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東京でおいしい話。

「おいしい〜」のふたりが、ひたすら東京で美味しいもの食べてるだけの話。



「東京に、美味しいもの食べにいかない?」
 唐突に、旦那がなんか言い出した。


 最近、小松崎さんのおひとり様来訪が多い。
 クリニックの昼休みが長めなのと、うちの隣の駐車場が来客用だと知ったことで、ランチタイムにやってくる頻度が上がったのだ。
 私が外の仕事や大学院でいない日が多いけど、今日は珍しく私のいる時間にやってきて、カウンターでパテサンドにかぶりついている。
 御厨三兄弟に加えて、タイプの違う美形が増えたことで、商店街の奥様方の利用頻度も上がっているような気がしないこともない。
 もっとも、ひとりで来るときの小松崎さんは、大抵医学専門誌らしきものを片手に食事をしているから、気軽に声をかけるひともいないんだけど。
 今日は、食後のコーヒーを飲みながら、何やらほづみくんと話していた様子だったが、私は午後から教授の研究室に呼ばれていたから、途中離脱した。
 だから、夜になってほづみくんが投げてきた急な提案に、小松崎さんが関係しているとは思いもしなかったわけだけども。

 

「東京で美味しいもの…」
 夕飯の席で、ほづみくんが楽しげに切り出した話に、首をかしげる。
 今日は、いいワインが手に入ったとかで、スペシャルメニューらしい。
 うちのごはん、スペシャルじゃない日のほうが少ないと思うんだけど。
「なんで東京?」
「小松崎さんから、東京出張の話聞いてさー」
「出張? 個人クリニックなのに?」
「学会があるんだって。先週、行ってきたって話をしてたんだよ」
「へー。…で、美味しいもの?」
 殆ど行ったことがないから、東京に美味しいものがある、というイメージが湧かない。
 有名な店はたくさんあるんだろうけど、東京名物ってなんだっけ……草加煎餅?
 ピンときていない私の前に、ドンッと大きな皿が置かれた。
 子どもの手首くらいありそうな太さの、ソーセージだ。薄い皮の向こうにぎゅぎゅっと詰まった肉が透けている。
「わーっ、すんごいサイズのソーセージ。なんか腸詰めって呼びたくなるね」
「だろー。いつもの農家さんのオリジナル商品なんだ。店で使うのは原価高すぎて無理なんだけど、いっぺん食べてみたくてさ」
 続けて、野菜の炒めものらしい器とマッシュポテトがてんこ盛りになった陶器のボウルが並んだ。ガラスの小鉢もついてくる。
「こっちがセロリとリーキとイカの中華炒め、口直しのピクルスとマッシュポテトは塩胡椒にアンチョビ混ぜただけのシンプル味。ディジョンのマスタードとマヨがあるから、お好みでつけて」
「おお〜。セロリとリーキって、ワインに合うの?」
 どちらも強い香りが特徴的で、個性のあるワインじゃないと難しい印象だ。
 今日のワイン、赤ワインか発泡系なのかな、と思ったら。
「合うと思うんだ、これなら」
 ワインバケツをワゴンの下段から上段に移動させ、氷の中からボトルを引き抜く。
 透明なボトルを満たす液体の色に、眉間に皺を寄せた。
「ロゼ…じゃないね。赤みが強い」
「小松崎さんの東京土産、アンバーワインでっす」
「アンバーワイン…」
「今は、オレンジワインって言えば通りがいいかな。ロゼは、黒ブドウを白ワインの醸造法で作るけど、これは白ブドウを赤ワインの要領で作るんだ」
「てことは…白ワインの皮とか種を残した果汁から醸造する?」
「その通り」
 手際よく抜栓して、テイスティングする。
「ん、状態もいいね。とりあえず、飲んでみて」
 薄いグラスから匂いを嗅ぎ、恐る恐る口をつける。
 意外なほど、香りが立ち、口に含むとアロマがさらに強くなる。
 飲み込むと、白ワインの爽やかさと赤ワインの程よい渋みが口に残った。
「すっごい不思議な後口」
「どんなふうに?」
「飲み込むまでは白ワインみたいなのに、飲み込んだ後にしっかりタンニンの感覚が残るの。でも、赤ワイン独特のアルカリっぽさとかがなくて、いくらでも飲めそう」
「美味しい?」
「すっごく!」
「よかった」
 笑って自分もひと口飲み、納得したように頷いた。
「うん、ワインによってタンニンの強さっていろいろなんだけど、これくらい残るなら、セロリや肉類とも合いそうだね。冷める前にどうぞ」
「いただきます!」
 肉汁があふれ出るソーセージにかぶりつき、ワインを飲む。
 赤ワインほど重くないタンニンが動物性タンパク質と抜群に合うし、そこにセロリを口に入れると、強い香りと、それに負けないアロマがいい塩梅に混じり合う。
「うっわー…なんか、アンバーワインってあれだね、赤ワインと白ワインのいいとこ取りしたみたいなワイン」
「だろ。もちろん、ワイナリーや原産地で個性も出るんだけどさ」
「なるほど……このソーセージも、すんごい肉! って感じだし、幸せな組み合わせ」
 フランス産のマスタードをたっぷりつけて頬張ると、まろやかな酸味とスパイシーさが加わって、いっくらでも食べられそう。
「んー、普通のお肉より、ソーセージのほうが満足感あるってすごいねえ」
「不思議だよね。スパイスとの塩梅もあるから、ワインとのマリアージュ、結構悩むんだけどさ」
「そういや、東京行こうって、ワイン屋巡りでもするの?」
 なめらかなマッシュポテトに、こぼれた肉汁を混ぜながら尋ねると、ほづみくんは軽く首を振った。
「や、大手卸売業者の直売店とかあるにはあるんだけど、ネットでも問題ないしね。そうじゃなくて、美味しい鰻、食べたいなーって」
「鰻」
「前の店にいたころって、わりと東京の店を食べ歩きしたりしてたんだけど、やっぱフレンチとか洋食系中心で。でも、今日、小松崎さんと話してて、鰻とか天ぷら、蕎麦みたいなもんって全然だったなあって思ったんだよ」
「じゃあ、美味しいものって、和食?」
「んー…言い出しといてなんだけど、僕ら、和食は基本薄味好みだから、ものによっては合わないかも、とは思うんだよね。だから、系統は変わっても、濃さは変わらないもの狙いでどうかなと」
 咄嗟に思いつかず、考え込んでしまう。
 系統は違うけど、濃さが変わらないって何だ。
 でも、ほづみくんは予想がついていたかのように続けた。
「鰻とか天丼って、甘味優勢とか塩味優勢とかあっても、味の濃さってずば抜けて変わらないだろ」
「ああ、なるほど」
「そういうので、一箇所でドカンと贅沢して、あとは東京駅巡りして限定品とか漁る」
「てことは、日帰り?」
「のほうが、桜子さんの重い腰も上がるかなって」
「…仰る通りで」
 でも、ごはん食べに行くために、遠出するのか…と思ったら。
「それに、今、上野の美術館でフェルメール展やってるんだよね」
「え」
「早めの昼ごはんで鰻食べて、美術館でフェルメール見て、遅めのおやつでも食べて、腹ごなしに東京駅歩き回ったら、ちょうどよくない?」
 イカを口に入れ、もぐ、と噛み締めながら考える。
 どこかにツッコミを入れる余地…余地……ない、な。
「いいと思います」
「じゃあ、日帰り東京遊び、行く?」
「行く」
「やった。実は、このワインの卸やってる会社の直売店、東京駅に入ってるんだよね。時間があったら、いいやつ見繕って帰ろ」
「はい」
 くっそう…いい笑顔だな。
 別に文句はないんだけど、ほづみくんがこの手の話を持ち出すときって、大抵、私の反対ポイント見越してる感満載で、なんか負け確定なのが悔しい。
 悔し紛れにワインを飲み干すと、すかさずお代わりを入れてくれる。
「そのソーセージ、もう一本あるけど食べる?」
「…一本はきついかも」
「じゃあ、半分こしよっか」
「うん」
 にまっと笑う顔の小憎らしさったら。
 イケメンだけに腹立つな。
「デザート、マスカットのシャーベットがあるからね」
「…なんか、うまいこと誑かされてる気がする」
「えー、計画的ってゆって」
 悔し紛れに手を伸ばして、綺麗なラインを描く両頬をぶにーっと引っ張った。
 ぜんっぜん、不細工にならなかったけど。



 燦然と輝くタレを纏った鰻。
 が、ぎっしり敷き詰められた鰻重。
 を、前に打ち震えるワタシ。
 匂いだけでも涎が出そうな特上の鰻重を拝む勢いで、手を合わせる。
「いただきます!」
「いただきます」
 向かいに座ったほづみくんも同じタイミングで、箸に手を伸ばし、揃って大きく頬張った。
 甘さ控えめなタレが染みるように絡んだやわらかめのご飯と一緒に、香ばしい鰻の香りと滑らかな脂が口中に広がっていく。
 ほんの数回口を動かしただけで、とろけるように身が解け、皮と混じり合って喉を落ちてしまう。
「…まあ」
「『ん』すら抜けたね」
「鰻と一緒に落ちて行きました。蕩ける…ふわふわっていうか、とろふわっていうか……未知の体験…」
「さすが小松崎さんお勧めの店だけあるね。鰻自体、いいやつだし、正統派江戸前で、タレで香ばしさ出してるし。こっちのほうには、あんまり来たことなかったから知らなかったよ」
「こっちって、浅草?」
 降りた駅の名前を手がかりに当てずっぽうで言えば、案の定、首を横に振った。
「雷門のある浅草までは、歩けなくはないけど、結構距離あるんだ。この辺は、問屋街」
「へー」
 この店には、降りた駅の高架沿いに歩いて来たんだけど、確かに大きなシャッターのある倉庫みたいなところが多かった気がする。
 まあ、道沿いの桜とか、わりとすぐに漂ってきた香ばしい匂いに意識持ってかれたから、曖昧だけども。
 お重いっぱいの鰻だけど、欲望のままに食べると、あっという間になくなりそうで、大事に口に運ぶ。
 そんな私を見ながら、ほづみくんは「幸せそうだねえ」と笑った。
「ん…すんごい幸せ。東京までわざわざ鰻食べに? って思ったけど、この鰻なら食べに来る意味ある」
 店自体は、かなりこじんまりとしていて、私たちがいる小上がり以外は、カウンター席が十席あるかないか。
 開店とほぼ同時に来たときは、予約をしていた私たちだけだったけど、すぐに来店客が続いて、満席になった。
 今も、常連さんか、背広の男性がカウンターの中でうちわを扇ぐ大将と世間話をしているけど、他のお客は静かに鰻を口に運んでいる。
 なんでも、生きている鰻を捌くところからやるために、予約なしだと一時間弱は待つ必要があるとかで、殆どが予約客っぽい。ひとりだけ、「大丈夫、のんびり待つよ」と言って、本を読んでいるくらいだ。
「小松崎さん、こんな美味しいの、ひとりで食べたんだ…」
「あ、土産に持って帰ったって言ってた。そもそも、ここに寄ったのって、美樹子さんの好物が鰻だからなんだって」
「なるほど。…はー、肝吸いも美味しい。いいお出汁」
 ここの澄しは、鰹の風味が活きた出汁で、肝と三つ葉、柚皮が入った正統派。
 もっきゅもっきゅした食感の肝は、出汁の風味と絶妙なバランスだ。
「肝、全然生臭さとかえぐみ、ないね」
「ねー、この肝なら、串とかでも美味しく食べられそう」
 ゆっくりしっかり、極上鰻を堪能する。
 うう…もう食べ終わっちゃう。
 なのに、腹八分目の三歩手前くらいの満腹感なのは、鰻に対して白米の量が少ないからだ。
「ここ、ご飯普通盛りでも、私たち基準だと控えめだね」
「そうそう。常連さんだと、タレが染みたご飯堪能したいから大盛りで頼むひとも多いって」
「次があるんなら、大盛り頼みたいです」
「もちろんあるよ。今日の桜子さん、ひと口目でうっとりしてたもんね」
 頼もしい旦那さんを拝む思いで、大事に取っておいた尻尾側を口に入れる。
 くう…っ、堪らん。
「どしたの」
「尻尾のとこの、ヘリが、ちょっとタレ焦げてて、死ぬほど美味しいの」
「なるほど」
 最後の鰻で、タレの一雫すら残すまいと拭いまくって、大満足。
 ほづみくんとお重を拝む気持ちで、手を合わせた。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさまでした。美味しかったね」
「さいっこう。また来ようね」
 支払いを済ませ、店の外に出ると、小春日和で暖かい。
「ここから上野まで、電車?」
「でもいいんだけど、美術館がある公園の入り口から美術館の玄関までちょっと歩くんだよ。乗り換えもあるし。だから、タクシーでばびゅっと移動して、公園の中を腹ごなしに歩くほうが時間も節約できていいかなって」
 どうやら、段取りはしっかりできているらしい。
「そういうもんなのね」
「桜子さん、電車がいい?」
「んーん。土地勘ないから、頼りっきりになっちゃうけど、わかってるひとのプランにまる乗りします」
「盛大に頼ってください」
 笑って差し出してくれる手にしがみついて、腕を組む。
 駅前の通りに出る道を歩きながら、八分咲きといった具合の桜を見上げた。
「いい天気だねえ。重いコート着なくていいから、楽だし」
 今日は、薄いニットに、大きいV字カットのジャンパースカート、その上からオーバーサイズのトレンチを羽織っただけだ。荷物は背中のオシャレリュックひとつ。
「そうだね。このくらいが一番いいかも。もうちょい気温上がると、汗だくになるもんなー」
 夏が苦手な旦那さんは、憂鬱そうだ。
 薄手のマオカラーのトップスにグレージュのパンツ、革のブルゾンに斜めがけのショルダーバッグと、私からすると薄着すぎるようにも見える組み合わせ。
「ほづみくん、体温高いもんねえ」
「新陳代謝がいいって思えば、悪いことじゃないのかもだけど、大量に汗かくせいで夏服の傷みの速さが洒落なんない」
 確かに、Tシャツとか、直に肌につけるものって、ワンシーズンで駄目になるものが多い。
「新陳代謝いいけど、コスパ悪いのか…」
「安売りの量販店とかスーパーの衣料品コーナーがなかったら、結構財布キッツイよ」
 妙なところで締まり屋なのだ、ほづみくん。
「私の服は、ぱんつまで贅沢するのに」
「桜子さんは、汗かぶれするから素材からきっちり選ばないとダメだけど、僕は化学繊維でも平気だし、傷む速度が全然違うじゃん。まあ、だからって三年もののブラは意味成さないからアウトだけど」
「ブラって高いんですよ。私サイズ、メーカーによってはないから、余計に割高になるし」
「おっきすぎるとサイズないって、桜子さんと出会うまで知らなかったよ」
 なぜかうっとりと言ったかと思うと、「あ、タクシーいた」と手を挙げる。
 いつの間にか大通りに出ていたことに、遅まきながら気づいた。
 しまった、普通の声でブラとかぱんつとか言ってたけど、大丈夫かいな。
 キョロキョロ周りを見回して、顰蹙を買っていないか確認する。
 …いける、大じょ………ん???
「桜子さん? タクシーつかまったよ」
「あ、うん。ありがと」
 盛大に首をかしげかけたが、タクシーのドアを押さえて待ってくれているほづみくんのほうへ足を向ける。
 まあ……東京って、ひと多いからな。うん。



 公園の中にある美術館で、日本初公開のキューピッドがメインの展覧会ではあったけど、他の展示作品も見応えのあるものばかりで大満足。
「すんごい楽しかった!」
「名画も、あれだけ並んでるとおなかいっぱいになるねえ」
 目頭を揉みながら、ほづみくんが息をつく。
 私につき合ってくれるけど、そこまで絵画鑑賞に興味があるわけじゃないから、余計に疲れるんだと思う。
 美術館とか博物館では別行動しようと言ったこともあったけど、一度目は語尾に被せ気味に却下され、二度目は泣き怒りで「そんなに僕、邪魔!?」と縋られ、三度目は最後まで言わせてもらえなかったので、もう諦めている。本人がいいならいい。
 ときどき、ごっつい視線感じるけども。私じゃなくて絵を見ろ、絵を。
 ともかく、いつも通り、旦那の視線を浴びながら名画を堪能して、ショップでグッズや図録もしっかり買い込んだあと、時間節約と、じっくり展示品を見過ぎたせいで足が棒のようになっていたのとで、長距離移動はせず、美術館の近場でふたつ目の目的を果たすことにした。
 向かい合って座る私とほづみくんの間には、鉄板が嵌め込まれたテーブル。
 お好み焼き屋にあるアレだ。
 でも、当然お好み焼きを食べに来たわけではない。東京来て、わざわざお好み焼き食べるなんて、大阪人に蹴り飛ばされる。
 今日の目当ては、東京の粉もんだ。
「お待たせしましたー。明太もちチーズとビール、レモン酎ハイです」
 Tシャツの制服を着たお兄さんが、威勢よくジョッキや小皿を並べていく。
 その中でも、刻んだキャベツと具材がてんこ盛りになったアルミのボウルが目を引く。
 そう、もんじゃ焼きだ。
 別に東京で食べなくても、私たちが住んでいるところにも店はある。
 でも、私もほづみくんも、もんじゃを食べる食文化圏で過ごしたことがなく、なんとなく食べようと思うこともなかった。
 でも、小松崎さんのところの樹くんが、もんじゃ推しで、これまたなんとなく意識に残るようになった。
 東京で遅めのおやつ、それもちょっとおなかに溜まるものを…と相談したとき、どうせなら初もんじゃは本場で挑戦してみようかということになったのだ。
 頭にバンダナを巻いたお兄さんが、ボウルを手に、私とほづみくんを見る。
「こちらで焼きましょうか? ご自分でされます?」
「焼いてもらえますか」
 ほづみくんも私も、もんじゃを食べたことがない。当然、焼き方も知らない。
 一応ネットで予習はしてきたけど、初めてだから、美味しいのが食べたいし。
 興味津々で見つめる私たちの間で、お兄さんは「じゃあ、焼いていきまーす」と言うなり、てっぺんに載っていた明太子を脇に避けて、サキイカのようなものをコテで鉄板に移し、ガシガシ刻んで炒め始めた。続けてキャベツを刻み、もちも刻み、みるみるうちに細切れ具材が鉄板に広がっていく。
 呆気に取られている間に、具材をまとめて作った土手の中にボウルに残っていた水分を全部流し込んで、明太子を放り込んだ。器用に明太子もコテの角で開いてほぐし、とろけるチーズをたっぷり混ぜ込んだところに、周りの土手を崩して混ぜる。
 鉄板一面になんとも微妙な色合いの生地が広がり、「はい、完成です」とコテを置いた。
「え、完成?」
 目を丸くしたほづみくんに、お兄さんはニカッと笑う。
「はい。これからじわじわ焼けてくるんで、このヘラで食べてください。水分飛ばして焦げ目つけても美味いですよ」
「へー…」
 器を片付けてお兄さんが去り、残された私たちは小さいヘラを握りしめて見つめ合った。
「じゃあ…」
「いってみよっか」
 全体的にブクブク気泡が派手に立つもんじゃの端に、恐る恐るヘラを伸ばす。
 お、思ってたより崩れる…キャベツ、いっぱいだな。
 落とさないように小皿を受け皿にして、吹き冷まして口に入れた。
「あっつ…っ」
「んんっ……おお」
 ザクザクしたキャベツの周りの生地が、予想外にとろっとねっとり。
 それに、やたら旨味を感じる。
「これ、何味だろ」
 私より熱いもの耐性のあるほづみくんが、ふた掬い目をはっふはっふしながら首をかしげた。
 味の濃い具材の影響か、確かに、これの味! と即答できる味じゃ……ない、うん。
 口に残る風味を改めて探って考える。
「ソースは入ってるよね」
「うん。たぶん、ウスターとかお好みソースとかそっち系」
「でも、旨味の素がよくわかんない」
「んー……鰹出汁っぽいのと、醤油も入ってるかも」
「だから、餅との相性抜群なのかな」
「かも。…うん、組み合わせ的にそう悪くなるはずはないとは思ってたけど、正直あんま期待はしてなかったんだよ」
 こそっと声を顰めて言いながら、三口目を頬張る。めっちゃ食べてますがな。
「だけど、甘かった。これ、生地に結構手ぇかけてるし、塩味と辛味が突出しそうなとこに、チーズが入って上手いことまとまってる」
「職業病とは言え、粉もん食べながら、そんな難しいこと考えてるの…?」
 いや、美味しいんだけど。ほづみくんほど一度に口に入れられないから、チミチミ掬ってせっせと食べてるんだけど。
 お洒落なジェラートでも食べているような顔でもんじゃを攻略しながら、ほづみくんは深く頷いた。
「桜子さんに、また食べたいって言われたときのために、記憶に刻み込んでるからね。…幼児が言うことだからって舐めてちゃダメだな」
 最後のは樹くんのことだろう。
 小松崎さんともんじゃに行っては、「おいしーんだよ」と嬉しそうに話すのだ。
 明太もちチーズは、樹くんイチオシだったんだけども、小松崎さんによると、「テッパンメニューですよ」だそうだ。
 両端から食べ進め、ときどき冷たい酎ハイで喉を潤し、どちらからともなく卓上のメニューに手を伸ばす。
「もう一種、いく?」
「いく。おなかに溜まるっちゃ溜まるんだけど、お好み焼きほどじゃないっていうか」
「わかる。僕、これなら三種くらいいけそう」
 結局、海鮮もんじゃと豚肉とえび、ホタテまで入ったデラックスもんじゃなるものを追加した。
 締めに、焼きそば一人前を半分こして、大満足だ。
「はー、美味しかった!」
「底がカリッカリになったやつ、あと引くねえ」
「ねー。樹くんが、カリカリがおいしーよって言ってたの、わかった」
 ほづみくんが支払いをしてくれている間に、洗面所を使い、鏡で青海苔がついていないかチェックして、外に出た。
 店の奥のトイレ入り口から、店の出入り口にいるはずのほづみくんを目で探す。
 八割方埋まった店内は、柱が多くて、見通しが良くない。
 会計待ちで並んでいるひとも数人いて、見つけ損ねて視線を動かした。
 んーーー………あ、わかった。
 目に入ったものから推測して、頭を動かすと、レジ横の柱の陰に立っているのを発見。
 洗面所に行く前に預けた美術館のショップバッグが見えている。
 急いで移動して、声をかけた。
「お待たせー」
 スマホの画面から目を上げて、笑う。
「もう行ける?」
「うん。次、東京駅だっけ」
「そうなんだけど、腹ごなし兼ねて、アメ横歩いてみない?」
 こちらに向けた大型画面を覗き込むと、公式サイトのようなものが表示されている。
「アメ横って、年末によくニュースに出てるとこ?」
「そうそう、入口がすぐそこなんだよ。結構おもしろい店が多くってさー。桜子さんも好きな感じだと思うんだよね」
「へえ」
 話しながら、店を出て、少し傾きかけた陽射しの中を歩く。
 しっかりとほづみくんの手を握って、周りに視線を巡らせた。
 向かいから歩いてきた女子高生っぽい二人組が、私が見ているのに気づいて、慌ててスマホを下げる。
「桜子さん? なんか気になるものある?」
 ひょいと覗き込んできたほづみくんに顔を寄せて、腕にしがみついた。
「んーん。あ、荷物預けっぱでごめん」
「これ、ちょっと重量あるから僕が持つよ。桜子さんは、自分の身を確実に運んで」
「私、どんな百貫おデブかみたいなんですけど」
「おデブじゃないけど、しょっちゅう躓くし、いろんなものに意識取られて荷物置き忘れるだろ」
 その通りで、ぐうの音も出ない。
 黙り込む私に笑って、ほづみくんが進行方向を指差した。
「この先に、串刺しにしたカットフルーツ売ってる店があるんだけど、デザート食べる?」
「食べる! まだ余裕で腹八分目だもん」
「マジで。桜子さんの胃袋、頼もしいよね」
「そんな褒め言葉、初めて聞いた」
 混み合う通りを、ひとを避けながら歩きつつ、腹で呟いた。
 ほんとに油断ならんなー。




 アメ横は、予想以上に楽しい場所だった。
 てっきり乾物屋や魚屋だけかと思ったら、衣料品店や雑貨屋と雑多な店がぎゅっと集まっていて、どこを見てもおもしろい。
 ついでに、美味しいものもいっぱい。
 もんじゃで夕飯まで余裕で保つと思っていたのに、気がついたらいろいろ食べていた。
 ほづみくんも、なんだかんだと買い物して荷物が増えたから、東京駅まではタクシーで移動。一日の滞在で、交通費が嵩む。
 東京駅についてからも、「地元じゃ買えないしー」を合言葉に、買い物続行。
 最終的に、日持ちのする食品や衣料品は宅配で送ってもらうことにした。何気に重い図録も入れた。
「さて、夕飯の買い物も済ませたし…新幹線の時間まで余裕あるし、休憩しない?」
「そだね。タクシーで楽してるのに、変な感じで疲れてるもん」
「桜子さん、いつになく財布の紐、緩かったもんねえ」
「だって…! 東京駅に松露が入ってるなんて知らなかったの!」
 さっき買ったばかりの卵焼きの袋を抱き締める。
 以前、かづみさんが東京出張のお土産にとくれた、甘い卵焼き。
 甘いのに、出汁の味がちょうどいい塩梅で、ぎゅぎゅっと詰まっているのに、口に入れるといい感じにほぐれる。
 卵焼きは、私が塩味派、ほづみくんは塩味も甘いのも好きという混線具合の我が家だけど、この松露で私は甘い卵焼きも好きになった。
「そんなに好きなら、もっと買えばよかったのに。いろんな種類あったんだから」
「悪魔が囁きよる…。ダメ、今日だけで死ぬほど贅沢したんだし、うち帰っても贅沢するんだし」
 今日の夕飯は、崎陽軒の炒飯弁当と神戸牛のビーフパイなのだ。どっちも、さっき買い込んだ。パイは関西の店のやつだけど。
「明日は、この卵焼きツマミにして、日本酒飲みたいです」
「いいねえ。上野でいい魚も手に入ったし、和食で宴会しよっか」
 気前のいい旦那さんの腕につかまって、我ながらウサギバリの足取りで歩く。
「えーと、確かこっちにイートインのある店があったはず……あ、あそこだ」
 ほづみくんが指差すほうに、いくつか店が集まっているのが見えた。
 一番大きくて目を引くのは、日本の某洋菓子屋だが、ほづみくんはその横を通り、小さめのショーウィンドウへ歩いていく。
 カラフルなマカロンや、マカロンが刺さったメレンゲが飾ってあるのをガラス越しに眺め、ガラス扉に印字された店名に視線を移した。
 が。
「パチモン…?」
「唐突な大阪弁」
「だって、このブランドはすんごい有名だけど、カタカタ表記よ?」
 フランス発の有名な洋菓子店の名前が、なぜかフランス語ではなく、日本語のカタカナで書かれているのだ。
 こういうの、海外で教えてたときに死ぬほど見た。あっちのメーカー品でも、インチキ日本語で書いてあるの。
 まじまじと文字を見つめる私に、ほづみくんは笑いながら首を振った。
「本物だから安心して。ここね、あのブランドが日本の生産者とコラボして作った商品のコンセプトショップなんだよ。だから、カタカナなんじゃないかな」
「へえ?」
「店内でドリンクと、ケーキやスイーツが食べられるんだ。ここで売ってるマカロン、日本の食材使ってるっていうから、おもしろそうでさ」
「なるほど…」
 疑って悪かった。
 殺風景と紙一重の広々した店内は、瓶詰めのピクルスやドレッシング、ジャムなんかが棚に整然と並び、食料品店というよりはブティックのようだ。
 素っ気ないくらいシンプルな奥のレジでアイスコーヒーとメレンゲ、マカロン数種類を頼む。疲れてるからか、甘いものが欲しい。
 壁際のイートインに落ち着いて、濃いコーヒーを啜り、半分に割ったメレンゲにかじりついた。
 マカロンの皮が豪快に刺さったメレンゲは、期待通りの甘さで顔が緩む。
 ほづみくんは、シークヮーサーのマカロンを哲学者みたいな面持ちで食べている。
 夕方だし、少し外れた場所にあるからか、他の店ほどお客がいなくて、無意識にふっと息をついた。
「疲れた?」
 目敏い旦那さんに、首を横に振ろうとして、やっぱりやめた。
「ちょっとねー。歩き疲れ、食べ疲れもあるんだけど、視線疲れが深刻で」
「視線疲れって…美術館?」
「そっちじゃなくて、周りの視線がうるさいんだもん。ほづみくん、どこ行っても目立つから」
「うん?」
 最初に気がついたのは、鰻屋を出た辺りだった。
 タクシーをつかまえた大通りで、事務員らしき制服を着た女性たちがポカンとした顔でほづみくんを凝視していた。
 美術館でも、途中の公園でも、もんじゃ屋でも、アメ横でも、男女関わらず、ほづみくんに目を留め、見惚れ、スマホを向けるひとたちがいたのだ。
「地元でも目立つけど、そもそも人口密度が違うしね。私たち、行動範囲が狭いから、今日みたいにいろんなとこ歩き回ることが少ないし、行く先々が混み合ってることって何気にないし」
「ああ、なるほど」
 首をかしげていた本人は、やっと理解したというように頷いた。
 コーヒーのストローを咥えて何か考え込み、少ししてから軽く頷いた。
「たぶん、無意識の防衛本能で、その辺、シャットダウンするんで気づいてなかったよ」
「無意識に…シャットダウン?」
「生まれたときから、この顔だから」
 苦笑いして、ほづみくんはピスタチオのマカロンを割った。
 半分を私の前に置き、残りを齧る。
「他人の視線って無遠慮だろ。子どものころなんて、それがどんな感情に由来するもんかなんてわかんないし、気になると神経衰弱っぽくなったりね。で、その辺理解してる両親から、早々に叩き込まれたんだよ」
「他人の視線をスルーする方法?」
「かな? 完全に感じなくなると、それはそれで危ないから、捉えてるんだけど気にしないようにする方法、みたいな。で、もう習い性になってるから、ひとが多い場所だと考える前にやっちゃうと」
「なるほど…」
 少し不思議に思っていたことが、解決した。
 いや、大概鈍い私でも気づくのに、他人の気配に敏いほづみくんが気にしている様子がないのが引っかかってたんだ。
「なんかごめんね。桜子さんがそんなに気にしてたのに、わかってなかった」
「や、私もずっと気になってたわけじゃないから。ときどき、あからさまにスマホ向けてるのとか、明らかに挙動不審なひとがいると目に留まってただけで」
「でも、気疲れする程度には目についてたんだろ。僕、桜子さん観察するのに忙しくて、見落としてたよ」
 深々とため息をついて、コーヒーを啜る。
 私は私で、言ってることがおかしくないか、と首を捻った。
「私を観察してたのに、気づかなかったの?」
「目ぇまんまるにして絵にかぶりついてたり、美味しいもの食べて笑ってたり、興味津々でいろんなものに飛びつくのを見て、海馬に焼き付けてる合間に、移動手段とか段取り考えてたからさー。変なとこ見てても、なんかおもしろいもの見つけたのかなって思ってた」
「あー」
 確かに、今日一日、ほづみくんにお任せだったもんなあ。
 ちょっと反省。
「次は、私ももっと予習してくるね」
「え、なんで」
「ほづみくんが全部やってくれちゃうから、ついてくだけだったから。東京も、美味しいものいっぱいあるってわかったし、あと、美術館や博物館、やっぱり充実してるから、今度はほづみくんも楽しめるようにガイドしたいなって」
「僕、めいっぱい楽しんでたよ?」
「フェルメールでおなかいっぱいだったんでしょ」
「あー……あれね…」
 なぜか、視線を遠くする。
 そして、気まずげに私をチラッと見た。
「…笑わないで欲しいんだけど」
「うん?」
「実を言うと、名画におなかいっぱいなんじゃなくて」
「うん」
「目がいっぱいなのが、苦手なんだよね」
「……どゆ意味?」
 身体中に目がついた妖怪が脳裏に浮かぶが、ほぼ確実に関係ない。
 そこらへんの芸能人程度では太刀打ちできない美形は、何かに苦悩するように眉間に皺を寄せた。
「人物画って目があるじゃん」
「人間だからね」
「で、そんな絵が部屋中に飾ってあるわけだろ」
「美術館だからね」
「絵の中の目に、凝視されてる感じがして、なんかしんどいんです」
 ……あなた、一分くらい前に、他人の視線スルーしてるっつったじゃん。
 喉の奥から飛び出しそうなツッコミを堪え、気まずそうに半分こしたメレンゲを齧る男前を眺める。
「ほづみくんさあ」
「…なんですか」
「ホタテ好きでしょ」
「…貝の?」
「うん。ホタテのヒモに、黒い斑点みたいなのあるんだけど」
「あるね」
「あれ、全部、ホタテの目だって知ってた?」
 瞬間、メレンゲを持ったまま、固まった。
 あ、知らんかったな。
「め……?」
「まあ、視力は殆どないらしいけど。ちなみに、八十個前後あるんだって」
「さくらこさん」
「ね? 今まで食べたホタテの目の数も覚えてないんだし、絵の中の目なんてそんな気にしなくても大丈夫だよ」
「まさか、今の話、フォローのつもりだった!?」
「え、うん」
 それ以外のなんだと。
 でも、ほづみくんはがっくり項垂れた。
「奥さん、逆効果です…」
「ええ? うそ」
「ほんと。どーすんの…上野で死ぬほど干し貝柱買っちゃったじゃん…」
「大丈夫だよ、あれ、ヒモはついてないから」
「そういう問題じゃないです。ついでに、これからしばらく、生ホタテ捌くの怖いです」
「えー、じゃあホタテは私が捌くけど」
「そういう問題じゃない」
「元気出してー」
 げっそりするほづみくんの頬をつつくと、「誰のせいなの」と唸って指先を握りしめる。
 そのまま手を握り、私の手のひらに唇を押し当てた。
「もー、なんの話してたのか、忘れるじゃん」
「ほづみくんが、目が怖いって話では」
「ちーがーうー。桜子さんの様子、もっと見とくって話です」
「違うってー。次は私も予習しとくって話」
 まあ、目は避けようがないけども。
 拗ねた顔の旦那さんの頬を撫で、今日一日で興味が出てきたものを並べていく。
「どうせなら、観光客丸出しで、銀座とか歩いてみたいな。渋谷や原宿も」
「銀座はすぐそこだけど……渋谷と原宿なら、国立新美術館近いし、新宿も行きやすいからそっち中心に見てもいいかもね」
「別に美術館行かなくてもいいのよ?」
 正直、今まで住んできた町とは、いろんなものが違っていて、おもしろい。
 でも、ほづみくんは首を振った。
「美術館自体は好きだし、美術館で楽しそうにしてる桜子さん見てるのが、一番好きだからいいんだよ。うちから一時間ちょいで来られるんだし、また美味しいもの食べて、好きな絵を見て、のんびりしよ」
「…うん」
 やっぱり、最後はこうなるんだよなあ。
 ほづみくん、私の希望やわがまま、すんなり受け止めてしまう。
 振り回しすぎないようにしないと。
「次は、新宿御苑とか皇居とかも見たいなー。あ、浅草も。人形揚げっていうの食べてみたい」
「浅草なら天ぷらとか天丼かな。あっ、蕎麦もまだ食べてないね」
「いいね、新蕎麦の時期に来たい。そだ、銀座で木村屋のあんぱん買って、あと資生堂パーラーでパフェも食べたい」
「あんぱん……確か、東京駅にもあんぱんの専門店入ってたはずだけど」
「え? 木村屋?」
「いや、フランスの有名なパン屋が作ったあんぱん専門店。まだ東京駅にしかないはず」
「買って帰ろっ。無性に食べたい」
「じゃあ、寄って行こうか」

 店を出て、手を繋いで歩く。
 夕方も遅くなり、スーツ姿のビジネスマンが増えた構内を、周りより少しゆっくり進む。

「楽しかったし、美味しかったねえ」
「鰻で思いついた弾丸旅行だったけど、よかったね」
「うん。東京で観光って、イマイチピンと来なかったんだけど、全然そんなことなかったし、一度来ると、また見たいものが見つかるし」
「浅草行くときは、せっかくだからスカイツリー登ってみる?」
「…完全に忘れてた」
「え、スカイツリー?」
「東京タワーも。お上りさんの定番なのに…」
「そういえば、東京タワーって階段で登れるらしいけど」
「えーっ、登ってみたい」
「六百段あるとか」
「だ…だいじょぶ、金比羅さんも登れたし。死にかけたけど」
「桜子さん、琴平行ったことあるんだ?」
「昔、引率仕事でねー」

 他愛ない話をしながら、知らないひとの間を歩いていく。
 時折、驚いたようにほづみくんを凝視する視線を感じるけど、不思議と今は気にならなかった。
 周りにぶつからないように身を躱しているのに、ずっと私を見つめている目のおかげなんだろう。
 握った手にしっかりと力を込め、離れないよう温かい腕に身を寄せた。


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