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桜子にゃんなおいしい話。

 桜子にゃんを拾ったほづみんの世界線のおいしい話です。
 「おいしい問題。」作者本人がとち狂って爆誕したセルフ二次創作だと思ってください。



 御厨ほづみ、二十九歳。
 職業、カフェオーナー。現在独身。
 数日前、何人目かの恋人に、「顔は良くても性格キモくて無理」と振られたばかり。
 さすがに、当分恋人も結婚もいらない…と思っていたわけだが。


 自宅兼職場の近くには、小さな公園がある。
 いつも家族連れや学校帰りの中高生で賑わっている場所で、独身の男が立ち寄る場所ではない。
 でも、その日は駅から自宅までの大して長くもない距離が辛く、フラッと足を向けた。
 今日は、前の職場の上司…フランス時代の兄弟子と久しぶりに食事をし、飲んだ帰りで、多少酒が入っていることも影響しているのかもしれない。
 夜でも、日本の夏のことだからじっとりと暑いが、葉が茂る木の下のベンチに腰を下ろす。
 街灯に照らされる公園の中には人影なんぞあるわけもなく、盛大にため息をついた。
 また恋人に振られたと話したら、苦笑いで言われたのだ。

『まあ…彼女の言い方も問題あるとは思うけど、お前の愛情は、少々特殊だからね。そういうものを抵抗なく受け入れられる相手を見つけるか、ひとりの人生を楽しむ方法でも見つけるしかないのかも』

 ヤンデレ、粘着質、不安病、束縛したがり……等々、歴代の恋人に渾名されてきた人生だが、わりと客観視してくれるひとに改めて言われると、ズシンとくる。
 自分の性質に自覚はあるが、その分、セーブしているつもりでもあるので、できていないと言われたも同然であることもショックだった。
 膝についた手で頭を抱えると、酒気の混じった息がもれる。
 ひとりで人生を楽しむ方法、なあ……趣味でも作るとか? 今の生活、仕事しかないから、余計に恋人ができると入れ込むのかもしれん。
 でもなあ、うちの店、閑古鳥ってほどじゃないけど、いまいち客入りよくないというか、食べ残されることが多くて、趣味なんてやってる余裕は……とぐるぐるし始めたときだった。

 ……にゃー

 猫?
 顔を上げて辺りを見回すが、何もいない。
 今日は夕方まで雨が降っていたから、砂が撒かれた地面は濡れて色が変わっているし、濡れた遊具も街灯の灯りを弾いている。
 実は俺の尻も濡れているが、酔っているのと落ち込んでいるのとで、気にならないだけだ。
 こんなところに猫がいるわけないよなあ。
 寂しさのあまり、幻聴でも聞こえたのかもしれないと、ため息をついて腰を上げた。
 立ち上がると、下着まで染みた雨水が改めて気持ち悪い。
 とっとと家帰って、風呂入って寝るか。

 にゃー、にゃー

 踵を返しかけたところで、今度は間違いなく、猫の声がした。
 それも、妙に甲高い。

 にゃー! にゃー! にゃー!

 それに、やたら力強い。
 注意深く、周囲に目を凝らす。
「おーい、どこだー?」
 酔った勢いでもないが、呼びかけると、「にゃー!!!」と返ってくる。

 にゃー!!! にゃあん!!! にゃっ!

 自己主張強そうな猫だなー。
 声を頼りに、座っていたベンチの後ろのほうの木陰が濃いほうへと足を進める。
 ようやくスマホの存在を思い出して、ライトをつけて草むらを照らした。
 光に反応したのか、ガサガサと木の根本に生えた草が揺れる。
 夏のせいか、生い茂った雑草を覗き込むと、黒っぽい塊を見つけた。
「お、いた」
「にゃあああああん!」
 白いライトが眩しいだろうに、クワッと口を開けて鳴いている。
 随分と小さいけど…これ、子猫か。
 しゃがみ込んでも、怯えた様子もなく、にゃーにゃー鳴き続ける。
 腹が据わっているのか、よっぽど切羽詰まってるのか。
 手を伸ばすと、ひしっとしがみついてきたので、諦めて掬い上げた。
 目の高さまで持ち上げると、鼻先で「にゃおん」と鳴く。
「君、迷子?」
「にゃー」
「うちに来る?」
「なおん」
 これ、「うん」でいいのか。
 ついでに、俺、飲食業だし、自宅と職場一緒なんだけど…と考えかけたが、今日会っていた兄弟子も、犬と猫とモルモットを飼っていた。
 あとで、電話でもして注意事項教えてもらおうと決めて、手のひらに収まってしまう猫を見つめる。
 水っぽい目がじっと見返して、小さいなりに三角の耳がピクピク震えている。
 なんか……かっわいいなあ。
 猫を飼ったことがないのが不安だが、とりあえず病院に連れて行って、飼育本でも買ってくるか。
「まずは名前、決めないとね」
「なー」
 律儀に返事らしきものを寄越す子猫を手のひらに載せ、歩き出す。
 ベンチに座り込んだときに抱えていた重ったるい感情は、綺麗に消え失せていた。

 そして、現在。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは、店長さん、桜子ちゃん」
 常連の時計屋の生田さんが、定位置のカウンターに腰を下ろす。
 同時に、同じく定位置のカウンター端の椅子に置いた猫ベッドの上から、「なおーん」と声がした。
 赤いハーネスとリードをつけたキジトラの猫…あの夏の日からうちにいる「桜子さん」だ。
 最初は、拾った公園に桜の木が多いことを理由に、「さくら」とつけるつもりだった。
 だが、家に帰ってから改めて顔を見ると、貫禄があるというか、賢そうというか、妙にキリッと意思を持っているような顔立ちだったのだ。
 子猫にしてこの威風堂々とした顔……と思ったら、「子」をつけて、なぜか「さん」呼びしていた。
 翌日連れて行った動物病院でも、獣医が「え、拾った子? もらったんじゃなくて? ……すんごい人慣れしてるし、意思表示キッツイ子ですね」と感心しきりに言われた。
 実際、桜子さんは人間の言葉がわかっているのではないかと思うようなところがあるし、自己主張もきっちりする。
 猫と人間ながら、日常的に会話するのが当たり前…猫飼いは、みんな似たようなものらしいが。
 飼い始めて、そろそろ一年だが、今では立派なうちのマスコットキャットだ。
「桜子ちゃん、今日も可愛いわねえ」
「なおーん、にゃー」
 生田さんが声をかけると、身を起こして、前脚を揃えてお座りし、小首をかしげて鳴く。
 店に連れて出るようになったのは、二月ほど前からだが、ベッドの上でお客を観察したり、おもちゃで遊んだり、ときどき椅子から降りて歩き回る。
 伸縮するリードをつけているから、行動範囲はたかが知れているし、不思議と猫好きの相手ばかりを選んでちょっかいをかけているようだ。
 店の改装で世話になった工務店が作ってくれた、椅子の下にすっぽり収まるキャットボックスの中にクッションを入れてあるので、そこに入って寝ていたりもする。
 動物を調理場に入れることはできないから、店に一緒に出るときはホールにしか居場所がないが、日中、ひとりで家にいるよりはずっといいらしい。朝になると、自分でハーネスを咥えて持ってくるんだから、本当に賢い猫だ。
 ついでに、子どもは苦手らしく、賑やかな声がすると音ひとつ立てず、ボックスに閉じこもる。
 生田さんご注文のコーヒーを入れ、キッシュを温めてプレートに仕立て、準備をしていると、カロンとドアのカウベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 顔を上げると、見覚えのない若い女性が所在なさげに立っていた。
 うちのお客の九割はご近所さんで、一割はすぐそこの大学関係者だ。加えて、客数が多くもないので、否応なく、ご新規かそうでないかは判別がついてしまう。
 コーヒー豆に湯を落としている真っ最中だったので、「お好きなお席にどうぞ」と声をかけると、迷う素振りを見せてから、カウンターに近い四人用のテーブル席に落ち着いた。
 生田さん以外のお客がいないから、選び放題すぎで悩んだのかもしれない。
 まあ…この昼時に、ガラガラだと不安にもなるわな…。
 しかし、せっかくの新規客を逃してたまるかと、生田さんに手早くサーブして、メニューを抱えてカウンターを出た。
「いらっしゃいませ、こちらメニューです」
「…ありがとうございます」
 一瞬顔を上げたが、すぐに手元に視線を落としてしまう。
 コットンっぽいチュニックに、細身のジーンズというカジュアルなファッションで、黒い髪もシンプルにクリップでまとめているだけだ。
 化粧っ気もないし、大学の学生かな。
「お決まりになったら、お声かけてください」
「はい」
 素っ気ないな、と思ったが、普通のお客はこんなものだ。
 …俺、何が引っかかってるんだろうな?
 前に会ったこともないだろうに、妙に気になることが気になる…という、よくわからない状態に内心首をかしげ、カウンターに戻る。
 生田さんはいつも通り、静かにカトラリーを使い、桜子さんはベッドの上で香箱を組んで、初めて見るお客を観察しているようだ。
 少し経ってから、「すみません」と声がした。
 思いがけず、大きくないのにしっかり通る声だ。
 キッシュとブレンドを頼んだ彼女は、メニューを返すときになって、初めて真っ直ぐに目を上げた。
 丸くて黒い目に既視感がある。
 だが、初対面の女性の顔を凝視するわけにもいかず、すごすごと引っ込んだ。
 なんなんだ、このモヤモヤする感じ。
 コーヒー豆のキャニスターを手に取り、計量してミルに放り込む。
 そのとき、トッと軽い音がして、桜子さんが床に降りた。
 見ていると、女性のほうへ歩いていく。
「桜子さん?」
 店のドアに、「猫がいます」のプレートをかけているから大丈夫だとは思うが、初めてのお客だし、とつい声を張る。
 でも、桜子さんはピンとしっぽを立てただけで、なぜか女性のほうが驚いたように顔を上げた。
 女性の視線が、戸惑いを露わにこちらに向けられ、そのもの言いたげな瞳にどきりとする。
 しかし、すぐに逸らされた視線が床に落ち、テーブルの横にちょこんとおすわりした桜子さんに向いた。
「にゃ」
 器用に後ろ脚だけで立ち上がり、女性の脚に前脚をかける。
 それが「抱っこして」の合図だと知っている飼い主としては、驚くしかなかった。
 桜子さん、懐っこいけど、お客に抱っこされるのは嫌がるのに。
 えー…なんで初対面の相手に、そんな懐くの。
 この一年、人間の女性には「キモい」「うざい」と嫌がれまくった愛情を、桜子さんに向けまくってきたのだ。
 拾ったときに生後三週間と少ししか経っていなかったから、昼夜を問わず、ミルクをあげ、母猫の代わりに排泄を促し、冷えないように湯たんぽをマメに交換し、母猫を呼んで鳴くたびにタオルに包んで抱っこして、と文字通り、舐めるように愛情かけて育ててきたのに…甲斐あって、俺以外の人間に興味は持っても、馴れ馴れしく甘える猫にはならなかったのに……。
「店長さん、お湯、ずっと沸いてるわよ」
 ショックのあまり、ミルを握りしめて立ち尽くしていたら、生田さんからツッコミが入った。
「お、おお…すみません」
 慌てて火を止め、水を足し、豆を挽いて…と、手を動かす。
 キッシュもプレートにして、トレイに載せた。
 運んでいくと、桜子さんは女性の膝の上に収まり、香箱座りをしている。
 なんで寛いでんの。
 妙に得意げに見える顔で、こちらを見上げてくる飼い猫を恨めしく思いつつ、女性の前にカップを置いた。
「お待たせしました、ブレンドとキッシュプレートです。…うちの猫がすみません」
「いえ。…この子、桜子っていうんですね」
 女性の手が、桜子さんの首元を撫でている。
 やわらかい伸縮性のある紐に、銀製の鈴と迷子札を下げているのだ。
 小さなステンレスのプレートには、桜子さんの名前と俺の電話番号を刻印してある。
 猫にしては立派な名前とか思われてんのかと、私怨混じりに思ったのだが。
「私も、桜子っていうんです」
 顔を上げて、はにかむように笑った。
 瞬間、不整脈が起きた。
 いや、本当に。
 妙に息苦しくなり、顔が熱い。
 うん? あれ???
「や、その…あ、すみませんっ」
「え? 全然。すごく懐っこくて可愛い子ですし」
 挙動不審を詫びたつもりが、全く違う捉え方をされてしまった。
 焦りと動揺とが入り混じり、咄嗟に桜子さんに向けて、「こっちおいで」と腕を伸ばした。
「食事の邪魔になるだろ」
「なー」
「なーじゃなくて。すみません」
 断って、膝から抱き上げ、近づいた拍子に香ったシャンプーのような甘い匂いにさらに心拍数が爆上がりする。
 見るからに不満いっぱいな桜子さんを抱き抱えると、抗議のつもりか、はむっと手に噛みついた。甘噛みだから痛くはないが、ダメだ。
「こら、人間噛むのはダメ」
「…うなー」
 すぐに離すから、悪いことだとわかってやっている。
 笑って見ている女性に「ごゆっくり」と言い残して、カウンターに戻り、桜子さんを椅子の上に降ろした。
 長いしっぽが、不満を表すようにぱったんぱったん動いている。
「桜子ちゃん、随分懐いてたわねえ」
 生田さんがカップ片手に笑った。
「お客の膝に乗るのなんて、私、初めて見たわ」
「僕もですよ。そんなに、あのお姉さん、気に入ったの?」
 カウンター越しに覗き込むと、耳を微妙にイカ耳にしたまま、「むーん」と鳴いた。
 これ、相当言いたいことがあるっぽいな。
 桜子さん、自己主張するときは、ずっとうにゃうにゃ鳴き続ける。俺が風呂に入っても、トイレに入っても追いかけてきて、ドアの前で喋り続けるのだ。
 あの女性、猫を惹きつけるものでも持ってるんだろうか。…またたびとか?
 考えてもわかるはずもなく、チラッと視線を投げる。
 彼女は、キッシュを口に入れて、咀嚼しているところだった。
 桜子さんのように小首をかしげて、コーヒーのカップを持ち上げる。
 …あー、やっぱ口に合わないのかな。
 うちのキッシュ、結構自信作なんだけど、なんでか女性受けがイマイチなのだ。
 アパタイユの調合とか、皮の硬さとか、いろいろ研究しているが、あまりピンと来るものができず、結局変えられないでいる。完食してくれる常連さんは、生田さんくらいだ。
 あの子に残されたら、ショックだ…なんでかよくわからんが……なんでだろう。
 さっきも、おかしなくらいドキドキしたし。
 過去の恋人たちとは、完全にタイプが違うし、俺のタイプってわけでもな…………うん?
 手持ち無沙汰を誤魔化すために、コーヒー豆のハンドピックをしようとしていた手が止まった。
 ……俺のタイプって、どんなんだっけ。
 持って生まれた容姿のおかげで、思春期からつき合う相手に困ったことはなく、相手がいなかった期間のほうが短かった。この一年、桜子さんの世話で忙しかったし、手をかければかけるほど懐いてくれる存在が嬉しくて、人間の女には全く目が向かず、兄弟子には「そこまで極端に方針転換しなくても」と呆れられた。
 ともかく、いつでも相手からのアプローチで関係が始まって、相手に振られて終わっていたのも事実で、要は、恋愛ごとにおいて、俺が自分から動いたことがない。
 つまり、「あの子、いいな」と思ったことが…………ない。ザッと記憶を掘り返してみても、ない。
 つき合いたくないタイプなら、すぐにいくつか浮かぶのに。
 待て、本当か? 何か勘違いしてるとかじゃないか?
 さっきとは別の動揺を抑えようと、豆をトレイに出し、目を凝らす。
 だが、茶色い豆の傷みはすぐに見つかるのに、己のタイプの女性というものはさっぱり見当がつかない。
 顔は……目がふたつあって鼻と口がひとつずつあれば十分だし……スタイル…おっぱいは大きいほうがいい。うん、これは間違いない。別に小さくてもいいんだけど、大きいに越したことはない。いやでも、あの子のおっぱいのサイズはわっかんねえぞ。チュニックだから、身体の線が見えん。
 つまり、身体以外のところがよかったってことか。
 我ながら最低なほうへ思考がかたむいて来たが、生田さんが席を立ったことで、幸いそれ以上、悪化することはなかった。
 カウンターを片付けて、また彼女を盗み見ると、スマホを見ているところだった。
 軽く眉を寄せ、画面を睨んだかと思うと、ため息をついている。
 悪い知らせかな、と思ったところで、袖を引っ張られる感覚に視線を逸らした。
 桜子さんが後ろ脚で立ち上がり、ぐいーっと伸ばした前脚で、ちゃいちゃいと注意を引こうとしている。
「お、どうした。おやつ?」
「うっなーん」
 違うらしい。
 首を傾げると、ふんっとため息をつき…猫がため息?…、椅子から降りて、ボックスに入ってしまった。
 今の、どういう意味だ。
 完全にいつもと様子が違う飼い猫に気を取られていたら、入り口のほうで「すみません」と声がした。
 女性が財布を持って立っている。
 慌てて会計をして、「ありがとうございました」と言うと、ふっと顔を上げた。
「ごちそうさまでした。とても、美味しかったです」
「え……あ、りがとうございます」
 初めてのお客に言われたことがない言葉で、不覚にも虚を突かれたと思った。
 女性はやわらかく笑い、ドアを押して出て行った。
 その後ろ姿を見送り、彼女が座っていたテーブルに視線を向けると、桜子さんが椅子に飛び乗るところだった。鈴つけてるのに、音させないで動けるんだよなあ。
「桜子さん、何してんの」
「にゃーおう」
 テーブルに前脚をかけて、俺を見上げる。
「こら、テーブルに脚かけたらダメだろ」
 溺愛している自覚はあるが、躾もきっちりやっていると思う。特に、飲食店のホールに出しているんだから、そこは妥協できないし、桜子さんも普段は滅多なことはしない。
 本当に今日は様子がおかしい、とやわらかくて温かい身体を抱き上げ、片手でテーブルを片付けようと腕を伸ばす。
 空のカップを空の皿に重ね、カトラリーをまとめたところで、やっと気づいた。
 空だ。
 カップも、皿も、空だ。
 彼女、うちのキッシュを完食したんだ。
 理解した瞬間、桜子さんを床に降ろし、店を飛び出していた。
 駅に向かったのか、それとも大学に入ったのか。
 一か八かで、学生だと思った直感を信じて、大学に足を向ける。
 全速力で住宅街を走り、商店街に差しかかる手前で、見覚えのあるチュニックを見つけた。
 いた!
 自分の勘と幸運に感謝しつつ、呼び止めようとして、寸前で思い止まった。
 いきなり、男に待てって言われたら、怖くないか。
 でも、じゃあなんて声かけたら、と考えると同時に、叫んでいた。
「桜子さん!」
 足を止めた彼女が、驚いた顔で振り返る。
 数メートルの距離を走って詰めた。
「カフェの…」
「す、みません。急に、声かけて」
「いえ。…私、何か落としていきました?」
 なんのことだと思ったが、すぐに忘れ物を届けにきたのだと思われていることに気づく。
 普通、店の店員が追いかけてきたら、そう思うわな。
 同時に、呼び止めて何を言う気なのかと、一気に頭が冷めた。
 ただ、キッシュを完食して、美味しかったと言っただけだ。
 殆どの客が残してしまうキッシュを完食して、初めて美味しかったと言ってくれた。
 それだけ、なんだ。
「あの、」
「はい」
 首をかしげて見上げてくる、黒くて丸い目。
 既視感を刺激するそれが、去年の夏、俺を見つめてきた子猫のものとよく似ているのだと気づく。
 じっと、真っ直ぐに、俺だけを見つめている瞳。
「キッシュ、無理してませんか?」
「え?」
 丸い目が、さらに丸くなった。
 ああ、本当に日本語が不自由だ。
 こんなんでわかるわけがない。
 彼女は不思議そうに視線を逸らし、「もしかして」と呟いた。
「キッシュを無理して、全部食べたのかって訊いてます?」
「え!?」
 どうしてわかったんだ。
 俺のケッタイな日本語から、意図をズバリと当ててしまった彼女は、「あ、違った」と顔を顰めた。
「や、いえ、合ってます。合ってますけど、どうしてわかったのか驚いて」
「あー…まあ、職業病みたいなもんです」
 どんな職業だ。てか、学生じゃなかったのか。…大学で働いてるとか?
 疑問が忙しなく頭の中を飛び交うが、彼女の「美味しかったですよ」という言葉に我に返った。
「ちょっと濃厚でしたけど、無理は全然してません」
「…本当に?」
「本当に。あのキッシュ、」
 続けて何か言おうとする彼女を、バッグの中から響いた電子音が遮ってしまう。
 取り出したスマホの画面に視線を走らせ、彼女が慌てた様子で言った。
「あ、やば。すみません、ちょっと急いでて」
「いえっ、こちらこそ…あ、あのっ」
 連絡先を教えて欲しい、と言いかけて、寸前で飲み込んだ。
 代わりに、タブリエのポケットに入れてあるメモ帳にスマホの番号とメルアドを書き、破って彼女に手渡した。
「時間があるときでいいんで、連絡ください」
「え…」
「ずっと、待ってますから」
 無理やりメモを握らせて、突き返されないうちにと踵を返す。
 本当は、今すぐ家に連れて帰りたい。
 俺の料理、いっぱい食べてもらって、感想聞いて。
 それで、あの顔で笑ってほしい。
 俺、自分のタイプ、わかった。
 「俺の料理食べて、笑って欲しい顔の子」だ。


 店に戻ると、桜子さんは定位置のベッドで丸くなっていた。
「ただいまー…」
 チラッと目を開けただけで、にゃんとも言わない。
 今となっては、不機嫌の理由が分からなくもない。
 椅子の横にしゃがみ込み、綺麗にシマが浮き出たふわふわの毛皮を撫でる。
「桜子さん…あの子が俺のタイプだって、わかってたんだ?」
「にゃー」
「なんで? 猫パワー? 猫の本能? 猫神様のお告げ?」
「にゃにゃー」
「もっとわかるように言ってよ〜」
 ペシっと猫パンチされてしまった。
 ふんっと鼻息をついて、完全にこちらを背を向けてしまう。
 しゃがんだまま、膝にデコをぶつけ、ため息をつく。
「連絡、くれるかなー」
 女性受けはいい顔のはずなんだけど、今思えば、彼女、俺の顔に興味を持った素振りが全くなかった。
 ああ…俺、今さらの自覚だけど、最低だ。他人に興味持たれるのが外見からばっかりだったから、相手のこともそういうとこでしか見なくなってる。
 いやまあ、中身をろくに知らない相手に興味持つのって、目に見えるとこからなんだろうけど、俺の容姿で寄ってくる人間をどこか見下してるくせに、結局同類じゃん…。
 あの子、地味だったけど、笑うと可愛かったんだよなあ。愛嬌があるっていうのか、愛くるしいっていうのか。
 俺の料理、口に合うんなら嬉しいなー、おいしーって笑ってくれたら、最高に嬉しいだろうなー。
「はー…桜子さん、またあの子と会えると思う?」
 返事は、長いしっぽの「ペシッ」だけだった。


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