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エウロペ 行間コバナシ

 「エウロペにさよなら」1のラスト、ドレスが届いてからレストランまでの間のエピソード。カットしたものを、形だけ整えてます。
 こんなこともあったんか…程度にお読みください。




 夕方というには遅い時間、絵茉は何とも言い難い気分で、自室の居間にいた。
 出かける支度は済ませ、あとは出るだけ…のはずだが、マリアにここで待機するよう言われたのだ。
 あのあと、マリアは馴染みのサロンに連絡し、時間いっぱい使って、絵茉を磨き上げることにした。
 仕事道具一式を抱えてやってきた美容集団は、度肝を抜かれた絵茉に頓着することなく、凄まじい勢いで仕事を始めた。
 デコルテと顔のエステ、切りっぱなし同然だった髪もハサミを入れ、家なのにトリートメントまでされた。おかげで、ぱっと見はいつもと変わりないコケシだが、どれだけ頭を振ろうとサラリと元の状態に戻る。
 さらにはメイクとネイルケアまでされて、やっとマリアのお許しが出たが、そのころには精神的な疲労が凄まじく、完全になすがままだ。
 「それなりのドレスを着るには、それなりの準備がいるものです。全く、殿下もその辺りのことを考えていただかないと」とご立腹だったが、さすがにそこまで求めるのは酷な気がする。
 それにしても、とソファに座ったまま、自分の胸元を見下ろし、ため息をついた。
 ヴィクトールが寄越したドレスは、不思議なくらいジャストサイズだ。
 深めのカットも、実際に着てみるとそれほど大袈裟なものではなく、繊細なレースから透ける薔薇色が美しく、まさにエレガントと言うに相応しい。
 …着るのが私じゃなければなー。
 着付けを手伝ってくれたメイドは絶賛してくれたが、この家の人間の大部分が自分に厳しいことは言わないのを知っているので、素直に信用するとまずい。
 これ、雨の日は絶対履けないなとフォルムもレースも美しいハイヒールのつま先同士を軽くぶつけたとき、ノックの音がした。
『どうぞ』
『絵茉様、奥様がお呼びです』
『今行きます』
 数秒悩んで、シルククレープのハンドバッグを手に、腰を上げた。
 自分では買わないタイプの小さいバッグには、スマホとメイクを担当してくれたスタイリストに渡された化粧直し用のコンパクトとリップケースしか入っていない。いや、入らない。
 財布とかパスケースを入れる余地が全くないとショックを受けたが、「当たり前でしょう。レディは財布など持つ必要はありませんからね」と平然と言ったマリアにさらにショックを受けた。
 私は断じてレディなどではない……現金がないと不安で死ぬ…………とも言えず、畳んだユーロ札とクレジットカードをこっそりスマホケースに入れた。貴族、こわい。
 ともかく、人生初というくらい軽いバッグを持ち、メイドに先導されて、マリアの部屋に向かった。
 連れて行かれたのは図書室を改装した部屋ではなく、さらにプライベートなサロンだ。
 絵茉自身、ここに入ったのは数回で、何ごとかと目を見張る。
『マダム、参りました』
 メイドが開けてくれたドア口から声をかけると、テーブルの脇に立ったままのマリアに、「どうぞ」と招かれた。
 近づくと、テーブルの上に薔薇木細工の美しいボックスが、蓋を開けた状態で置かれているのが見える。
 だが、美術館の展示ケースもかくやと言わんばかりに並ぶ宝飾品が目に入った瞬間、反射的に視線を逸らした。
 促されてそばの椅子に座り、恐々マリアを見上げるが、絵茉の恐れもなんのその、「少し待ってちょうだいね」と言ったきり、いくつかのアクセサリーを手に取って、見比べた。
 しまいには、サファイヤが連なるイヤリングや精緻な細工の金鎖、真珠のネックレスとブレスのセットと、次々に絵茉にあてがい始めた。
 これは、まさか。
 背筋を冷や汗が伝う。
 しかし、絵茉が硬直を解く前に、マリアは満足げに頷いた。
『これをつけてお行きなさい』
 美しい白い手が差し出したのは、内から輝くような鮮やかなルビーのブローチだ。
 経年を感じる金の土台に、うずらの卵ほどのルビーが嵌っている。枠は宿木を象ったもので、派手ではないが細工が細かく、これひとつで鑑賞できそうなものだった。
『レディたるもの、ジュエリーのひとつくらい、身につけなくてはね。そして、つけるのなら大粒のものが良いのよ』
『あ、あの、マダム、こんな大切なもの』
『大切だから、あなたに貸すのです』
 はっきりと言って、マリアは「背を伸ばして」と絵茉の肩に触れた。
 襟ぐりから小さな当て布を差し入れ、喉元に近い真ん中に、針を通す。
『あなたと殿下のことは、大人同士のことなんだから無粋な真似はしませんよ。だから、これはお守りみたいなもの』
『お守り、ですか』
『そう。それに、ひとつ良いジュエリーを身につけていると、宝石に恥じない自分でいようと思うでしょう。あなたには、エリゼ宮の晩餐会に出られるくらいのことは教えているから、いつも通りにしていれば問題ないけれど』
 それが、マリアからの激励だと理解して、絵茉は丸まりそうになる背中を懸命に伸ばした。
『これでいいわ。ほら、完璧なレディよ』
 手を取って立たされ、マントルピースの上の飾り鏡に視線を向ける。
 鏡の中の自分は、決してレディなんてものには見えないが、いつもよりは大人に思えなくもない。
 隣のマリアと比べるまでもなく、一般人のオーラを醸していることは気にしても仕方ないので、気にしないことにした。
 それよりも、顔の下で輝く赤い石のおかげで、血色がよく見えるかも? と少々見当違いなことを考え、また別のことを考えて意識を逸らそうと試みるが、どうにも我慢ができない。
 叱られることを覚悟の上で、マリアに視線を向ける。
 が。
『まさかそんなことをするとは思っていないけれど、このブローチいくらですか、なんて訊いたら、次のレッスンからレディ教育をやり直さなくてはね』
『…もちろんです、マダム』
 師匠の笑っていない両目に、ドレスに汗が滲むのでないかと危ぶむほど、冷や汗が流れる。
 だが、ノックの音と、「絵茉様のお迎えがいらっしゃいました」という声に救われた。
 胸を撫で下ろす絵茉に眉を上げたものの、マリアは軽く息をつくだけでおさめることにしたようだ。
『では、いってらっしゃい』
『はい、行って参ります』
『小難しいことは考えず、グランメゾンの美食を堪能してきなさい』
 貴族らしい皮肉の効いた激励に、頬が緩む。
『美味しいもの、たくさんいただいてきます』
 優雅に一礼して、さっきよりは随分と軽い気持ちで部屋を後にした。
 階段を降り、通路とサロンを通り、とホールに向かう。
 途中、先導する顔馴染みのメイドが、「絵茉様、頑張ってくださいね」と小さくガッツポーズしてみせた。
『頑張る…何を?』
『よくわからないんですが、奥様に絵茉様を激励するためにも、私たち総出で、絵茉様をお見送りするよう言われまして!』
『みなさん総出?』
『はいっ、今ごろ、今夜シフトに入ってるスタッフ全員、新品の制服を着て、公子殿下をお出迎えしてます』
 激励と総出でお出迎えの意味がわからず、首を捻る。
 ただ、ものすごく応援されている…とは思ったので、笑顔でお礼を言った。
 だが、十数秒後、ホールで硬直する羽目になることがわかっていたら、素直に感謝できなかったかもしれない。



 フランスが誇る自動車メーカーのフルカスタム車の座席は、下手なソファよりも座り心地がいい。
 ダックスフントみたいな車だったらどうしよう、という絵茉の不安をいい意味で裏切ったチョイスの車種だが、今、車内は何とも言い難い微妙な空気に満ちていた。
 ついさっき、カローヌ邸の玄関ホールで、ドアから二列に並んだリシャールをはじめとする家政スタッフ一同に、「お見送り」されたのだ。
 さすがマリアのお眼鏡に叶うスタッフたちだけあって、「行ってらっしゃいませ」の声も、お辞儀の角度も、一片のブレもなく、見事なものだった。
 絵茉の気分は、任侠映画の姐さんだったが。
 あれじゃあ、カローヌ家の御令嬢じゃん…ただの居候なのに……と、忘れたはずの胃痛がぶり返しそうだ。
 気になるのは、ヴィクトールの反応だが、彼はドレスアップした絵茉を褒めたあと、スマートに車までエスコートした。
 だが、自分が出て行った一瞬、レンズ越しの目が僅かに見張られたことに気づかない絵茉ではない。
 やっぱり馬子にも衣装〜? いや、あれは中身が貧相でも外見を取り繕えば何とかなるって意味だから、ちょっと違う。いい服着ればマシに見えると思ったけど、予想外にダメだったとか思われてそう……と、マリアの教えも星の彼方。
 チンドン屋が姐さん状態でお見送りされたら、そりゃコメントにも困るわー、マダム、激励になってない〜〜……てか、なんであれが激励になるんだろう。
 遅まきながら、そこのところがわからないと首を捻る。
 そもそも、食事に行くだけだし、応援されても……美形の顔見ながらでも、完食できるように、とか?
 ヴィクトールの訪問後、一部のメイドたちが、彼の容姿を「見てるだけで窒息起こしそう」と形容していたのを小耳に挟んだのだ。
 絵茉も、かづみの顔を見つめるあまり、酸欠を起こしたことがあるので、彼女たちの言いたいことはよくわかった。
 いろいろなことに考えを巡らせ、悶々と悩む絵茉は、悠然と微笑む目の前の男が、内心頭を抱えているだなどとは、予想だにしなかった。
 使用人総出の見送りに、絵茉の胸元で輝くピジョン・ブラッド。
 吸血鬼が裸足で逃げ出すほどの杭をゴンゴン刺された心地だ。
「うちの子を安く扱えるなんて、思ってはいないだろうな」、と。
 もとより粗末にする気なんぞ、塵ほどもないとは言え、マリアの庇護の翼は想像以上に大きかったようだ。
 これは、心して口説き落とさねばなるまいと、腹を括る。
 こちらも、まさか言語の壁以外の何かに阻まれて、意思疎通が困難になる事態に陥るなどとは考えもせず、居心地悪げな想い人の警戒心を解くべく、知恵を巡らせ始めた。
 

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