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もしかしたらのいつかの話。

「おいしい問題。」夫婦の一人娘、桃ちゃんの話の導入部です。
 一応、一区切りに見えるところまでは書いていますが、続きがあるかは完全に未定。
 桃ちゃんの話とゆーより、おいしいのふたりがどんなふうになっているか、お楽しみください。




 御厨桃香、十七歳。高校二年生。
 趣味は読書と剣道、特技は料理。
 父方の濃い遺伝子をバッチリ受け継いだおかげで、見た目だけはいい女子高生。
 中身は…ウーパールーパー? オオサンショウウオ? とりあえずマイペース。
 毎日、美味しいものをもぐもぐしながら、のんびり平凡に生きてます。

 それは、学校からの帰り道でのことだった。
 私が通っている私立高校は、中高一貫校で、なんなら附属幼稚園から大学までついている。
 幼稚園から通っているセレブな層と高校から入ってくる一般家庭の層で対立していて…というような、学園もの漫画みたいなことはなく、純然たる学力と希望進路でクラス分けがされる学校だ。
 両親ともに、教育熱心なわけでなく、私自身、勉強が大好きというタチでもないのに中学受験して入った。
 理由はシンプル。
 家から一番近い学校だったから。
 学区の公立中学は、三十分歩かないとダメな距離だったし、自転車通学も禁止。
 ならばとダメ元で受験したら、運よく受かった。
 おかげで、毎日の通学時間は往復十分だ。
 今日も、ホームルームが終わると同時に教室を出て、家に向かう。
 部活はしていないし、寄り道する場所もないし、家が一番楽しいのだ。
 虐められているとかじゃない。友達もいる。
 でも、昔から人間の集団が苦手で、ひとりで過ごす時間が好きだ。
 校門から続く桜並木はちょうど満開で、歩くだけでも楽しい。
 どうせなら、公園突っ切って行っちゃおうかな。あそこ、大きい桜の木があるんだよね。
 滑り台とブランコがあるだけの小さい公園は、周りの家のひとたちが管理しているようで、いつも花壇が綺麗に整えられている。
 我が家は、毎年毎年、しっかり花見をする家で、この公園にも弁当を持って花見に来る。
 大きくブランコの上に張り出した桜を眺めながら、家に近い入り口目指して歩き、ふと気づいた。
 すみのベンチに、誰か座っている。
 頭を抱えて、じっと蹲るような姿勢の男性だ。
 人生に悩んでるんなら、邪魔しないほうがいいんだろうけど、ちらっと見えた顔は遠目でもギョッとするくらい、おかしい。
 素通りしようかとも思ったけど、どうにも無視し辛い。
 うーん……仕方ない、か。
 肩掛けの通学バックから手付かずの水のペットボトルを出して、ベンチに進路を変えた。
「あのー」
 声をかけると、ゆっくりを頭を上げる。
 鋭い目つきだけど、やっぱり顔色は相当悪い。
 スーツを着ているのかと思ったのに、よく見ればどこかの制服らしく、ネクタイに校章のようなロゴが入っていた。
 見たことないけど、どこのだろう。
「…なに」
「気分、悪いんですよね? タクシーか救急車、呼びます?」
「君に関係ないだろう」
 ないけどさ。
 土気色の顔で強がってもダサいぞ、青年。
「死なれたら、目覚め悪いから」
「…は?」
「この間、そこで昼寝してたおじーちゃんが夕方になっても起きないんで、おかしいなーって思った近所のひとが救急車呼んだら、脳出血起こしてて動けなくなってたの。あなた、若いから大丈夫かもだけど、万が一、明日のニュースで身元不明の死体が転がってたとか言われたら、私の気分が悪い」
「…手足は動くし、耳も聞こえてる」
「なら、大丈夫か。とりあえず、水はあげる。この辺、自販機ないし」
 無理やりペットボトルを握らせて、通りすがりの義務は果たしたとスッキリして、背中を向けた。
「え、ちょっと、君…」
 なんか言ってるけど知らない。
 水、未開封だけど、気持ち悪ければ捨てるだろうし。
 善意の押しつけ…ではなく、単純に私自身の気持ち悪さ解消のためだから、相手の反応は気にしないのだ。
 うちに帰って、おやつ食ーべよ。




 私の家は、The Kitchenというカフェをやっている。
 大きい店じゃないけど、常連さんも多くて、ご近所に愛されている店だと思う。
 玄関側から厨房に入ると、「あ、おかえり」と父の声がした。
 オーブンから出したばかりらしく、受け皿の上でオニオングラタンスープがグツグツいっていて、いい匂い。
「ただいまー。手伝う?」
「いや、桜子さんが出てくれてるから大丈夫。すぐおやつ出すから、手ぇ洗って」
「はーい」
 バッグは玄関の上がり框に置いて、手を洗っていると、「あ、桃」と母の声がした。
 父と入れ替わりに店から入ってきた母は、店の制服を着ていることもあって、いつも通りの年齢不詳だ。父曰く、「桜子さんは三十半ばで歳取らなくなったよね」。
 実際、父より母のほうが年上なのに、どこに行っても、そうは見られない。
「おかえり」
「ただいまー」
「今日のおやつ、オレンジのタルトだって」
「やった。じゃあ、紅茶にしよう。お母さんも飲むよね?」
「飲むー」
「桃、お父さんも飲む」
 ひょいと店とつながっている小窓から、父が顔を出す。
「はいはい」
 うちは家族仲がいいほうだと思う。
 中一から一年半くらい、反抗期だったけど、気がついたら終わっていたし、性格が母似だからか、外に発散するより内に籠ってグダグダしている期間が長かった。実際、両親にも、「桃はイヤイヤのほうが凄まじかったから、言葉が通じる反抗期のほうが楽だった」と言われた。比較対象、幼児かと思わなくもない。
 長く伸ばした髪を括って、ヤカンに水を汲み、湯を沸かす間にポットとカップの準備をして、茶葉を選ぶ。
 我ながら、この手の手際がいい自覚があるけれど、カフェの娘だからというよりは、父と母が楽しそうにやっているのを見て、真似したかったからだと思う。
 イングリッシュブレックファーストをミルクティにして、なぜか厨房にも置いてある家族分のマグカップに注ぎ分けると、父が切り分けたタルトの皿を調理台に並べるところだった。
「今日のおやつ、オレンジとチーズのタルト。ちょっと改良してるから、意見聞かせて」
「はーい。いただきます」
「いただきます」
 母と調理台を囲んで座り、早速フォークを手に取った。
 サクサクのタルトにたっぷり詰まったオレンジとチーズのムースの上に、スライスオレンジが敷き詰められている。
 ひと口削って口に入れると、爽やかな香りと酸味、まったりした甘味が程よく広がる。
「んー、美味しい」
「美味しいねえ。…改良したって、タルト生地のことかな」
 母がタルトの断面に目を凝らす。
 確かに、前に食べたのより薄焼堅焼きで、少し塩味が強い。あと、全体的に印象が違う。これ、なにが原因だろう。
「ぽい。…あと、ムースの風味?」
「ん……あ、洋酒変えたね」
「そう? ……んん、お母さん、凄い。これ、ラム酒だよ」
「ほんとだ。甘さも控えめにして、ラム酒足して……」
「酸味が強い! オレンジ果汁の割合、増やしたんじゃない?」
 顔を見合わせて頷いたタイミングで、後ろから「正解」と父の笑い声がした。
「ふたりにかかると、瞬殺だなー」
 調理台から自分のマグカップを取り、母の隣に腰を下ろす。
 白シャツに黒のパンツとロングタブリエというありがちな制服だけど、我が父ながら半端なく見栄えがする。
 うちの父が、世に言う「美形」「イケメン」と呼ばれる部類だと理解したのは、いつだったか。
 公園や学校、買い物と行く先々で、「素敵なお父さんね〜」「カッコいいパパで羨ましい」と言われ続けてきた人生だけど、わりと大きくなるまで、「素敵」「カッコいい」が性格というか性質のことだと思っていた。
 だって、お父さん、ものすっごい優しいし。お母さんのこと、死ぬほど大事にしてるし。
 躾なんかは厳しいと思うけど、クラスメイトの男子なんて、うるさいし、意地悪だし、嫌なことしかしないし言わないし、あんなのと比べるのも馬鹿馬鹿しいけど、うちのお父さんってカッコいい。
 まあ、娘の前でも平気でお母さんといちゃつくのはどうかと思うけども。
 ともかく、元々、ファザコンで父が理想の男性像になっていたのに加え、御厨の親族が押し並べて目が痛くなる系の顔ばかりで、うちの父親が世の父親のスタンダードだと信じ込んでいた。
 でも、参観とか運動会でよその父親というものを目にする機会が増えるにつれ、どうも我が家の顔面偏差値と、両親の関係性は、少々世間の基準値から逸脱しているのでは、と気がついた。
 ついでに、周りの男子たちの顔がどれも同じように見えていることも自覚した。
 みんな、平たくて印象が曖昧。
 生まれたときから視覚的濃い味に慣れてしまった弊害らしい。
 うちのごはんは薄味なのに…。
 そんな濃い味の顔の父は、母の横で嬉しそうに笑っている。
「後味をもっとさっぱりさせられないかなーと思って、レシピ変えてみたんだけど。どう?」
「すっごい美味しいよ。春夏用レシピはこれでもいいかも」
「ほんと? 桃は?」
「んー…女子高生的には、もうちょい甘味が残ってもいいかなあ」
「そう? 大人向け?」
「てか、このムースだと上のオレンジの皮の苦味が残るっぽ」
「なるほど。桜子さん、どう思う?」
 私と父の視線を受けて、もうひと口頬張った母が軽く首をかしげる。
「そうだねえ……なんなら、スライスオレンジじゃなくて、あっさりめコンポートとか、果肉だけにしてもいいかも?」
「それだと、オレンジのフレッシュさが弱くならない? 柑橘って皮が命なとこあるし」
 ふたりが話し込む横で、美味しく平らげる。
 育ってきた味だっていうのもあるんだろうけど、やっぱりお父さんのケーキがどこの店のより美味しい。
「ごちそうさまでした。お母さん、着替えてきたらお店代わるよ。四時から授業でしょ」
「あ、ありがとう」
 母は大学講師をしながらマンツーマンレッスン専門の日本語教師をやっている。昔は日本語学校でも教えていたらしいけど、今は完全にフリーランスだ。
 店で授業をする日もあるけど、今日はオンラインレッスンだから、一時間は書斎にしている部屋に籠る。
 鞄を持って三階の自分の部屋に上がり、私服に着替えて店に降りた。
 制服を着ないのは、うちの学校がアルバイト禁止で、めんどくさいから。
「あくまで家の手伝い」だと主張するために私服を着ているけど、意味わからん。学校の先生たちも、しょっちゅううちでコーヒー飲んでるし、両親とも顔馴染みだから意味ないにも程がある。
 私専用のエプロンの紐を結びながら誰もいない厨房を抜けて店に出ると、カウンターで父がコーヒーを淹れていた。
 忙しいときや一度に量を捌くときは厨房で淹れるけど、余裕があるとカウンターで作業をするのだ。
「お待たせー」
「桃、これ四番さんのだから、セットして」
「はーい」
 トレイのケーキを皿に載せて、カトラリーを揃える。
 父が淹れたコーヒーも一緒にして、常連さんたちの席に運んだ。
「お待たせしました。いちごタルトとチーズケーキ、コーヒーのセットです」
「お、ありがとう」
「桃ちゃん、久しぶりだねえ」
 町内会のおじいちゃんふたり組が、ニコニコ笑う。
 ひとりは町会長さんの川端さんで、もうひとりはそのお友達の加藤さん。だいたいふたりで連れ立って、おやつを食べに来る。
「この間まで剣道が忙しくって。学校も始まったし」
「そうか、桃ちゃん、もう高二だっけ」
「早いもんだねえ。この間まで、桜ちゃんにひっついてたのに」
「それ、十年は前ですよう」
「悪い悪い」
 加藤さんは、お孫さんがお嫁に行ってしまって寂しいらしく、世間話が長くなりがち。
 でも、お客さんとお喋りするのも好きだから、店を手伝うのは楽しい。
「そういや、この間、桃ちゃんが公園で救急車呼んだひと」
「あ、はい」
「あのひと、命に別状はなかったらしいよ」
「そうなんですか? よかった」
 ふと思い出したのは、今日の帰り道に声をかけた相手だった。
 彼に言ったことは嘘ではなく、実際に救急車を呼んだのが私だというのを黙っていただけだ。
 あのひと、ちゃんと家に帰れたのかな。
「去年から、町外れに家を建ててただろ。あの家に越してきたんだって」
「じゃあ、引っ越してすぐに体調不良?」
「そうなるだろうねえ。元々、療養目的で越してきたらしいけど」
 療養って、こんな温泉も自然もないところに?
 同じように疑問に思ったらしく、加藤さんが眉を寄せた。
「こんなところで療養なんてできるんかいな」
「なんでも、孫の進学の都合もあったらしい。都会のひとだからか、あんまり話さなかったけども。事情があるんだろうさ」
 それでも随分聞き出したほうだ、とは思ったけど言わない。
 伝票を置いて離れようとしたと同時に、カロンとカウベルが鳴って、父の「いらっしゃいませ」と被った。
 顔を向けると、見知った相手だった。
 私が通っている高校の制服を着た男子生徒で、川端さんたちにお辞儀をして、こちらに足を向ける。
「いらっしゃい」
「桃、久しぶり」
 爽やかな笑顔で言うが、絶対に久しぶりではない。
「毎日学校で会ってるでしょ。カウンターでいい?」
「うん」
 誰もいないカウンター席に通して、メニューとお冷のグラスを用意する横で、父が話しかけた。
「葵くん、店に来るの久しぶりだね」
「はい。ずっと忙しくて」
「お父さんの仕事、手伝ってるんだって? 高校生なのに凄いねえ」
「…おじさんの情報網って、どうなってるんですか?」
「秘密」
 篠宮葵は、有り体に言えば私の幼馴染だ。
 幼稚園のときからのつき合いで、同じ歳。
 だけど、家はとんでもない豪邸で、いわゆる世界的大企業の御曹司。
 そんなのが庶民の通う幼稚園にいた理由はよくわからないけど、葵のお母さんがものすごい砕けた庶民派奥様なので、その辺が関係しているのかもしれない。
 今は、私と同じ高校に通っているが、文系国立コースの私とは真逆の理系男だから、校舎すら違う。
「桃、おじさんになんか言った?」
「言ってない。てか、葵がおじさんの手伝いしてるのも、今知った」
 お冷のグラスを出して言えば、苦笑いめいたものを浮かべた。
「手伝いなんて立派なもんじゃなくて、挨拶に連れ回されてるだけだよ」
「ああ…なんか、それっぽいのは聞いたかも。えーと…顔つなぎ? 後継者がどうのとか」
「それ、誰から?」
「クラスの子。ほら…ショートカットの吹奏楽部の女子で…なんとか原さん」
 この間、クラス替えがあったばかりで、知らないクラスメイトの名前はうろ覚えだ。
 成績順のクラス分けだから、そう大きな変動はないけども、文系は出入りが激しいのに加えて、理系科目で順位が変りやすく、多少は入れ替わる。
 だけど、葵は少し考えるように首をかしげただけだった。
「相模原?」
「あ、その子。葵、文系クラスの生徒の名前まで覚えてるの?」
「親同士が知り合いなだけ」
 眉間にシワを寄せて、「紅茶ちょうだい。桃が淹れたやつ」と注文を投げて寄越した。
 うち、個人指名はやってないんだけどな。
 父を見ると、軽く肩を竦める。
 仕方ないから、カウンター用の湯沸ポットで紅茶を入れる準備を始めた。
「他に何か言ってた?」
「誰が?」
「相模原」
 葵の眉間のシワは相変わらずだけど、珍しいことじゃない。
 昔から、いきなり不機嫌になったりご機嫌になったりするのだ。情緒不安定か。
 話しているうちに機嫌が治るのもいつものことなので、気にしない。
「んー? 別に……いつものとあんま変わんなかった、と思う」
 葵の話を他人から聞くのは、珍しいことではないのだ。
 曰く、「眉目秀麗、文武両道、歩いてるだけで目の保養だし、お金持ちなのに居丈高なとこもないし、誰にでも優しいし! あんな男子、他にいないよね〜! 御厨さん、幼馴染って本当? 彼氏じゃないの?」。
「葵がイケメンとかお坊ちゃんとか褒め称えた後に、私に彼氏じゃないのかって確認がきた感じ」
「…そう」
 この手の話、葵は好きじゃないんだと思う。
 いつも難しい顔で聞いて、もの言いたげに私を見て頷く。
 たぶん、どうして同じような会話を何回もしてるんだって言いたいんじゃないかな。それを私に言われても困るけど。やってるの相手だし。
 ただ、葵を見た女子の反応、理解できなくもない。
 濃い味の顔を見て育った私も、葵の顔を薄味とは思わないくらいだから、普通の女子からすれば、カッコいいんだろう。背も、父よりは低いけど、学校の男子の中では高いほうだし、同世代の男子と比べると言動も大人びている。
 頭の良さは、小学校のときにアメリカ辺りで飛び級してしまうほうが本人のためじゃないか、という話が出たくらいにいいみたいだし、常に学年トップだ。結果がわかりきっているから受けないだけで、全国模試で全科目一位を悠々取れるくらい、らしい。
 全て伝聞調なのは、全部本人以外の人間から聞いた話で、私がいちいち葵に確認を取らないからだけども。
 あと、普段の葵を見ていると、そんなハイスペ様には到底見えないから、まあどうでもいいというか。
「はい、ウヴァエクストラ。ミルク付き」
「ありがと」
 ポットサービスで、葵の好きな茶葉を出す。
 一杯目は目の前でカップに注ぐと、嬉しそうに笑った。
「桃、厨房で仕込みやってるから、任せていい?」
「うん。ケーキの在庫、こっちにある分だけ?」
「レアチーズだけ、まだ厨房の冷蔵庫にあるから、なくなったら言って」
「了解」
 父が奥に引っ込み、お客さんは川端さんたちと葵だけ。
 急ぎでやらなきゃならない作業もなさそうだし、乾燥機から出したままになっているカトラリーを磨くことにする。こういう単純作業、結構好き。
「桃さあ」
「んー?」
「今年こそ、生徒会、やらない?」
 ナイフから目を上げると、葵が頬杖をついてこちらを見つめている。
 父と同じような長い前髪だけど、葵のお母さんが外国の血が混ざったひとだからか、色素は薄い。目の色も、少しだけ明るい。
「やらないよ。向いてないって言ってるでしょ」
「絶対、そんなことない。桃、記憶力凄いし、頭の回転速いし」
「私のは頭がいいんじゃなくて、野生のカンだよ。お父さん譲りの」
 母は理論的な思考回路だけど、私は全然違う。祖母が言う、「御厨の血」が濃いんだと思う。
「野生のカンでもいいじゃないか。今の生活、桃と一緒にいられる時間が少なすぎて病む」
「あのねー、葵がそういうことを迂闊に言うから、私が女子に睨まれるんでしょ」
 葵絡みで私に話しかけてくる人間は、多い。
 興味や好奇心由来のものもあるけれど、妬み嫉みが圧倒的だ。
 あの相模原という子も、最初は完全に喧嘩腰だった。
「だから、妙なのに絡まれたらすぐ連絡してって言ってるのに」
「めんどくさいもん。みんな、私が黙って聞いてると、勝手に静かになってどっか行っちゃうし」
 手応えがなさすぎるのか、反応がなくて困るのか、黙って言いたいことを聞いてやるのが、一番面倒がない、と学んだのは中学くらいのときだったか。
 あと、祖母譲りのこの顔が怖いらしい。
 愛想笑いもせずに見つめると、殆どの人間が怯んで言葉が減る。便利と言えば便利。
「まあ、女子たちが絡んでくるのも、わからなくもないけど」
「…そう?」
 なぜか窺うような視線を寄越す理由がよくわからない。
「確かに、葵、他の男子みたいに容姿でいじってこないし、優しいもんね。誰にでも親切にするから、勘違いする子もいるかもだし」
「え…いや、そんなことない、はず、だけど」
「そんなことあるでしょ」
「や、本当に勘違い…いや、ちょっと待って。桃、また外見でなんか言われたのか」
 腰を浮かせそうな勢いで食いついてくるのも、いつものこと。
 両親以上に過保護かもしれないけど、実は葵より私のほうが剣道強いし、伯父たちのおかげで身を守る術も多少は知っているから、そんなに心配しなくてもいいのに。
「別に直接は何も。遠巻きに、おっぱい大きいとか遊んでそうとかバカ言うのがいるだけ」
「…新しいクラスメイト?」
「うん」
「ふうん…わかった」
「何が?」
「別に」
 にっこり笑って、「ケーキもらえる?」とカウンターの中を指さした。
 ケーキケースを開ける後ろから覗き込む。
「あ、アップルパイある。それ、ひとつ」
「はいはい」
 クリームをホイップする間にトースターでパイを温めるのを、葵は、いつものように嬉しそうに眺めている。
「結構甘党だよねえ」
「俺?」
「うん。相模原さんが、葵は甘いもの好きじゃないって言ってたけど」
「めちゃくちゃ食べるじゃん。子どものときから」
「うん。だから不思議で」
 頬杖をついたまま、視線を天井に固定する。
 葵が考えごとをするときの癖だ。
「…あ……いや…どれだ…あれか…?」
 意味不明な独り言を放出する幼馴染をよそに、アップルパイを仕上げた。
 いい感じに温まったパイから香るシナモンとバターの匂いが幸せ。冷たいクリームと一緒に口に入れると、もっと幸せになる。
「お待たせしました。アップルパイのクリーム添えです」
「いただきます」
 律儀に手を合わせてフォークを取る。
 葵は食べ方が綺麗。
 シュークリームやミルフィーユでも、上品に平らげる。
 今も、サクサクのパイ生地を散らかさずに食べている。
「やっぱ、おじさんのケーキが一番美味い」
「でしょ」
「…桃、おじさん褒められると、嬉しそうだよね」
「お父さん、大好きだもん」
「そーですか」
「お母さんも大好き」
 ファザコンだけでなく、マザコンとも言われるけど、自分の親が好きでも何も問題ないと思う。
 まあ、父を見ていると、私は早いうちに独り立ちしたほうがいいのかも、とは思う。
 邪魔っけにされてるとは全く思わないし、実際、独り暮らしはせめて就職してからにしろって言われてるけど、お母さんとふたりきりにしてあげたほうがいいのかなーって。
 ふと気づくと、葵がグレた顔でカウンターに懐いていた。
 皿はとっくに空っぽだ。
「どうした、イケメン生徒会長」
「何それ」
「クラスの子たちがゆってた。葵みたいなカンペキ男子が生徒会長って漫画みたい〜って」
「桃はさー、いっつも俺の噂話ばっかだよね」
 どういう意味だ。
 私が噂してるんじゃなくて、黙って座ってるだけで右の耳から左の耳に抜けていくんだけど。
 でも、カウンターにへばりついている顔を見るに、そういうことが言いたいわけではなさそう。
「葵、有名人だからね」
「みんな、好き勝手に想像して、適当なこと言ってるだけだよ」
「そうなの?」
「そうなの? って思うなら、俺に聞けばいいじゃん」
「興味ないのに?」
「ひどい」
 傷ついたように眉を下げて、ポットに残っていた紅茶をカップに注いだ。
 すっかり濃くなってしまったそれに、ミルクをたっぷり入れると綺麗なオレンジ色になる。
「だって、葵のことだしね」
「桃、本当に俺の扱い雑」
「そうじゃなくて。周りのひとからは、葵ってそう見えてるんだなーっておもしろくて」
「桃には見えてないの?」
「ないよ。だって、歩いてるだけで女子にキャーキャー言われる生徒会長様が、目の前で食べクズほっぺにつけてアップルパイかっ食らってるわけだし」
「えっ」
 慌てて顔を擦る葵の仕草がアライグマぽくて、つい笑いが洩れる。
「毎日家でフルコース食べて、天蓋付きのベッドで寝て、風呂上がりはバスローブ着てるんだって」
「…俺?」
「うん。あとはなんだっけ…庭にはドーベルマンがいっぱいいて、お付きのひとにずっと囲まれてるから息苦しくて、厳格なご両親に厳しく育てられた?」
「どこから湧いてんの、その三流ドラマ」
「ねえ。ちなみに、葵の家に行くと、必ずアフタヌーンティでもてなされるんだって。今度行ってもいい?」
 葵はうんざりとため息をついて、紅茶を一気に飲み干した。
 不機嫌全開で、「おかわり。今度はアッサムで」とカップを突き出す。
「桃ならいつでも歓迎だけど、出てくるのは煎餅と玄米茶だからな」
「私、羊羹も好き。葵の家のおやつ、和菓子豊富で嬉しいよ」
 汚れた食器を引いて、アッサムの準備をする。
 うちで使っている茶葉は、母が厳選したものが多くて美味しい。
 葵は子どものころは母親に連れられて、中学生になってからはひとりで通うようになったが、昔から苦いコーヒーは苦手で紅茶一辺倒だ。
 そういや、「ブラックコーヒー、似合うよね」という話も聞いた。誰か、飲んでるとこでも見たのかと思ってたんだけど。
「なんでもかんでも知ってるわけじゃないけど、周りから聞く葵の話って、どこまで本当かわかんないことばっかりだから、どうでもいいやーって思うの」
「ふうん」
「それに、いくら幼馴染でも、聞かれたくないことや知られたくないことってあるでしょ」
 昔から、そうだ。
 幼稚園からひとりだけ私立の小学校に行くことになったときも、中学生のころ、長期留学することになったときも。
 初めての彼女ができたときも、高校生のくせにお見合いをしたときも。
 葵は、いつでも私には何も言わなかった。
 私は、いつでも他人から聞かされた。
 だから、きっとそれが彼と私の距離なのだ。
「桃に訊かれて、嫌なことなんてないよ」
 ポットから目を上げると、真剣な眼差しと視線がかち合った。
「桃に知られたくないことは当然あるけど、訊かれたら答える」
「そんなこと知ったら、後が怖そうだからいい」
 それに、本当に知られたくないことなら、葵は上手くはぐらかすだろうし、私は気づかないと思う。
 なら、聞いても聞かなくても一緒だ。
「別に、俺の秘密知ったから結婚しろなんて言わないよ」
「はいはい」
「本当だって」
「そうね。そういうことはお見合い相手に言いなさいね」
 温めたポットにコロコロ丸まったアッサムCTCの茶葉を入れて、沸騰する湯を注ぐと、湯気と一緒に香りが立ち上る。
 この瞬間が好きなのは、子どものころから変わらない。
 厚みがあるのに、どこか青葉を思わせる香りを吸い込んで、顔を上げ、ギョッとした。
「どしたの、ぎっくり腰?」
 葵がテーブルに手をついて、中腰のまま、幽霊でも見たような顔で固まっていた。
 数年前、正月に集まったときにいづみ伯父さんが立ち上がった拍子にやっちゃったことがあるんだけど、あのときとそっくり。伯父さんはとんでもない声出してたけど。
「ねえ、大丈夫? 動ける?」
 視線を私に固定したまま、微動だにしない葵に、冗談抜きでまずいのかと思い始める。
 どうしよう、伯父さんのときは本気で動けなくて、大変だったよね。あ、とりあえずお父さん呼ぼう。
「ちょっと待ってて。今、お父さんに…」
「…て」
「え?」
「どうして、桃が知ってるんだ」
「どうしてって、前に伯父さんが目の前でぎっくり腰やったから」
「違う。見合い」
「見合い……ぎっくり腰は?」
「なってない。腰はいいから、見合いのこと、誰から聞いたんだ」
「誰って、おばさん」
 瞬間、ドサッと椅子に落ちるように座り、聞いたこともないような深いため息をついた。
 頭を抱えて黙り込んだ葵の前に、コゼーを被せたポットとひっくり返した砂時計を置く。
 いったい何だったんだ、と言おうとしたけど、別のところから声がかかった。
「桃ちゃーん。お冷もらえるかい」
「はーい」
 川端さんと加藤さんのグラスにお冷を補給し、ついでにコーヒーのおかわりを承ってカウンターに戻る。
 葵はさっきと同じ姿勢で、何かブツブツ唸っていた。
 これ、放っておいたほうがいいな。
 コーヒーを淹れようとして、コーヒーポットがないことに気づいて、厨房に入った。
「お父さん、コーヒーポット、こっち?」
「ああ、うん」
 うちの目玉料理、タンシチューの下拵え中らしく、大量の刻み野菜がパットに積み上がっている。
 コンロの端に置いてあったポットを取って差し出しながら、父はなぜかマジマジと私を見つめた。
「なに?」
「ん…桃は本当に桜子さん似だよねえ」
「ありがとう」
 父にとって、宇宙一可愛くて理想の女性が母だとよく知っているから、母似というのは最高の褒め言葉だ。
 だけど、なぜか「ごめん、今のは褒めてないんだ」と苦笑いする。
「そうなの? お母さんに似てるのに?」
「ほら、桜子さん、ちょっと鈍いとこあるだろ。そこも可愛いんだけど」
「ああ」
 御厨一族のせいで霞むけど、母も世間一般基準で言えば、十分美人…可愛い。
 普段はほとんどメイクとかしないし、機能性重視の格好だから余計に地味に見えるけど、羨ましくなるくらい丸くて大きな目と笑顔が、娘の目から見ても魅力的。私が二十歳超えたら、冗談抜きで姉妹に見えそう。
 そんな年齢不詳隠れ愛嬌美少女だから、ときどきおかしな男に目をつけられるんだけど、本人、全く気づかない。
 いつも、母専属セコムの父が感知して排除するのだ。
 あからさまなナンパ相手でも、「目が悪いのかな」って真顔で言うし。
 だけど、私が母似って、ああいうとこも似てると…?
「お父さん、私、自分が相当美少女だって自覚あるし、警戒心も持ってるよ」
 祖母と伯父譲りのこの顔、私がどんな阿呆だとしても、周りから飛び抜けているとわかるし、ここは母からの遺伝で間違いない巨乳も、鬱陶しい他人の視線を集めると理解している。
「しっかり者の娘で嬉しいんだけどね。うん…まあ、頑張れ、青少年」
「なんじゃそりゃ」
 父が何を言いたいのか、よくわからないまま、「コーヒー頼むよ」と店に送り出された。
 葵は立ち直ったようで、難しい顔でカップを抱えている。
 電動ポットで沸かしていた湯はとっくに沸騰していたから、急いでコーヒーポットに移して温度を下げる。
 ミルで豆を挽き、フィルターを準備してコーヒーを淹れた。
 うちのブレンドは、酸味少なめで苦味とコクが勝つ。雑味のない香りも特徴だ。
 私が初めてコーヒーの淹れ方を教わったのは父からで、紅茶を教えてくれたのは母だ。
 はじめは、ふたりに美味しいコーヒーと紅茶を淹れてあげたくて練習して、高等部に無事進学できると決まったときに、「桃の腕前なら、お客さんに出しても喜んでもらえるよ」と店で提供するお許しが出た。
 そういや、あのときは葵が何も言わずに留学したことに落ち込んでたころだったから、余計に嬉しかったんだよなー。緊張もしたけど、お客さんに「また飲みたくて来たよ」って言われて、もっと美味しく淹れられるようになろうって思ったんだ。
 コーヒー二杯分、きっちり抽出して、温めたカップに注ぎ分ける。
 テーブルに運ぶと、加藤さんが「お、来た来た」と相好を崩した。
「桃ちゃんのコーヒー、店長さんより美味いから、いるときは頼まなくと収まらなくてなあ」
「ありがとうございます。でも、父が聞いたら出禁! って言いますよ」
「なあに、溺愛してる桃ちゃんが褒められてんだから、サービスでケーキが出てくるさ」
「いや、でも本当に腕上げたねえ。最初のころから美味かったけど、今じゃ桜ちゃんにも負けてない」
 コーヒー好きの川端さんに言われると、素直に嬉しい。
「母にも勝ってるって言われるように頑張ります」
「楽しみにしてるよ」
 我ながら足取り軽くカウンターに戻り、不景気な顔の葵に首をかしげた。
「どうしたの。紅茶、渋い?」
「紅茶は美味い。ただ、自分の母親の思考回路に絶望してる」
「なんかよくわかんないけど、大変そうだね?」
「大変だよ。念のために聞いておきたいんだけどさ、桃が見合いのこと聞いたのって、どんな状況だったの」
「状況って…」
 努力して思い出すまでもない話で、逆になんと言えばいいのか悩む。
「いつも通り、お茶しに来て、そういえばこの間、葵が見合いしたのよーって」
「…わかった…ありがと」
「どういたしまして?」
 聞いてどうするんだろうと思ったけど、疑問を口にする前に、葵がやたらキッパリと言った。
「言っておくけど、俺、結婚しないから」
「ああ、大学行くもんね」
「ちが…」
「桃、ありがとう。お母さん、代わるよ」
 何か言いかけた葵の声に、母の声が被った。
 振り返ると、厨房との出入り口から顔を覗かせている。
「授業、一コマだけだっけ」
「うん。今日はバータイムもあるからね。宿題あるんでしょ」
「あるある。新しい先生、厳しくって」
「じゃあ、夕飯の前にやっちゃいなよ。あ、葵くん、いらっしゃい」
 そういや話が途中だったと視線を戻すと、今度は沈鬱な顔で「お邪魔してます」と唸る。
「…なんかあったの?」
「たぶん、私がお見合いのこと、知ってたのが嫌だった?」
「え、なんで?」
「わかんない」
 顔を見合わせていると、母の後ろから今度は父が顔を出した。やたら生ぬるい笑みを浮かべている。
 そして、なぜか葵に向かって、ひらひらと手を振った。
「どしたの、ほづみくん」
「や、別に。桃、今日は夕飯遅いから、おなか空いたら冷蔵庫のキッシュ食べといて」
「りょーかーい。葵、一緒に宿題する?」
「いや、帰る。母さんと真面目に話しないとダメだし」
「お見合いのことなら、ほんとにただの世間話だったよ?」
 不穏な気配を感じたので言い添えたけど、葵はやたらと頑なに首を振った。
 なんなんだろうな。見合い自体隠してても、結婚するとなったらさすがにバレると思うんだけど。
 子どものころは、もうちょっとわかりやすかったのに、と思いながら、荒い足取りで帰っていく幼馴染を見送ったのだった。

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