより甘味がわかるのがいいよね」
「でも、野菜嫌いなひとにはしっかり野菜の味するから、絶対ウケない」
「あー。だから店では出さないのね」
「シチューの野菜すらまるっと残すひとがいるんだもん…」
 まあ、うちのシチュー、肉食べるための料理だから。
 ちょっとしょんぼりしているほづみくんに身体を預けて、カフェオレを啜る。
 私の髪に頬を擦り寄せて、「はー…癒し…」と呟いているほづみくん自身は、私ほどストレスは溜めていない気がする。
 きっと私がしんどくなってるのわかってて、考えてくれたんだろうなあ。
「ほづみくん、大好き」
「え、唐突だけど嬉しい」
 笑って、額に唇を押しつける。
 うん、この生活、「ちょっとしんどい」くらいで済んでるの、間違いなく旦那さんのおかげです。


 大きい保温ポットにミルクティを入れて、ミネラルウォーターとバターやジャム、バゲットに挟めるちょっとした具材を詰めたバスケットも準備する。
 出かけるときって、ほづみくんが主導でサクサク進めてくれるから、とっても楽。
「一応陽射し避けの帽子と、念のためにブランケットも用意して……どうせ車だから、クッションも持ってっちゃおう」
 言いながら、コンパクトに荷物をまとめて、車に運んでしまった。
 私、日焼け止め塗りながら見てただけです。ごめん。
「よっし、これでオッケー。桜子さん、いける?」
「いけるー」
 今日は、雲ひとつない晴天で、車に乗るだけでウキウキする。
 農家さん方面へ向かう途中で、ほづみくんが車を止めたのは独立店舗のパン屋さんだった。
 看板には「Boulangerie」とあるから、フランス式のパン屋なのかもしれない。
 店舗前の駐車場に停めて入り口に向かうと、開け放した自動ドアからいい匂いがしてきた。
「結構広い」
「だろ。種類も多いらしいよ」
 一歩入ると、壁際にぐるっとカウンターが回って、パンが並び、店の真ん中には大きな楕円形のテーブルが鎮座している。
 「本日のおすすめ」と札が下がったそこには、こんがり焼けたパイやデニッシュがてんこ盛りだ。
 アルコールで手を消毒して、トレイとトングを取るだけでワクワクする。
 ほづみくんが、おすすめの札の前で早速足を止めた。
「あ、これ。ここのアップルパイ、すっごいらしいんだよ」
「すごいって、何が?」
「食感。もうザックザクのパリッパリで、最後のひと口まで音がするんだって」
「へーっ」
 四角いアップルパイをふたつ取り、気の向くままにパンをトレイに載せていく。
 カリカリメロンパンに、ソーセージと春キャベツをコッペパンに詰めたホットドッグ、アンズとアーモンドクリームのデニッシュとラグビーボール型のカレーパン。チキンのカレーソテーがたっぷり載った平べったいフランスパンも美味しそう。あ、アーモンドクリームとチョコのデニッシュとかある。
 吟味しながらも、食べたいものを選んで、手のひらに載るサイズの天然酵母のフィセル数種類の前で、考え込む。
「桜子さん、いちじくとクルミだって。食べる?」
「美味しそうだねえ。…ワイン欲しくならない?」
 今日はほづみくんが運転するから、ノンアルコールだ。
 でも、本人はあっさり首を振った。
「別に昼に全部食べなくても、家に帰ってから食べればいいんだよ」
「あ、そっか。なら、それと、そっちのフランボワーズとヘーゼルナッツのも食べたい」
「了解」
 笑いながら、端がぴんぴんに尖ったパンを取ったときだった。
「ただ今、バゲット焼きたてでーす」
 大きなトレイを抱えた店員さんが、店内に響く声で叫ぶ。
 私の斜め前、空っぽだったバスケットにドサドサといい色に焼けたバゲットが投入され、焼き立てパン特有の香ばしい匂いがいっぱいに広がった。
 ほづみくんの目が釘付け。
「あれ、買わないの?」
「買う」
 トングでしっかり長いバゲットを掴み、一本確保。
 いい加減、トレイに載せる余地がなくなってきたので、会計するためにレジに並んだ。
 すっかりお馴染みになったビニールカーテン越しに会計を済ませ、店を出る。
 途端に、ほづみくんが紙袋に手を伸ばし、はみ出していたバゲットの端をバリッとむしった。
「もう我慢できない。いただきます」
 マスクを外して、かぶりつく。
「やると思った。私もー」
 湯気が立つ熱いパンを手でちぎって、噛みつく。
 パリッパリの香ばしい皮と少し灰色かかったみっちりもっちりした中身のバゲットは、物足りないくらいの塩気でいくらでも食べられそう。
 店の入り口脇に立って、無言でバゲットを齧っている私たちを、入っていくお客さんがチラッと見ていく。
 お互い、むしった分を食べきり、マスクをしてからため息をついた。
「良いバゲットでした」
「うん。バランスよかったね。バターとジャム塗ったくっても美味そう」
 頷き合いながら、車に戻り、ふと気づいた。
 車のなかで食べればよかったのでは…?
 思ったけど、シートベルトを締めながらのほづみくんの言葉に考えを改めた。
「やっぱ、外で無造作につまみ食いすると、美味しさ二倍だね」
「ん、我慢できないで食べちゃう感じがいいよね」
 今は話しながらの食べ歩きはできないけど、食べている間は黙っていればいいわけだし。
 久しぶりに買い食いっぽいことして、楽しかったし。
 ふたりでにまにま笑って、改めて出発。
 
 うちの仕入れ先は乳製品と農作物、肉類と複数あって、ほづみくんが向かったのは主に野菜を仕入れている農場だった。
「ちょっと待っててね」
 農場の入り口で車を停め、家から持参した紙袋を持って、敷地に入っていく。
 しばらくして戻ってきたほづみくんの手には、紙袋の代わりに、瓶ジュースと牛乳瓶の袋があった。
「買い物?」
「貰いもの。鈴蘭の群生地って、ここの私有地なんだよ。前もって電話しておいたから、今日はお邪魔しますーって挨拶がてらケーキ渡したら、花見しながらどうぞって。牛乳は親戚の酪農家さんからの貰いものだって」
「えーっ、嬉しい。今度、お礼しなきゃね」
「こうやって、お礼の連鎖って続いてくんだよね…」
 話しながらエンジンをかけて、一度上り坂を上がって、下り坂を進む。
「なんか…森って感じだねえ」
 大きな木が多く、鬱蒼とまでは言わなくても、陽が遮られているところもあって、そこら辺の公園とは雰囲気が違う。
「すごいだろ。これ、全部私有地なんだからびっくりするよ」
 そうは言うが、季節ごとの美味しいものがとれる御厨所有の山とか、きっとここといい勝負か、勝負にならないかだと思う。
「このボンボンめ」
「え、なんでいきなり怒られてんの」
「おなかすいて不機嫌です。バゲットの残り、丸齧りしそう」
「もう着くから待って!」
 実際、二分もしないうちに停まった。
 ぽっかり拓けた場所が道の脇にあって、そこで車を降りると、水音がする。
 マスクを外し、一気に押し寄せる木や土の匂いに水っぽいものが混ざっているのを感じた。
「川?」
「小川かな。ほら、そこ」
 同じくマスクを外したほづみくんが指さした草むらの陰に、水に反射する陽の光が見えた。
「で、その川の向こうが、群生地」
「え?」
 どこ? と目を凝らし、息を呑んだ。
 水の境界の向こう側の大部分が、鈴蘭の大群生地だ。
 紡錘形の葉の影に隠れるようにして咲く小さな白い花。一度気づけば、辺り一面、鈴蘭の絨毯のようだった。
「すっ…ごい! まさに群生! 綺麗!」
「だろ。教えてもらったの、一昨年くらいだったんだけど、タイミング逃しててさ。今年はちょうどいい頃合いに満開だったから」
「ちょうどいいって…ゴールデンウィーク?」
「ぶー。今日、五月一日じゃん」
「……メーデー?」
「それもそうだけど、もーちょいロマンのあるやつ」
「ロマン?」
 頭のカレンダーをめくってみるけど、わからない。
 ほづみくん関係なら、フランスの話だと思うんだけど……あ。
「去年、キャンディくれたよね?」
「そうそう」
 嬉しそうに笑うから、正解らしい。
 すっかり忘れてたけど、去年、ミュゲのフレーバーキャンディをもらって食べた。
「じゃあ、あれだ、鈴蘭の日」
「せいかーい」
 Jour des Muguetsは、フランスの祝日らしいと聞いたことがある。
 愛情表現として、鈴蘭を送るのだ、とも。
「それで、連れてきてくれたんだ」
「ん…それに、僕的桜子さんを象徴する花だからね」
 誕生日に鈴蘭のブローチを贈ってくれた旦那さんは、照れくさそうに笑った。
 ぎゅっと腕に抱きつく。
「ありがと」
「どういたしまして」
 頬にキスをして、笑い合う。
「ちょっと歩いてみる?」
「うんっ」
 車を置いた場所から小川を跨ぎ、鈴蘭が咲いている側に移動する。
 本当に久しぶりに、マスクなしで深呼吸を繰り返した。
 それだけでウキウキしながら歩いていくと、なんとなく株が分かれているのがわかる。
「道ってほどじゃないけど、足の踏み場がないって感じでもないんだね」
「そうだね。フランスで見たのは、本気で絨毯みたいだったけど…おかげで、摘むのが大変だった」
「摘む…って、なんで?」
「小遣い稼ぎ」
 予想外にも程がある。
 ディケンズか何かで、ロンドンの貧民層の子どもたちがクリスマスには郊外までツリー用の木や宿木を取りに行って売るって話を読んだことがあるけど、フランスバージョンは鈴蘭なんだろうか。
「桜子さん、おもしろい顔になってる」
「だって、鈴蘭で小遣い稼ぎって…御厨の家で? って思うし、摘んだ鈴蘭でどうやってお金稼ぐのがわかんないし」
「うちの親、金にはシビアだったから、わりと弟とふたりで頑張ってたよ」
 まじか。
 私の手を握って、ほづみくんは切れ長の目で遠くを見る。
「もうさあ…自転車で郊外の森まで漕いで行って、弟とふたり、必死こいて鈴蘭摘みまくるんだよ…腰が痛いのなんの」
「…大変だったのね」
 足元の鈴蘭は、靴を覆うような高さで揺れている。
 これを綺麗に摘もうと思ったら、そりゃー大変だろう。
 でも、ふと気になった。
「ねえ、売るって、どこで?」
 花屋に買い取ってもらうのかと思ったんだけど、話ぶりからなんとなく違うような気がしたのだ。
 案の定。
「路上」
「おおう」
 ほづみくんは笑って、その場にしゃがみ込んだ。
 一輪の鈴蘭の根元に近いところを指差して、「この辺から」と指を動かす。
「こう切ると、花と葉っぱが綺麗に分かれるんだよ。で、それを花がよく見えるように束ね直して、売る。鈴蘭の日は、誰がどこで鈴蘭を売ってもいい日だからね」
「そうなの?」
「そ。ついでにこの日、鈴蘭を売って稼いだ分は非課税」
「太っ腹!」
 そりゃーガンガン売るわ。
 ほづみくんの横にしゃがみ込んで、しげしげと白い花を見つめる。
 縁が割れて、くるっと反り返った花が連なっているのが可愛い。風が吹くと鈴のように揺れて、ほんのりとレモンが混じった百合のような匂いがする。
「だいたい、二輪で二ユーロくらいで売ってるんだけど、それだと結構な数がないとまとまった額にならないし、周りにライバルいっぱいいるし。で、弟と考えて、見栄えのするブーケを作ることにしたんだよ」
「数増やしたとか?」
「それと、束ね方だね。葉っぱ自体で花に見えるように束ねて、その真ん中から鈴蘭が綺麗に見えるようにしたんだ。で、単価を上げた」
「成功したの?」
「したよー。売る場所も工夫したしね。高級住宅地で昼前から売ると、めちゃくちゃ売れた」
「なんで?」
「やっぱ平均所得が高いから、数ユーロのことなら見栄えがいいのを買うひとが多くて、早い時間のほうがまだ買ってないひとが多い」
「なるほど……そんだけ商才あるのに、なんでうちの店、二年も閑古鳥に?」
「…中長期的視野がないんだよ」
 つらい。
 鳥の声が聞こえる森の中に、すんごい微妙な空気が流れてしまった。
 気を取り直して、陽が差し込む鈴蘭の間をのんびりと歩く。
「気持ちいいねえ。空気いいし、ひともいないし」
「私有地だからこそだよね。ここ、農場のほうに桜も咲いてるから、自分ちで花見したって言ってた」
「小松崎さんちみたいだね」
「…農家でもない小松崎さんちが、自宅で花見できるのがおかしいんだよ」
「そういや、結婚披露宴、自宅でガーデンパーティやったって聞いた」
「……」
「御厨のおうちでも、できそうだよね」
「……両親の結婚式は、あそこでやったんだって」
 小松崎さんちをどうこう言えんな。
 手を繋いだまま、ぐるっと周りを散策して鈴蘭を楽しんでから、車に戻った。
「さて。じゃあ、準備しよっか」
「ごはんの?」
「それと、ゆっくり寛ぐための」
 言うと、後部ドアを開けて、積んであった段箱から小さめのゴルフバッグのようなものを取り出し、ジッパーを開けて、折り畳んだ棒のようなものを取り出した。
 それをカシャンカシャンと伸ばして、あっという間に広げてしまう。
 テントでも張れそうな、ブランコの支柱のような造形で、かなり大きい。
「この方向でいいかな。桜子さん、ちょっとこれの端っこ持ってて」
 スタンドのようなものを地面に設置して、やっぱり後部座席から折り畳んだ布を出し、私が指示された箇所を両手で持つと、バサッと広げた。
 二メートルはありそうな布で、幅もシングルベッドくらい。
 その端の輪っかをスタンドに引っ掛け、私が持っていた端も反対側にかけてしまうと、さすがに何かわかった。
「ハンモック!」
 落ち着いた空色のハンモックの支柱をポンポン叩いて、ほづみくんが得意げに笑う。
「いいだろ。いづみ兄さんに借りたんだ」
「いづみさん、アウトドア好きなの?」
 あんなに簡単に組み立てられてしまうのかと驚きながら、人生初のハンモックをつついて揺らしてみる。
「まあ、嫌いじゃないみたいだけど。これは家で使ってたやつ。昼寝とか考えごとするのにいいんだって。この間、新しいの買ったから、使うかーって連絡来てさ。うち、屋上あるし、あってもいいかと」
「いいと思う…てか、使ったことないけど」
「じゃあ、乗ってみる?」
「うんっ」
 早速、と靴を脱いで足を上げかけたら、「ストップ」と止められた。
「足から乗ると、バランス崩すんだよ。後ろ向きにお尻から乗って。こうやって、布を広げて」
 布が動かないように押さえてくれている間に、恐る恐る椅子に座るように腰を下ろす。
「うっきゃ…」
 ぐらっと揺れて、後ろにひっくり返りそうになった。
 ほづみくんが二の腕を掴んでくれなかったら、一回転して落ちてたかも、とヒヤリとするが、「大丈夫、そのまま、身体倒してみて」と言われて、ゆっくり背中を布につけるように倒すと、ゆらっと揺れて頭上の枝が見えた。
「ふおおお」
「どう?」
「なんか……浮いてるみたいで楽しい」
 足がぶらんと出てるけど、ゆらゆらして気持ちいい。
「よっし、じゃあ僕も」
 私の横にゴロンと転がったほづみくんが、「おー」と声を上げた。
「いいねえ」
「ねえ。…これ、大人ふたりが乗っても大丈夫?」
「うん。三百キロくらいいけるらしいよ」
 もしや、かづみさんとふたりで使ってたんだろうか…と考えかけて、強制的に終了した。
 だめだ、やめとけ、怪我するぞ。
 すぐ横にある旦那さんの顔に、意識を切り替える。
「ごはん食べて、ここに転がったら昼寝できそうだね」
「それ狙って持ってきました。クッションもブランケットもあるし」
「それで準備よかったのか」
 ほづみくんに助けてもらって起き上がり、これまた準備よく持ってきていた折り畳みの小型テーブルにパンとパン切りナイフにまな板がわりの古新聞、バターなんかと自家製ミルクティを並べる。さっきもらったジュースもあるから、かなり豪華だ。
 ハンモックを傾けて、ベンチのように並んで座り、いただきますと手を合わせた。
 まずは、お店お勧めのアップルパイにかじりつく。
 サクザクバリッと音がして、ほづみくんと顔を見合わせた。
 かじり取ったひと口を咀嚼しても、ザクザクと口の中から音がする。
 同時に、過剰ではないバターの香りと香ばしいパイ生地の風味、酸味が残るりんごのフィリングが心地よく合わさって、堪らない。
「…確かにすっごい」
「…こんだけザクパリなパイ生地、どうやって作るんだ」
「食感だけじゃなくて、味もすっごいいいよ。美味しい」
 ザクザク音を立てながら、どんどん食べてしまう。
 パイ生地が落ちないように気をつけていたけど、足元に小さい鳥が降りてきてはかけらを啄んでいくのに気づいて、必要以上に神経を使うのはやめた。
 紙コップに入れたミルクティをぐいっと飲んで、ぷはーと息をつく。
「んまーい!」
「くっそー…ワイン飲みたいな。辛口の白…いや、プロセッコのブリュットとか」
「今度は、あの店のパン、いっぱい買って帰って、家で飲もうよ。ほづみくんのおつまみも一緒だったら、絶対もっと美味しいし」
「うん」
 嬉しそうににまっと笑って、「次、どれいく?」とテーブルに手を伸ばす。
「カレーパン!」
「よっし」
 小型のパン切りナイフで、手際よく真っ二つ。古新聞がいい感じに油を吸ってくれてる。
 ほづみくん、小洒落たカッティングボードとか持ってきそうなのに、汚れても最後は丸めてゴミ袋に突っ込めばいいからと、古新聞を愛用するのだ。
 綺麗な断面には、やっぱり綺麗な卵の断面が。
「あ、これ、ゆで卵入ってる」
「確か、煮卵入りって書いてなかったっけ?」
「…見てなかった」
 冷めてもカリッと美味しいカレーパンも秒速で消えてしまい、次々にパンを平らげていく。残っていたバケットは縦に割って、それぞれ好きなものを豪快に塗りたくって食べることにした。
 手前にだけバターを塗って、ハムを載せてかじりつく。冷めて、皮がさらにしっかりしたバゲットは、香ばしさが増してたまらない。バターのまろやかさが加わって、ハムの塩気とも相性抜群だ。
「ん、ん、オーソドックスに美味しい」
「桜子さん、クリームチーズとオリーブもいける」
「…私、絶対ワイン飲みたくなると思って避けてるんだよね、その組み合わせ」
「もっと早く言って。今、紅茶で無理やり欲求抑え込んでるのに」
 美味しいもの食べるのに忙しくて、全然鈴蘭見てないな、と思う。
 バゲットをもぐもぐしながら、目の前に広がる鈴蘭の絨毯に視線を向けた。
 陽射しは強いけど、ここは木陰でちょうどいい感じだし、ときどき涼しい風が抜けて、どこか青臭さを感じる鈴蘭の匂いを運んでくる。枝の間から射し込む日光に照らされたところの鈴蘭は、今にも音を立てそうに見えた。
「桜子さん? バゲット咥えて、視線遠いよ?」
 ひょいと覗き込まれて、毎日見ても見飽きないイケメンに焦点を合わせる。
「…なんか、身体に押し込んでたストレスがぶわわーって抜けてくなーって魂飛ばしてた」
「魂飛んでも、口はしっかり動いてるあたり、さすがだけども」
 笑って、今度はラズベリージャムを塗ったバゲットに噛みつく。
「でも、わかるなー。何度でも言うけどさ、桜子さんが毎日一緒だからストレスなんてろくにないんだけど……こういう、自分の周りを囲ってるものから解放されたような場所に来ると、結構しんどかったのかもって思う」
「ああ…うん」
 完全に一致しているかはわからないけれど、確かにずっと私たちの周りにあった囲いみたいなものが、今はないと感じる。
 飛沫防止の透明な衝立や、レジの前にぶら下がったビニルカーテンみたいなそれは、その場所から逃げようと思えば逃げられるけど、なんとなく躊躇ってしまう空気を持っている。
 向こうが見えてるから、いいでしょ。
 あなたひとりじゃないんだから、我慢できるでしょ。
 同調圧力とまでは言わないけれど、周りの目を気にして生活している息苦しさは、確かにある。
「間違いなく、自分が感染したくないし、ほづみくんにも絶対うつしたくないって思ってるから、いろいろ我慢してるんだけど」
「うん」
「だんだん、自分の意思なのか、周りに強制されてるのか、曖昧になってしんどいよね」
「うん」
 こてんと頭を傾けると、ほづみくんも体重を預けてきて、ハンモックが揺れた。
「こういう、ひとがいないとこで、また美味しいもの食べたいね」
「いいね。御厨の山とか、ピクニック向いてないの?」
「……栗林トレッキングとかなら、できる」
「……痛そう」
 笑いながら、バゲットを齧る。
 ときどき、大きな蝶が飛んできたり、頭の上で何かが枝から枝に飛び移る音がしたり、そんなものを眺めたり、耳を澄ませたりしながら、ミルクティを啜った。
 一緒に暮らし始めたときから、ほづみくんと共有する沈黙は心地良い。
 家で楽しむ分と甘いデニッシュだけ残して平らげて、あとはのんびりとハンモックに寝そべる。
「ハンモックってまっすぐ寝るんじゃないんだねえ」
「ダメってわけじゃないけど、腰が沈みすぎて長時間はしんどいかも。斜めのほうが安定するし」
 持ってきた本を読んで、ちょっとうとうとして、気がついたらブランケットにふたりで包まっていた。
 こんな不安定な場所でもしっかり私を抱えて本を読んでいたほづみくんが、「あ、起きた?」と顔を覗き込む。
「ん…寝てた?」
「一時間ないくらいだよ。気持ちよさそうだった」
「なんか…肺の中から綺麗になってくみたいだなーとか考えてたら、急に眠気が」
「リラックス効果抜群だね」
 野外なのに、毛布とほづみくんのおかげでぬくぬくだ。
 ぐぐっと腕を伸ばして伸びをすると、少しシャッキリした。
「ちょっと冷えてきた?」
 身体は暖かいけど、顔と毛布から出した手はひんやりする。
「さっきから、日が雲に隠れたからかな。…あっついコーヒー、飲みたくない?」
 少し喉が渇いているし、こんなところで熱いコーヒーなんて飲んだら、そりゃ美味しいだろうけども。
「この辺、お店あるの?」
 入り口からここに来て、今の今まで、動物の気配しか感じない。
 それに、もうちょっとここでゆっくりしたい気持ちもあった。
 ほづみくんは、それを見抜いているみたいに、「ふふふ」と笑う。
「まだ隠してるお宝があるんだ。ちょっと待ってて」
 ハンモックを揺らして起き上がり、車に向かう。
 車内に上半身を突っ込んでいたと思ったら、「ジャーン!」と両手に掴んだものをこちらに掲げて見せた。
「それ……は?」
「あれ」
 拍子抜けした顔で笑って、ハンモックに戻ってきた。
 反動で大きく揺れるけど、私は転がったままだから気持ちいいくらい。
「こっちがキャンプ用バーナーで、こっちのステンレスポットみたいなのがパーコレーターって言うコーヒーを淹れる道具」
「え…じゃあ、ここで淹れるってこと?」
「そうでーす。て言っても、これも兄さんからの借り物だけどね。ま、見てて」
 頭のてっぺんが平たい蛸をひっくり返したみたいなフォルムのバーナーをテーブルに置いて、テキパキと準備を進める。
 私も起き上がって、興味津々で覗き込んだ。
 だって、キャンプとかしたことないし。
「桜子さん、豆挽いてくれる? 今日は中挽きで」
「りょーかーい」
 店のカウンターで使っている手動のミルと、店で使っている豆まで持ってきていたらしい。私が思ってた以上に準備万端だった。
 ガリガリ豆を挽いている間に、ほづみくんはずんぐりしたフォルムのパーコレーターの蓋を開け、脚がついた受け皿のようなものを取り出して、本体にミネラルウォーターを入れてバーナーに載せた。
 沸騰するのを待ちながら、広げた新聞紙の上で受け皿に挽いた豆を入れて、穴がいっぱい空いた蓋をする。
「これ、どうするの?」
「湯が沸いたら、これを入れて加熱するんだ。要は、コーヒー豆を直接入れて煮ちゃうわけ」
「…素朴な疑問なんだけど、美味しいの?」
 えぐみとかすごそう、と思ってしまう。
 だけど、ほづみくんは「大丈夫」と頷いた。
「これでも本職だよ?」
「あなた、フレンチシェフでは」
「そっちじゃなくて、桜子さんに美味しいもの食べさせる専門家」
「それが本職でいいのか」
「当たり前じゃん」
 平然と言うのに、これ以上どうやってツッコめばいいのか本気で悩んだけど、パーコレーターから湯気が上がってきたので、考えるのをやめた。
 うん、本人がそれでいいならいいわ。
「さて、じゃあ一度火を止めて……バスケットを戻しまーす」
「それ、バスケットって言うんだ」
「うん。バスケットって言うより、コンポートみたいだけどね」
 もう一度蓋を閉めて、火加減を調節する。
 少しずつ、シュンシュンと音がして、ふと蓋のつまみが透明なことに気づいた。
「ここ、透明なんだね」
「そうそう、沸騰した湯がそこに当たって、色がわかるだろ。それで、コーヒーの抽出度を見るんだよ」
「へーっ」
 おもしろく見ていると、ときどき湯が上がってくるようになった。
 見物気分の私とは別に、真剣な目で観察していたほづみくんが、「そろそろかな」と呟いて、火を絞る。時計で時間を計って、火から下ろした。
 とっくにコーヒーの香りが漂っていて、なんだか幸せな気分。
「もうちょい待って。豆が少し沈澱して落ち着くまで」
「はーい」
 残りのパンからアーモンドクリームのデニッシュを出して、ふたつに割り、ほづみくんがもらってきた牛乳も準備する。
 並んでハンモックに座り、コーヒーの出来上がりを待った。
「なんか、いいねえ」
「ん?」
「時間を気にしないで、コーヒーができるのぼんやり待ってるなんて、普段の生活ではなかなかないでしょ」
「確かに」
「ソロキャンプとか人気だけど、あれって、こういうのを楽しむためなのかも」
「…桜子さん、ソロキャンだけはダメだからね?」
 いきなり…でもないけど、何を言うか。
 でも、ほづみくんは思いがけず真面目な顔だ。
「ひとり飯くらいはまだ血涙流して我慢できなくもないけど、ソロキャンは冗談抜きで身の危険もあるんだから。女性ひとりだから不審者に狙われやすいとか、自然災害に遭ったときに助かる確率が下がるとか、不安要素しかない」
「…大丈夫だよ。私、ひとりじゃテントも張れないんだから」
 真剣に心配してくれる旦那さんの肩にもたれる。
「それに、お店や映画館でひとりになるのは平気だけど、こんな自然の中じゃ、ひとりだと怖いもん」
「…そう?」
「うん。だから、また一緒にしようね。なんちゃってキャンプモドキ」
 本気のキャンパーからしたら、モドキにもならんって怒られそうなもんだけども。
 だけど、ほづみくんは嬉しそうに笑って頷いた。
 豆が沈んだのを見計らって、紙コップに注ぎわけ、ふたり揃って鼻を突っ込むように匂いを嗅ぐ。
「なんか…濃い?」
「うん。野趣あふれるというか、コーヒーって豆なんだーって再認識する匂いだよね」
 でもまあ、ほづみくんが作ったものなら、飲めないってことはないだろうと、おそるおそる口をつけた。
 お……おお…………おおお〜。
「どう?」
「…コーヒーの豆! って味がする」
「それは…どうなの?」
「結論だけ言うなら、美味しい。色が濃いから苦いのかと思ってたんだけど、なんかほんのり甘い」
「やった。成功かな」
 ホッとしたように笑って、やっとほづみくんもひと口飲んだ。
 納得したように頷く。
「うん、そこまでえぐみ出てないし、ちゃんとコーヒーの焙煎香もあるし、悪くない」
「むしろ、旨味は濃い気がする。これ、牛乳入れたら、やっぱ味変わるの?」
「普通のコーヒーより油脂分が多いから、まったり感が違うかも」
 試しに瓶から少しだけ牛乳を入れてみる。
 うお、カフェオレじゃないのに、濃厚。
「これ、美味しいねえ」
「ジェネリックカフェオレ感あるよね」
 熱々のコーヒーを楽しみ、アーモンドクリームが香ばしくて美味しいデニッシュを平げると、帰り支度をするのにちょうどいい時間だった。
 名残惜しいけど、仕方ない。
 ゴミをまとめ、テーブルやハンモックを片付け、忘れものや片付け忘れたものがないか確認する。
 段ボール箱にコーヒー一式を仕舞ったほづみくんがドアを閉め、こちらを振り返った。
「桜子さん、最後にもっかい鈴蘭見て行かない?」
「そだね」
 小川を跨いで、群生する鈴蘭を眺める。
 岸辺と呼んでいいものか悩むくらいのそこにも、水面を覆うように葉が茂って涼しげだ。
 木の枝が少なくて日当たりがいいからか、他の場所より花つきがよく、葉っぱも大きい。
 これだけ生えてると、生存競争も激しいんだろうなあ。
 指でちょいちょい白い花をつついていると、ほづみくんが、「この辺のがいいかな」と呟いた。
「なに?」
「うん」
 返事になっとらん、と思ったけど、ポケットから花切りバサミを取り出したので、驚いた。
 いつも店の前庭の植物やハーブの手入れをするのに使っているやつだ。
 しゃがみ込んで、慣れた手つきで切っていく。
 小川の水で水切りすると、花と葉を分けて、葉が外を向いて反り返るように束ね、花をぐるりと取り囲んでまとめた。
 さすが、手際がいい。
 感心していると、今度はジーンズのポケットから輪ゴムを出して、手早く留めた。
「でーきた」
「おお〜…今さらだけど、摘んでいいの?」
「もちろん。ちゃんと許可もらってるよ。いっくらでも生えてるから、好きなだけ持ってけって」
「豪快」
 確かに、よく見る建売住宅十軒は余裕で建てられそうな面積いっぱいに咲いてるから、少しくらいのことはどうでもよくなるのかもしれないけども。
 ほづみくんは立ち上がると、私に鈴蘭を恭しく差し出した。
「で、これは桜子さんにプレゼント」
「え…」
「鈴蘭の日だからね。最愛の奥さんにあげなくてどうするんだって感じじゃん」
「…ありがとう」
 豪華に二十本以上の鈴蘭で作られたブーケを受け取る。
「本当は、包装紙とかリボンも持ってこようかと思ったんだけど、僕、その辺はど不器用だから」
「全然。鈴蘭だけで十分綺麗だもん」
 それも、摘むところから目の前での実演付きだ。
 照れくさそうなほづみくんを見上げると、我ながらだらしなく顔が緩んだ。
「嬉しい」
「よかったー。や、実はネットとかで買おうかと思ってたんだけど、どれもピンとこなくって。自画自賛だけど、僕が作ったほうがいいのができるのにって思ったら我慢できなかったんだ」
「うん。鈴蘭の花束自体、あんま見たことないけど…これ、結婚式のブーケにもできそう」
 清楚で可愛くて、でも華やか。
 こんな花が私のイメージだなんて、あばたもえくぼどころじゃないけど。
「ほんとにありがとう」
「僕もありがとう。桜子さんが奥さんじゃなかったら、コロナ時代、もっとずっとしんどかっただろうなって思うし」
「私も、それ思った。いや、経済的な意味でもだけど、まずはメンタル荒んで耐えられなかったかも」
「そこは嘘でもいいから、心の支えになってるとか言ってよー」
「なってるなってる。めちゃくちゃ立派な…ほら、朝顔とかが巻きついてるやつみたいに」
「…あれ、台風ですぐに吹っ飛んでくイメージなんだけど」
 情けなさそうに眉を下げるから笑ってしまう。
「えー、私がどんなにしがみついても、がっちり守ってくれてる感じだよ?」
「そうなの…?」
「そうなのー」
 ほづみくんの腕に腕を回して、しがみつく。
 鈴蘭の間を歩き出そうとすると、「あ」と声を上げた。
「桜子さん、ちょい待って。そのままだと、花持ち悪いから」
 これまたポケットからティッシュと、なぜか畳んだアルミホイルを取り出した。
 …いったい、何がどれだけ詰まってるんだろ。
 ぺったんこスリムなポケットを凝視する私の前で、小川の水でティッシュを濡らし、鈴蘭の花束の切り口に当てがった。これまた器用にホイルでくるっと包む。
「これでよし」
「ほづみくん、花屋さんにもなれそうだね」
「えー、桜子さんにおいしーってニコニコしてもらえないからカフェ屋でいいよ」
 あっさり言って、私の手を握る。
 少しだけ傾いた陽射しに照らされる鈴蘭絨毯の間を、のんびりと歩いた。
「今日の夕飯なんだけどー」
「うん」
「バータイムに出そうと思って準備してたのに、自粛要請と酒類提供制限のせいで無駄になっちゃった地鶏がありまして」
「ほう」
「ハラタツから、丸ごとマリネ液に漬けてるんですよ」
「ほほう」
「あれをこんがりローストして、ワイン開けませんか」
「開けます!」
 シュタッと手を挙げて即答。
 損益が気になるけど、美味しいものは正義だし。
「よっし。つけ合わせは白インゲンとー、にんじんとー、」
「ジャガイモも焼いて欲しい」
「あ、イモはポテサラにしようと思ってるんだけど。潰したやつじゃなくて、ゴロゴロイモをマヨとマスタードとオリーブペーストで和えたやつ」
「それがいいです!」
 楽しくて美味しい話をしながら、鈴蘭の匂いを吸い込むと、ここしばらく忘れていた全身に満ちてあふれるような幸福感を覚えた。
 毎日、大好きな旦那さんと一緒で、ごはんも美味しくて、自由に外で過ごせないこと以外、これといった不自由はないから、ちょっとした楽しいことや嬉しいことはあるんだけど。
「地鶏、トーストに挟んでも美味しい?」
「美味いと思うよ。冷凍してる食パンあるし」
「ポテサラとロースト挟んじゃおっかなー」
「あ、それ、絶対美味い。桜子さん、そういうの、本当に上手いよね」
「食いしん坊だからね!」
 楽に呼吸して、綺麗なものを見て、楽しいことだけ考えてって、重要なんだな。
 ブーケ片手に繋いだ手をぶんぶん振って、軽い足取りで歩いていく。
「桜子さん、楽しそう」
「楽しいよー。マスクしなくていいし、パンもコーヒーも美味しかったし、ほづみくんが一緒だし」
「僕、最後?」
 ちょっと拗ねたような顔をするのが、めんどくさ可愛い。
「日本語は、一番最後に大事なもの持ってくるんだよ」
「えー?」
「だって、『私は、食事に行き』まで聞いても、肝心なとこがわかんないでしょ」
「どゆ意味?」
「行きます、と、行きました、と、行きませんでした、じゃ全然違うじゃん」
「あ、なるほど」
「英語やフランス語は、たいてい主語のすぐあとに動詞が来て、そこで時制や肯定否定がわかるようになってるから、大事なことは最初にわかるって言われるんだけどね」
「へーっ」
 なんとなく、前の生活が戻ってきたみたいな気がした。
 たっぷりゆっくり鈴蘭を楽しんで、車に戻る。
 シートベルトをして、来た道を戻る。やっぱり名残惜しい気はしたけど、片付けをしたときのような悲しいような寂しさは感じなかった。
「また、お邪魔させてもらいたいね」
「うん」
 ハンドルを握るほづみくんが、強く頷いた。
 行きは降りだった坂を登りながら、「毎月さ」と続ける。
「一回くらい、どこか息抜きに行こうよ。今日みたいに車で、他にひとがいないとこ」
「そんなとこ、ある?」
「ここの農家さんの敷地内、季節の花が多いって言ってたし、御厨の山も、ちゃんと探せばピクニックできるとこはあるはず。文字通り、マスク外して、思いっきり深呼吸しないと、毎日仕事頑張れないじゃん」
「それは、うん」
「もう一年以上、自粛して頑張ってるんだから、それくらい自分たちに許してあげよ。でないと、桜子さんも僕も、ストレスで死ぬ」
 キッパリ言って、ハンドルをゆっくりと切る。
 今度は坂を降って、農園の入り口を目指した。
「だから、来月もどっかでピクニックしよう」
「…うん。そだね。きっと、そのほうがいいと思う」
 でないと、今日自覚したみたいに、幸せの感度が鈍ってしまう。
 膝に乗せた鈴蘭を触ると、ヒヤリと冷たい。
「次は果物狩りとか行きたいなー。でも、ひと多いか」
「…実はですね」
 急に変わった声のトーンに隣を見ると、ほづみくんの視線が不自然なほどガッチリ前に固定されている。
「三月くらいに、農家さんから自分とこの分の収穫兼ねて、いちご狩りしないかってお声がけがあったんですよ」
「…それで?」
「いや…でも、自粛要請中だったし、僕らだけって言っても、農家さんもいるし、桜子さん感染しないようにってピリピリしてたし、断ったんだけど」
「なんで断るのー!? そんなの、マスクして摘んで、食べたらマスクすればいいじゃん!」
 いちご狩り!
 それも農家さんが卸すようないちごの!
 運転中じゃなかったら、首締め上げたわ!
「ごめんってー!」
「今度からちゃんと訊いて! でないとひとりで寝るからね!」
「ごめんっ、ごめんなさい! 全部相談します!」
「とりあえず、今日はいいワイン開けてよねっ」
「喜んでー!」
 行きとは打って変わってキャイキャイ声を上げる。

 うん、しんどいことも多いけど、まだまだ大丈夫。
 何はともあれ、今日は宴会だ。

 

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