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告知しなくてごめんねのコバナシ。

 タイトル通り、「自律〜」コミカライズ3の告知すっ飛ばしたお詫びのような、反省文のようなコバナシ。



 それは、いつものように樹と雨芽を連れて、御厨さんの店に行ったときのことだった。

「なあ、店長さんって、目玉焼きに何かけて食う?」
 カウンター席の男性客が、コーヒーを淹れている御厨さんに話しかけるのが聞こえた。
 カウンターに一番近いテーブル席だから、というのもあるが、男性の地声が大きいことも理由だ。
 俺の位置からだと、後方から横顔を見る形になるが、十分に判別できる。
 あれは……商店街の、豆腐屋だったか、八百屋だったか。
 俺と同年代の、時々ここでエンカウントする顔で、人当たりよく見せている御厨さんや、本当に人当たりのいい奥さんが珍しくあからさまに塩対応する相手だから記憶にうっすらと残っている。
 プリンに挑む雨芽とシャインマスカットのミニパフェを頬張る樹を眺めながら、耳に入ってくる声をなんとなく聞き続ける。
「塩か醤油ですね」
「ケチャップやマヨは?」
「僕はかけませんけど、別にいいんじゃないですか」
「えー…変だろ」
 チラッと横に座る樹を見る。
 近ごろ、目玉焼きにもゆで卵にもケチャップ派なのだ。
 幸い、夢中でマスカットを頬張っている最中で、聞いていないようだ。
「彼女が目玉焼きにマヨネーズつけて食べるって言うんだけどさあ、そんなんありかって言ったら喧嘩になったんだよ」
「そりゃ自分が美味しいと思ってるもんを否定されたら、腹立つでしょうよ。第一、彼女さんがマヨつけようとタバスコかけようと、橋本さんには関係ないんだし」
「あるって。味覚合わないのに結婚したら、悲劇だって言うじゃん」
「結婚できてから心配すればいいんですよ。三秒後には、もうつき合いきれないって縁切りメール来てるかもしれないんだから」
「縁起でもないからやめて」
 御厨さん、なかなかの切れ味だな。
 コーヒーを啜り、プリン相手に奮闘している雨芽を手伝う。
「ほれ、あーん」
「あー」
 皿の隅に追いやられていたかけらをスプーンで掬って口に入れてやると、にまーと笑う。最近、妹分よりヘタレに似てきているような気がするんだが。
 中身は似るなよと思いつつ、手と顔の汚れがそろそろ限界を迎えそうな樹のためにウェットティッシュの袋を破いたときだった。
「お待たせしました。バゲットサンドとにんじんサラダのセットです」
 御厨さんの奥さんが、大きめの皿を手に立っていた。
 このひと、気配を消しているわけではないが、店内での移動が機敏すぎて、ときどきドキッとさせられる。
「ありがとうございます」
「今日のパテ、秋冬に向けてバランス変えてるので、ちょっと印象が違うかもしれません」
「重めになってるってことですか」
「それと、松の実とか入れて風味が変わるようにしたんです」
 にこにこと一通り説明して、樹たちにも声をかけ、カウンターに戻っていく。
 美樹も言ってたが、そつがないというか、気配りが上手いひとだ。
 皮が香ばしいバゲットに切れ込みを入れ、分厚いパテと野菜を詰め込んだサンドは、かなりのボリュームだが、簡単に平らげられるくらい美味い。
 付け合わせのにんじんサラダも、何をどうすればこれだけ美味くなるのか不思議になる美味さだ。前に美樹が食べて感動していたし、今も向かいから樹が虎視眈々と狙っている。
「ぱぱ、ぼくもさらだほしー」
「…ひと口だけだぞ」
「うめも」
「…ひと口な」
 各々手を伸ばしてくる子どもたちを牽制しつつ、千切りにんじんをサンドに押し込んで齧りつく。
 肉の味と旨味が濃厚なパテとバルサミコ、にんじんサラダのオリエンタルな味が上手く調和して、ドレッシングが染み込んだパンだけで楽しめるくらい美味い。
 あー、昼飯抜いてきた甲斐があった。ワイン飲めないのが心底惜しい。
 しみじみしながら、コーヒー片手に松の実の食感がいいアクセントになっているパテの味を楽しんでいたら、またあの声が聞こえた。
「あ、桜子ちゃん。目玉焼きに…」
「砂糖かけようがニョクマムに浸そうが、橋本さんには関係ないし、卵サンド食う男が目玉焼きにマヨくらいでグダグダ言わないでください」
 …あのおっさん、何をどうしたら、あの奥さんにあれだけ塩対応されるんだ。
 テーブルから回収した食器をテキパキと片付ける顔は無表情で、隣に立つ御厨さんも完全に空気だ。
 ありゃあ、奥さんに余計なことして怒らせたって感じだな。
「桜子ちゃん、しょっぺえ」
「橋本さんに甘くしても、何もいいことないですから」
「豆腐おまけするぞ」
「情弱の橋本さんは知らないかもですけど、今どき、美味しい豆腐はスーパーでもデパ地下でも買えるし、おまけしてもらわなくてもいっぱい食べたければ自分で買います」
 素っ気なく言って、重ねた食器を手に厨房へと引っ込んでしまった。
「なんであんなキッツイんだろうなー」
「橋本さん、胸に手を当てるくらいじゃわからないでしょうから、この肉切り包丁使っていいんで心臓握りしめて考えてみたらいいと思いますよ」
「死ぬじゃん」
 とりあえず、あの男が奥さんに碌でもないことをしたってことは理解した。
 触らぬ神に祟りなしと決め込んで、そわそわしている樹と雨芽の口にサラダを入れてやる。
「おいしーっ」
「おいちーねえ」
「美味いよなあ」
 ただ、結構大人好みの味というか、子どもが好みそうなシンプルな味付けではないとも思う。ふたりとも、どんな大人になるんだか。
 そう思ったとき、ふっと何かを思い出しそうになった。
 あれ……なんだったか……目玉焼き………美樹と、話をしたような気がする。

『別に、好きなもんつけて食べればいいのよ。死ぬわけじゃなし』

 あ。
 思い出した。


 美樹と樹と暮らし始めて、二日目だったか、三日目だったか。
 とにかく、なんとか同居に漕ぎ着けたはいいものの、俺も美樹も、お互いに身の置きどころと相手との距離感に戸惑っていたころだ。
 その日の朝食は、当時の俺でも失敗せずに作れる数少ないレパートリー、目玉焼きだった。

「いただきまーす」
 行儀良く手を合わせた樹が、キョロッとダイニングテーブルの上を見回した。
 何かを探しているようだが、塩も醤油も目の前にある。もしかして、ケチャップとかソース派なんだろうか、と思ったら。
「まま、ふりかけなーい」
「あ、本当だ。ちょっと待って、持ってくるから」
 身軽に立ち上がってカウンターに入っていく美樹を眺め、正直困惑した。
 ふりかけって…何にかけるんだ。
 手に持ったままのトーストから目玉焼き、温野菜のサラダと視線を動かす。
「はい、ふりかけ」
「ありがとーございまーす」
 一回分を個包装したやつを樹に渡した美樹に尋ねる前に、樹が袋を破って中身を目玉焼きに空けた。
 え!?
 幼児にしては器用にシャカシャカと振りかけて、目玉焼きに箸を伸ばす。
 口に入れて、「おいしー」と笑う顔は可愛い。可愛いんだが。
「目玉焼きにふりかけ…」
「この間から、ハマってるみたいなのよ」
 トーストにバターを塗りながら、美樹が苦笑いする。
「お弁当に入れた茹で卵に、ちょっとかかってたのが美味しかったんだって」
「へえ…。樹、卵にふりかけかけると、ジャリジャリしないか」
「うん。おいしー」
 二パッと笑ってご満悦、らしい。
 ジャリジャリするのがいいのか…そうか…三歳児、謎だな…。
「いつか飽きるのかな」
「前はケチャラーだったから、そのうち違うものにシフトするんじゃない」
 ため息混じりに言って、豪快にトーストに噛みつく。
 俺もそうだが、美樹も結構な早食いで、お互い医療従事者なのに身体に悪そうな習慣が身についているな、とどうでもいいことが頭を掠める。
 研修医時代、人手不足も災いして、病院にいるときにまともに飯を食えた記憶が殆どない。
 これで、樹も同じ方向に進んだら、早食い一家か…いや、「母子+1」で終わる可能性も否定できんが!
 ほんっとに、このままなんとか夫婦と親子にまとまりたい。
 このマンションに越してくるまでの間、時間が許す限り、前の部屋に通い、美樹にはあからさまにウザがられながらも、せめて樹に慣れてもらおうとしてきたのだ。
 小児科医とは言え、俺が見ているのは子どものごく一部で、会うのも受診の十数分程度、子どもの疾病のプロではあっても、子どものプロではないのだと樹と接するようになって嫌というほど理解した。
 親とは全く別個の存在で、思う通りになんてならないし、理解できない言動も多い。
 でも、可愛いんだよなあ…腹立つこともあるけど、息子可愛い。
 ホットミルクのカップを抱えているだけなのに、何かのCMかと思うくらい可愛いのは、親の欲目ではないはずだ。いや、俺の子どものころとそっくりらしいから、ひとには言わんけども。
 散漫なもの思いに耽りかけたが、美樹のため息に現実に引き戻された。
「ま、イヤイヤ最高潮のときに比べたら、ふりかけでも何でもいいから、自分で美味しく食べてくれるだけで御の字よ」
 さっきより、確実にため息の割合が増した言葉だった。
 美樹は、隣で口を動かす樹を見ながら、ブロッコリーにフォークを突き立てる。
「…樹、イヤイヤ酷かったのか」
「比較対象がないから私の主観だけどね。あのころは、座って食事できる日が来るとすら想像できなかったわ。ご飯が白いのがイヤとか、スプーンが丸いのがイヤとか、この世の事象全てがイヤって感じだったから」
 視線が遠い。
 俺は俺で、目の前で機嫌よく目玉焼きの黄身を抉っている息子を眺める。
 ……俺が樹に近づくようになったときには、もう落ち着いてたんだろうな。
 改めて、己が阿保をやらかさなければ、美樹ひとりに苦労させることもなかったのだと実感する。
 だが、ここでそれを口に出したところで、「あんたには関係ないことだし」とバッサリやられるのは目に見えている。
 それでも、何か言いたくてモゾモゾする感覚を、コーヒーと一緒に飲み下した。
「まま、あまいのほしー」
「ジャム? ちょっとだけね」
 四分割したトーストの一切れにいちごジャムを塗って差し出す美樹と、嬉しそうに受け取ってかぶりつく樹を前に、朝っぱらから自分の不甲斐なさを噛み締める。
 誤魔化すように、実際はたいして気にしてもいないことを呟いた。
「しかし、外で卵食べるときに不自由しそうだな」
「まあねえ。ふりかけ持って歩くって手もあるけど……今の樹なら、泣いて床を転がることはあんまないと思うし」
 むしろ、聞き分けが良すぎて親のほうが不安になるくらいだ。
 イヤイヤ期に、拘りや固執といった感情を使い果たしたんだろうか。
 いや、ふりかけで目玉焼き食べるってのは、なかなか拘ってるようにも思えるが。
「そのうち、卵焼きにジャムつけて食べるとか言い出したら親はどうすればいいんだ…」
「別に、好きなもんつけて食べればいいのよ。死ぬわけじゃなし」
 あっさり言った美樹は、何か悟ったような顔をしている。
 ひとりで初めての子どものイヤイヤ期を乗り切った猛者の面構え、とでも言えばいいのか。
「それに、食の好みってのはどう変化するもんか、わからないしね。あんた見てても」
「俺?」
 いきなり矛先が向いた。
 目玉焼きにふりかけかけるようなことはしていないはずだ、と思ったが。
「昨日、カニクリームコロッケに醤油かけてたじゃない」
「…普通だろ」
「普通はウスターソースでしょ」
「ウスターだとクリームの味がわからなくなるじゃないか」
「クリームの味に拘るなら、何もつけないのが一番じゃないの。しっかり味ついてるんだから」
「コロッケには、なんかつけたいんだよ」
「よくわかんない拘りねー」
 どうでもよさそうに言う美樹は、本当にどうでもいいと思っているんだろう。
 だが、それすらも嬉しく、この会話自体を楽しんでいると言ったら、一気に怪訝そうな顔になるに違いない。
 他愛のない、どうでもいい話は、本当に他人同士ならできないはずだからだ。
 少なくとも、樹が生まれる前にこんな話をした記憶はない。
「ぱぱ、ふりかけする?」
「いや、樹が全部食べていいよ」
 小袋を差し出す息子の笑顔に癒される思いで、しかしふりかけ味の目玉焼きはしっかり辞退しつつ、サラダのトマトを噛み締めた。


 あれから気が遠くなるほど、いろいろなことがあり、無事に夫婦になれたわけだが、意外と同居初期のことを思い出すことが多い。
 そういや、美樹って食については、ひとの好みにケチつけるようなこと、言わないんだよな。
 クリームコロッケに醤油ってのも、言われたのはあれっきりだと思うし、実際カレーに醤油かけようとソースかけようと、マヨのせようと何も言わない。一度死ぬほど辛いのが食べたくなって、自分で作ったはいいが、ひと口で脂汗が出るような代物になったのだ。なんとかして食べる方法がないかと調べた結果、マヨかケチャップがいいらしいと知った。
 あれ、最後は美樹が呆れながらヨーグルト入れて、カレードリアとかにしてくれたんだったな…。
「ごちそーさまでした」
 樹の声に我に返った。
 見ると、パフェグラスは綺麗に空になっている。
 雨芽も、「ごちしょーしゃま」と続く。
 しまった、呆けてた。
「ぱぱ、たべないの?」
「ないの?」
 丸い目が二対、俺を…正確には、俺のサラダの皿を見つめている。
「食べるよ。樹も雨芽も、口にクリームついてるぞ」
 使い捨てのお絞りを渡すと、樹は自分の口を拭き、雨芽の顔もチェックする。
 その隙にサラダの残りをバゲットに挟み、齧りついた。
 譲りたくないのではなく、あれ以上食べると夕飯がキツくなるからだ。
「ねー、ぱぱ」
「うん?」
「めだまやきにけちゃっぷ、へんなの?」
 少し驚いたが、樹は目をくりくりさせて首をかしげている。
 あれ、聞いていたのか。
 純粋に疑問に思っているらしい様子に、なんと言ったものか、考えた。
「変じゃないな。好みと……言葉の問題だ」
「う?」
「樹、納豆に醤油入れるだろ。でも、納豆にマヨネーズ入れるひとがいたら、どう思う?」
「……きもちわるい」
「でも、そのひとは、マヨ入り納豆が美味しいんだよ」
「ふうん」
「そのひとに、醤油の納豆は気持ち悪いって言われたら、樹はどう思う?」
「かなしー」
「だな。樹は醤油の納豆が好きでいいし、マヨが好きなひとも、それでいい。でも、自分が気持ち悪いからって、美味しいと思ってるひとに、変だとか、気持ち悪いって言うのはよくないってことだ」
 小首をかしげて、こっくりこっくり頷いていたが、自分の中で考えがまとまったらしい。
 考えながら話すときの癖で、視線をくるくる動かしながら、「んと…」と切り出した。
「たいわんで、くさいのあったでしょ」
「ああ。臭豆腐か」
「あれといっしょだね。ぼくはくさいけど、おいしーひともいるから、くさいっていわないほーがいいの」
 少し前に行った台湾の夜市での会話を、覚えていたらしい。
 息子、ちゃんと成長してるなあ。
「そうだ。食べ物は、みんな好きなものが違うからな。樹はアイスが好きだけど、雨芽の一番はプリンだろ」
「ぷいん、おいちーね」
 メニューにないが、奥さんの厚意で出してもらった麦茶を飲んでいた雨芽が、にまーっと笑う。
「そうだな。みんな、美味しいものが一緒だったり、違ったりするから、自分が好きじゃないものだからって、悪く言わないようにしないと」
「じゃあ、あのおじさん、わるいこ?」
 つい、カウンターのほうに視線を向けてしまったが、俺が呆けている間に帰ってしまったらしく、食器すら残っていなかった。
 安堵したものの、ここで頷いていいものか。
 だが、悩んだ一瞬の間に、「そうだよー」という声が割り込んだ。
 奥さんが水のポットを手に立っていた。…このひと、何か特殊技能でも持ってんじゃないのか。
 空になっていたグラスにレモン水を注ぐのを、つい見つめてしまう。
「あのおじさん、いっつもああいうことを言うから、お友達少なくってねー。樹くんと雨芽ちゃんは、お友達が嫌だなーって思うこと、言っちゃダメよ」
「うん。おじさん、かわいそーだね。おともだちがかなしーの、わかんないのかな」
「わかんないんだろうねえ」
 黙って見守っているのは、後ろから御厨さんが苦笑いしながら近づいてくるのが見えているからだ。
 歩いているだけで人目を惹く店長は、「桜子さんてば」と後ろから奥さんの腰を抱き寄せた。
「ケガレを知らないお子様たちに、わざわざ汚れた中年の話なんてしないの」
「知らないからこそ、だよ。あんな人間もいるって言っておかないと、うっかり汚染されてからじゃ遅いでしょ」
「純粋に気になるんですが、おふたりにそこまで言わせるあのひと、なんなんです」
 止めに来たのかと思ったら、全くその気はなかったらしい御厨さんが、眉間に皺を寄せてため息をついた。
「歩くモラハラ被害者生産機、ですかね」
「わりと実害出てるんで、容赦はしないことにしてるんです」
 続いた奥さんが簡単に説明してくれた内容に、呆れずにはいられない。
 美樹が同じ目に遭ったら、俺も塩対応確実だわ。
「しかし…あれだけはっきり、意思表示してるのに、あのひと、結構ここに来てませんか。俺、何度か見かけてると思うんですが」
 途端に、揃ってため息をついた。
 御厨さんが後ろから抱きしめているから、トーテムポールに見えなくもない。
「モラハラって言いましたけど、ものすごく好意的に言えば、鈍感を極めてるんだと思うんですよね。ほづみくんがどれだけ邪険にしても、次の日にはケロッとした顔で来ますし」
「桜子さんの態度は、自分がやらかしたからだって理解はしてるっぽいんですけど、態度が追いついていないというか。反省するそばから、大量にやらかすんで余計に腹立つんですよ」
「なるほど…」
「商店街で幼馴染が店やってますけど、ときどきあのひとの不始末詫びに来るのが意味不明です」
「居た堪れないんじゃないですかね…」
 大人三人が微妙すぎる面持ちでそっと視線を逸らしたところで、退屈したらしい樹が「ねーねー」と奥さんを覗き込んだ。
「さくらちゃんは、めだまやきになにつける?」
「私? そうだねえ……今は、美味しいお醤油、ちょっとだけかな」
「おいしーおしょーゆ? おいしくないおしょーゆ、あるの?」
「あ、違う違う。えっとねえ、普通のお醤油も美味しいんだけど、とっても美味しい、特別なお醤油があるんだよ。それで目玉焼き食べると、すんごい美味しいの」
「とくべつ…」
 丸い目が、キラーンと光った。
 あ、やべ。
「樹、うちの醤油も美味しい醤油だからな?」
 食べたいと言い出す前に、と釘を刺すが、ここに通うようになって頓に舌が肥えてきた幼児は、不満げに口を尖らせる。
 雨芽も、話はわかっていないだろうが、真似をしてぷっと頬をふくらませた。
「でも、とくべつじゃないでしょ」
「特別じゃなくても、美味いからいいんだ」
「えー」
「えー」
 血の繋がりはないくせに、やたらと似てきた子どもたちにどう言い聞かせるかと考える横から、御厨さんが笑う。
「知り合いからもらった蔵元の醤油なんですけど、結構な量なんでお裾分けしますよ。ふたり暮らしだと、風味が落ちる前に使い切れるか微妙なんで」
「…すみません」
 次に来るとき、醤油と楽しめる食材でも持ってこよう。無難に魚介とかだろうか。
 しかし、美樹にはとうとう調味料までもらうようになったのかって呆れられそうだな、と思ったのだが。
「あの醤油、実はバニラアイスにちょっとだけ垂らしても、美味しいんですよ。高級なみたらし団子の味っぽくて」
「バニラアイスに?」
 それはもうゲテモノでは…とチラッと考えるが、思いがけない追い討ちがかかった。
「前に、美樹子さんと盛り上がったんですよね。醤油味のソフトクリームで」
「はい?」
「観光地にあるんですよ、醤油を使った名物ソフトが。仕事で行った先で食べたんですけど、これが結構美味しくて。美樹子さんも知ってたんで、変わり種アイスの話で盛り上がっちゃって」
 あいつ、そういうのには興味なさそうなのに。
 やっぱ、女性同士だと話題からして違うのか。
「もう一回食べてみたくて、バニラアイスに醤油かけてみたんだけど、やっぱ違うーって言ってたの思い出して、やってみたら美味しかったんです」
「美樹、そんなことしてたんですか」
「わりと好きみたいですよ。プリンに醤油かけてウニになるかとか、きゅうりに蜂蜜かけてメロン代わりになるかとか。一時期、ハマってたって」
 マジか。
 嫁の知らざる一面が衝撃だ。
「私は好奇心じゃなくて、ビンボー生活してた期間が長かったんで、いろいろジェネリック食材探求してただけなんですけど、おもしろかったです」
 御厨さんは後ろで笑っているが、なんとなく顔が引き攣っているようにも見える。
 そらー、フレンチシェフからしたら、プリンに醤油かけてウニの味になるって言われても、そんなわけあるかって思うわな。奥さん大事だから言わんだけで。
「ぷりんとおしょーゆ…」
 こら、樹、不穏な感じで呟くんじゃない。
 試してみたいとか言い出しそうな気配が濃厚で、ついでに美樹も駄目とは言わなさそうで、冷や汗が浮かんだ。
 …美樹が他人の食の好みに寛容なのって、自分がゲテモノ系でも楽しめるからだとか言わないよな? そういや、あいつ、台湾でも食に関しては普段の冷静さが鳴りを潜めて、暴走してた…おいおい。もしや家に帰ってから、息子と嫁相手に攻防を繰り広げねばならんのか。
 ふと、御厨さんの視線が同情を含む。
「健闘を祈ります」
「え」
「その話してたときの美樹子さん、本当に楽しそうだったんで…」
「え」
「もー、ほづみくんってば、そんな言い方したら、美樹子さんと私が悪食みたいじゃん」
 いや、悪食だろう。カフェオーナーの奥さんがそれでいいのか、不安になるわ。
 だが、御厨さんは「ごめんってー」と笑う。
「あの醤油なら大丈夫だとは思うけどさ。やっぱ、アイスに醤油って慣れないひとは驚くよ」
「まあね、私も初めてのときは、かなり警戒してたけど。でも、美味しかったでしょ」
「うん。それに、イタリアンはジェラートにオリーブオイルやバルサミコかけるから、醤油でもおかしくないっちゃおかしくないんだろうし」
 裏切り者、と出かかる言葉を飲み込んだ。
 いや…まあ、御厨さんが美味いって言うんなら、いけるんだろう。
 問題は、その流れで醤油プリンやら蜂蜜きゅうり食べるとか言い出したら、どうするかってことだな。
 好奇心に満ちた目を向けてくる息子から、そっと視線を逸らし、家に胃腸薬があったかどうか、記憶を巡らせたのだった。

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