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母の日の楽しい話。

1、

 今年もそろそろ母の日のプレゼント、考える時期だなー。
 壁のカレンダーを見て、ふと思った。
 曉子さん、今は御厨のおうちにいるけど、最近は感染力強い変異ウィルスが増えてるっていうし、医療も逼迫してるし、私たちが罹るのも嫌だけど曉子さんにうつしたら後悔するどころじゃないし、やっぱ宅配で何か送るのが一番だよねえ。
 お花と……お菓子? ほづみくんが焼いたやつ。
 お菓子はともかく、花は早めに探して予約しないと、いいやつは売り切れてしまう。
 まずは旦那さんに相談だ。
 デリバリーとテイクアウトの注文が途切れたときに切り出してみることにして、様子を窺う。
 この手の話、反応わかってるもんね。
「ねえねえ、ほづみくん、母の日のプレゼント、どうしよう」
 休憩を兼ねて厨房に落ち着いたところで言えば、おやつを準備していた手を止めて、ちょっと顔を顰める。
「あー…ネットで適当に花でも…」
 ちなみに、今日は簡単クレープだ。焼きたてが幸せなやつ。
「でも、いるのかなー。誕生日はやってるんだし、別にいらないと思うんだけど」
 曉子さんのことが嫌いなわけじゃなく、なんか気恥ずかしいらしい。いつも、なんだかんだうだうだ言うけど、最終的にはちゃんとする。
 でも、エンジンのかかりが異様に遅いんだよねー。
「もー、普段は反抗期なんだから、母の日くらいちゃんと考えなさい。まあ、感染拡大してるから、迂闊に会えないけど」
「だからネットでいいと思う」
「そんなキッパリと。なら、お花は私が選ぶから、ほづみくん、お菓子作って」
「菓子?」
「焼き菓子なら、郵送でもいけるでしょ。花が届く日は指定できるから、それに合わせて送るの」
「えー…まあ、それくらいなら」
「曉子さん、フィナンシェ好きだからそれと、何かパウンドケーキとか」
「そんなにいる?」
「いる。だって、絶対横からかづみさんが取ってくから」
「あー」
「ね、たまには親孝行しよ」
 クレープ作成を横で眺めている私をチラッと見て、ひとつため息をつく。
「わかりました。…ほんとに母さんのこと、好きだよね」
「好きだよー。それに、母の日自体、楽しいから」
「どゆ意味? 桜子さんが楽しいの?」
「おかーさんにプレゼント選ぶのも、それで喜んでもらうのも新鮮」
 昔、自分の母親に一度だけカーネーションをあげたことがあるが、一切興味持たずにその辺に放置して枯らしたのだ。それ以来、私も何もしなくなった。あのひと、親というか人間として情緒死んでたんだと思う。
「お花も花束だけじゃなくてプリザーブドフラワーとか可愛いアレンジメントとかいっぱいあるし、母の日用にお菓子や小物とセットにしてるギフトもあるし。ああいうの、どれなら喜んでもらえるかなーって考えながら選ぶの、楽しいよね」
 趣味じゃないもの選んだらどうしようって不安もあるけど、ほづみくんがいるから、その辺はあんま心配ないし、曉子さんなら私の母みたいなことはしないって信頼もある。
「だからね、あとで……どしたの?」
「いや、なんでもない」
 まじまじと私の顔を見つめていたほづみくんは、虫でも振り払うように首を振った。
 出来上がったクレープのタネをフライパンに流し込んで、どんどん焼いていく。さすがの手際。
「菓子か…あのひと、結構ガッツリ系好きだからなー…」
「そういやそうだね。バター重めの焼き菓子好きだし、生クリームこってりのケーキもぺろっと食べちゃうし」
 さすが、かづみさんのお母さん。
「フランスいたころは、毎日何かしらケーキ食べてたんだよ」
「あんなほっそいのにねえ」
「全部、頭で使ってるって言ってた」
「なるほど」
 かづみさんも、裁判のあとは死ぬほど甘いもの食べるって言ってたもんなあ。
 ここも似たもの親子。
「前にほづみくんが作ってくれたバノフィーパイも、平気そうだね」
「確実に問題ないね。まあ、あれは郵送できないけども」
「生ケーキの部類だもんね…」
 でも、こってり甘いお菓子か。
 前は、結構ほづみくんとケーキビュッフェとか行ってたんだけど、自粛生活になってからはとんとご無沙汰だ。
 自家製でいろんなものが食べられる環境だから、意識してよその店に行かないと、外のものを食べる機会って意外とないし。
「ケーキとかスイーツ、たまには、ほづみくんとは別系統の味も食べたくなるなー」
「…浮気?」
 瞬発力を発揮して、疑惑の眼差しを向けてくる。
 めんどくせえな。
「違う。美味しくても、ずっとお家ごはんだと外食したくなるでしょ。作れるけど、自分で作るのめんどいとか、オムライスやハンバーグみたいに、珍しくないけど作るひとやお店によって全然違う料理になるやつとか」
「ああ、そういう…」
 本気でホッとしたような顔をするから、抗議を込めて身体をぶつけた。
「一番はお家の味に決まってるでしょ」
「ごめんてー」
 眉を下げて笑う顔は、完全に喜んでいる。
「おやつ、美味しいドリンクもつけて」
「かしこまりました。カフェオレにする? 紅茶?」
「はちみつ入りのロイヤルミルクティ。シナモン入ってるやつ」
「りょーかーい」
 わざと手間のかかるものを頼んでも、嬉しそうに笑うだけだ。
 ほづみくん、心広いんだか狭いんだか、よーわからん。
「すぐ準備するから、座ってて。どうせ今日もティタイムの店内飲食はないだろうし」
「…いい笑顔で言うことじゃないと思うの」
「桜子さんとのんびりできるんだから、笑顔にもなるよー」
「ご機嫌ついでに、曉子さんのプレゼント、ちゃんと考えといてね」
「大丈夫、もう目星はついてるから」
「え、そうなの?」
 ついさっきまで、そんなふうには全然見えなかったのに。
 でも、こういうことで変な嘘や出まかせは言わないひとだしな。
「絶対、桜子さんも喜んでくれるやつだと思うんだよね」
「私? 曉子さんのプレゼントでしょ」
「そうなんだけどさ。ちょっと思いついたことがあって」
「ふうん?」
 ちょっと考えてみるけど、まあわかるはずもない。
「よっし、クレープ焼けた。桜子さん、なにからいく?」
 出来上がったクレープ生地の皿と、泡立てたホイップ、店でも使うチョコソースやキャラメル、果物が調理台に並ぶ。
 大皿に載せたクレープはほかほかと湯気を立てて、焼き始めたときから漂っている甘い匂いが堪らない。
 瞬間的に考え事を忘れ、「チョコと生クリーム!」と手をあげた。
「チョコね。…あ」
 何か思いついたように声をあげて、「ちょっと待ってて」と走っていった。階段を駆け上がる音がしたと思ったら、すぐに降りてくる。
「これ、これ巻いちゃおう」
 手に持っているのは、チョコレートの箱だった。
 イギリスの高級店のやつで、薄くてパリパリの美味しいチョコレートがぎっしり詰まっている。
 一番上のクレープにそれを豪華に三枚のせ、ホイップクリームを足して、器用に包み込んだ。
 取り皿に載せて、出来上がり。
「さ、どうぞ」
「いただきまーす」
 手掴みでひと口頬張ると、クレープの熱でとろけたビターチョコに甘さ控えめのクリームが混ざって、堪らない。
「んまーいっ。普通のチョコソースよりチョコの味がしっかりしてて幸せ」
「やった」
 にんまり笑いながら、小鍋に水を汲み、火にかける。
「そのチョコ、かなり風味強いから、絶対美味いと思ったんだよ」
「最高。溶けきってないとこがやたら贅沢リッチな感じもするし」
 濃厚なカカオに、このメーカー独自のちょっと癖のようにも感じられる風味と軽めのクリームが合わさると、いっくらでも食べられそう。
「このチョコ、お茶請けだとそんなに食べられない感じなのに、こうすると十枚くらい一気にいけそうだよね」
 自分も同じクレープを齧りながら、ほづみくんは納得したように頷く。
「だね。桜子さん、チョコ好きなのに、これは一枚ずつチミチミ食べてるから苦手なのかと思ってたんだけど」
「そんなことないよ? ちょっとで満足できちゃうだけで。ほづみくんと結婚して、甘味贅沢するようになって、チョコもいろいろあるんだーってわかったから、楽しみ方も覚えたというか」
「なるほど。お、沸いた」
 呟いて、紅茶のキャニスターとスパイスの缶に手を伸ばした。
 私は、食べかけのクレープを口に押し込んで、とろけたチョコの香りを満喫する。
 んー、しあわせー。



2、

 各地で医療が逼迫しまくっている四月下旬。
 感染症が蔓延し始めてからこちら、慢性的な寝不足と過労が続いているのと、終わりが見えない修羅場のせいで、完全に日にち感覚が消え失せて久しい。
 だから、それに気づいたのは、奇跡と言ってもいいかもしれないような偶然だった。
『…で、通販のみで受け付けるということです。今年も、離れて暮らしている方々が直接会うことは難しい見通しですし、母の日の祝い方もいろいろなバリエーションがあるのは助かりますね』
 日曜の午後、つけっぱなしのテレビから聞こえてきた声に、ぼんやりしていた意識が反応した。
 母の日…?
 って、いつだっけ。
 壁にかけてあるカレンダーを見るが、まだ四月なのでよくわからない。
 ソファの上で首をかしげていると、台所から圭吾がトレイを持って入ってきた。
 コーヒーの匂いが漂う。
「美樹ー、カフェオレ入ったぞ…って、壁見つめてどうした」
「あー…うん」
「ままー、おやつですよー」
 圭吾の後ろから、白い箱を持った樹も続く。
 どうやら、おやつの準備をしてくれていたらしい。…やっばい、記憶がないわ。
 私を挟んで両隣に座ったふたりが甲斐甲斐しくカップや皿を並べてくれるのを眺めながら、この慢性疲労をなんとかしないと人間生活がまずいのでは、と考えてしまう。
 今、週に一日休みがあればいいほうだから、休日は父子で上げ膳据え膳してくれるのがありがたい。お義母さんの協力もあって、最後に家族の食事を準備した記憶もだいぶ遠い。
「きょーのおやつはねー、さくらちゃんのおにーちゃんのおかし!」
 樹が「じゃーん」と効果音をつけて箱の蓋を開ける。
 三口くらいで食べられそうなスティック状の焼き菓子と、両掌に乗るくらいのサイズの丸いパウンドケーキが綺麗に並んでいる。
「これ、今月の焼き菓子?」
「うん。昨日、引取日だったから行ってきた。丸いのが桜とクランベリーのバターケーキで、スティックのがレモンとオレンジといちご、チーズのマドレーヌだってさ」
「へー。桜とクランベリーってあんまり聞かない組み合わせ」
「でも、自信作だって言ってたぞ」
「なら、それから食べる?」
「そうするか」
 トレイに載せていたカッティングボードとナイフで器用に六等分するのを眺めながら、温かいカフェオレを飲んだ。
「はー…美味しい」
「ほい、ケーキ。……目の下のクマ、すごいな。蒸しタオル載せるか?」
「ありがと。や、これは今の修羅場終わらないと消えないと思うから」
「まま、くまさんいるの? どこ?」
 樹が私の顔を覗き込み、しげしげと見つめる。
 大きな目がくりくりして可愛いんだけど、手を伸ばすんじゃない。
 目玉を狙ってるのかと思う軌道で伸びてきた小さい手を取り、「熊さんじゃないから」と止める。
「お仕事いっぱいして疲れてると、目の下が変な色になるの。これがクマ」
「くまさんじゃないのにくまさん?」
「んー…ほら、美味しい飴もお空から降ってくるのも雨でしょ。違うけど、名前が一緒」
「ほえー」
「樹、ママの膝に邪魔してるとおやつ食べられないぞ」
「はーい」
 圭吾が、テーブルに六等分をさらに半分に切ったケーキの皿と温かい麦茶のカップを置く。素直に前を向いて手を合わせた。
「いただきまーす」
「私もいただきます」
 食欲をそそる焼き色が綺麗についたケーキにフォークを突き立てて、ざっくり抉る。鼻先に持ってくると、ふわりと桜餅の匂いがした。
 甘いのかと思いきや、甘味はあっさりめで、たっぷり入っているドライクランベリーを噛むと広がる酸味がいいアクセントだ。
「うわ、これ、危ないやつね。いくらでも食べられる」
「だな。…しかし、何も知らないで食べたらさくらんぼのケーキかと勘違いしそうな味」
「ほんと。桜の匂いで、クランベリーを刻んださくらんぼみたいに思っちゃうのね」
「おいしーっ。ぼく、あかいのすき」
「樹、ほじって食べるな。あとで、ないーって泣くぞ」
「む」
 賑やかに話しながら何かを食べるのも、久しぶりな気がする。
 休みの日は、家族三人で食事をしているから、体感ほど時間が開いているわけではないんだろうけど。
「ねえ、今年の母の日だけど」
「ん?」
「お義母さんに何プレゼントしようか」
「唐突だな」
「さっき、テレビでやってた」
「なるほど」
 黙ってケーキのお代わりに手を伸ばす樹を制しながら、何か考え込む。
 攻防の末、八分の一の半分を樹の皿に載せて、息をついた。
「めちゃくちゃ世話になってるから、俺も何か贈ろうと思ってたんだけどさ、お袋から母の日はやるなって言われて」
「え、いつ?」
「まさに昨日。娘も息子も医療者だし、美樹が一番ハードな生活してるのも知ってるし。実際、今までも母の日に何かものを贈るっていうより、母の日を口実にみんなで集まって賑やかに過ごしてだろ。お袋も、それが一番嬉しかったみたいでさ」
「ああ…」
 感染症が拡大して以来、樹と雨芽ちゃんは圭吾が小松崎家に連れて行って預かってもらっているけど、私や桐谷夫妻は全く行っていない。
 今はまだ、うちの病院が感染症患者の受け入れをしていないから、子どもたちは日々往復しているけど、受け入れを開始したら、子どもたちの生活拠点は完全にあちらにすることに決めていた。
 そんな状態だから、前のように気軽に集まって、バーベキューしたり、食事に行ったりなんて、できるわけがないのだ。
「今の修羅場を乗り切ってから、全員で集まろうって。だから、美樹たちは絶対に感染せずに無事に過ごせって言付かってきた」
「そっか…」
「プレゼント考えたり、探したりする時間もないだろうし、あるなら寝ろって」
「お義母さんらしいわね」
 でもなあ……お礼したいって気持ちもあるけど、純粋に母の日をお祝いしたいんだけど。
 私の母はもういないし、生きていたころ、何かをした記憶もろくにない。
 母の代わりにというわけではないけれど、できる時間も機会も無限ではない、とも思うのだ。
 ケーキをもそもそ咀嚼する私の横で、大事にお代わり分を口に運んでいた樹が、「ねえ」と声を上げた。
「ははのひ、だいじょーぶだよ」
「ん?」
「ぼく、うめちゃんとおりがみのかーねーしょんつくるもん。はたけのおはなもちょっきんするから、おばーちゃんにあげる」
 圭吾と顔を見合わせる。
 たぶん、考えていることは似たようなものだろう。
「じゃあ、樹、ママの分も、おばあちゃんにありがとうって言ってね」
「おまかせー」
 何の真似やら、元気に言って、にぱーっと笑う。
 圭吾は黙って、樹の頭を撫でた。
 息子、いつの間にか、成長してるなあ。
 早いとこ、感染症がどうにかなってくれないと、我に返ったら中学生になってたとか有り得そうで嫌だ。
「なら、ばーちゃんには樹のカーネーションと、珍しいケーキあげようか」
「めずらしーけーき?」
「どっかで限定品でも買うの?」
「いや、昨日、菓子取りに行ったときに、御厨さんからおもしろい話聞いて。お袋には、美樹と樹にも食べさせたいからって言えばいいし、実際その通りだし」
「なんの話?」
「なあに? さくらちゃんのおにーちゃんとないしょ?」
「内緒じゃないんだけどな。まだ、手に入るか確定したわけじゃないから、もうちょい待って」
 今度は樹と顔を見合わせる。
「まだないの?」
「みたいね」
「買えるのは買えるんだけど、母の日に間に合うか、やってみないとわからないんだよ。もし、間に合わなかったら、樹のカーネーションにいっぱい頑張ってもらわないと」
「がんばる」
 ふんすと鼻息荒く頷く。
 しかし、今から手配? して、間に合わないかもって、いったい何をどうするつもりなのやら。
 美味しいケーキを平らげ、もう一切れいくかどうか悩みつつ、まあ当日になればわかるか、と息をついた。


3、

 母の日当日。
 今日は、なんとなく読書の日で、ふたり揃ってリビングで積読本を消化していた。
 お昼を過ぎて、そろそろおやつタイムか、という時間になって、ほづみくんが腰を上げた。
「おやつ?」
「うん。コーヒーの気分なんだけど、いい?」
「いいよー。もうちょっとで犯人わかるから…」
「大丈夫、ゆっくり読んでて」
 読みかけのミステリ小説は、謎解きが佳境で、ありがたく甘えることにする。
 夢中で読み進めて探偵たちが日常に戻ったエンディングでページを捲り終え、満足のため息をついた。
「犯人、当たってた?」
 コーヒーの匂いが強くなって、ほづみくんの声がしたので顔をあげる。
 いつものようにトレイを持って……あれ。
「んーん。外してた。ねえ、その箱、なに?」
 わりと大きめの木箱に、カップや皿のトレイを載せて運んでいるのだ。
 ほづみくんは、にんまり笑って、テーブルに置いた。
 トレイをどけると、焼き付けられた大きなアルファベットのロゴと何かのマークがふたつ。木箱自体は、四隅に金具が打たれ、留め金もついたなかなかに立派なものだ。
 筆記体のロゴに目を細め、次の瞬間には、「え」と声を上げていた。
「Hotel Sacher…って……ウィーンの、オーストリアの?」
「うん」
「日本にあるの!?」
「なんでやねん」
 エセ関西弁で突っ込んで、ほづみくんが苦笑いする。
「しまった、つい祖母譲りの方言が」
「なかなかに鋭かった。でも、日本にないなら、なんで?」
「実は、通販できるんだな、これが」
「へーっ」
「とりあえず、開封しまっす」
 厳かに留め金を外し、上蓋を持ち上げる。
 途端に、濃厚なチョコレートと甘酸っぱい果実の匂いが広がった。
「うっわあ…すんごいいい匂い」
「だろ。日本でも別メーカーのザッハトルテは食べられるけど、ここのはちょっと違うんだよね」
 木箱の中には金色の紙製の台座がセットされ、そこにはめ込むようにビニル袋に入ったまん丸なトルテが収まっている。
 ほづみくんが袋を引っ張って取り出し、器用に袋を外してカッティングボードに載せた。
 ツヤツヤの本体には、ホテル・ザッハーのロゴ入りチョコレートメダイユが一枚ついているだけで、シンプルそのものだ。
「ふわー…チョコ、分厚そう」
「厚いよー。うっかりナイフで切ろうとすると、バリバリ砕ける」
 言いながら、お湯が入ったタンブラーからナイフを引き出して、キッチンペーパーで拭った。
 慎重に刃を当てて、チョコに押しつけ、また温めて押しつけ、と繰り返す。
 ぐるっと側面にまで切れ込みを入れ、最後に綺麗に拭ったナイフで一気に切り分けた。
「よっし、成功」
「おお〜。ひび割れひとつ入れずに切れた」
「チョコが厚くて硬いから、ナイフの熱で先にチョコだけ切り分けるんだよ。そうすると、被害は少なくて済む」
「はー…プロってすごい」
 お皿にとって、小さいボウルに入っていた生クリームをたっぷりと添える。
「はい、桜子さんの」
「ありがとー」
「コーヒーは、今日はブラックにしてみたけど、好みで生クリーム入れてウィンナーコーヒーでも合うと思う」
「贅沢!」
「で、ごめんだけど、ちょっとだけ待って」
「うん」
 その辺に放り出していたスマホに手を伸ばすから、写真でも撮るのかと思ったら、じっと画面を見つめる。
 数秒後。
「お、繋がった」
「何が?」
「ん…母さん」
 え? と思ったとほぼ同時に、スマホから「はいはい」と曉子さんの声がした。
 ほづみくんがこちらに向けた画面では、曉子さんが手を振っている。
『桜子ちゃーん』
「曉子さん?」
『お花、ありがとう〜』
「あ、いえいえ。無事に届きました?」
『うん。今年は可愛い薔薇のアレンジメントね。素敵』
 ひょいと持ち上げて、画面に写ったアレンジメントは、考えていたよりも大きかったけど、色合いやデザインは予想通りっぽい。
「よかった。そういや、ほづみくんのお菓子も無事に? 私、何送ったのか、最後まで内緒にされてたんですけど」
 スマホを持つほづみくんをチラッと見ると、苦笑いして手を振る。どういう意味だ。
『お菓子も届いたわよー。ほづみが作ったんじゃなくて、死ぬほどでっかいザッハトルテだけど』
「え?」
「桜子さん、ちょっとスマホ持ってて」
「うん」
 ほづみくんはテキパキと自分のザッハトルテを用意して、コーヒーカップも並べる。
 いつもみたいに角を挟んで隣ではなく、まさに横並びになる位置だ。
 並んで座ると、スマホカバーをスタンドのようにして、皿とカップの向こうに並べた。
「これでよし。母さんも準備できてる?」
『できてる。…見た感じ、そっちのザッハトルテ、常識的な大きさに見えるんだけど』
「そっちに送ったのは、一番大きいサイズ。甘味大王いるんだから、それくらいないと足りないかと思って」
『それにしたって、大きいわ』
 曉子さんが掲げてみせたお皿自体、かなり大きく、その上に乗っているトルテはLサイズピザかと思うようなボリュームだ。
「ほづみくん、ザッハトルテってサイズアップできるの?」
「もともと、三サイズなんだよ。うちのが一番小さいやつで、母さんに送ったのは一番大きいサイズ」
「なるほど…」
『かづみが狂喜乱舞しながら、四分の一、持って行ったわ』
 それは…かづみさんでも半分持ってく度胸はない大きさ、という理解でいいんだろうか。
 視線が遠くなったけど、ほづみくんの声で意識が引き戻された。
「ま、とりあえず母の日、おめでとう」
『ありがとう。まさか、あんたからオンラインでお茶会しようなんて話が出るとは思わなかったけどー』
 驚いてほづみくんを見ると、拗ねと照れ隠しが混じった仏頂面だ。
「余計なこと言わなくていいっつーの」
『きっと桜子ちゃんのためでしょー。母親使って嫁孝行しおって』
「通話切るぞ」
『照れ隠し下手ねー。桜子ちゃん、ほづみに発破かけてくれて、ありがとね』
「え、いや、そんなこと……ねえ?」
 きっと認めないだろうなあとは思ったけど、案の定、「桜子さんにザッハトルテ食べてもらいたかったから」とそっぽを向く。
 本当に思春期だわ。
「もーっ、わざわざウィーンから通販したんでしょ。ほら、ご機嫌直して」
『こっちもスマホの向こうで、かづみが虎視眈々とお代わり狙ってるから、食べましょうよ』
 義兄…。
「じゃあ、改めて、いつもありがとうございます」
『ふふ、それ以上に桜子ちゃんのおかげでってこと、いっぱいあるんだけど。ありがとう』
 揃って画面越しにザッハトルテに手をつけた。
 お、チョコが硬い。
 まずはそのまま口に入れる私を、ほづみくんが様子を窺うように見つめている。
 ……お、おおおおおお〜。
「濃厚! でも甘酸っぱ美味しい!」
『うんうん。こんな味だった、そういえば』
「チョコがチョコなんですけど、チョコじゃない! シャリッていう」
 同じく口を動かしていたほづみくんが、横から説明をくれる。
「ザッハトルテのチョコは、フォンダンだからね。シャリッとするのが正解なんだよ」
「フォンダン?」
「日本語だとなんて言うんだっけ?」
『糖衣じゃないかしらね。薬とかで糖衣錠とか言うでしょ。あの糖衣』
「へーっ。てことは、こんな濃厚カカオだけど砂糖もたっぷり?」
「てか、レシピ本見ると、チョコレート入りフォンダンって書いてあるから、砂糖が主役かも」
「ふおおおお〜カロリーが怖いけど、美味しい。杏ジャムが挟まってて、甘いのにいっぱい食べられそう」
 生クリームも一緒に口に入れると、甘みがまろやかになるから余計に進む。
 あっという間に一切れ平らげて、二切れ目を皿に乗せた。
 湯気がいい感じに収まってきたコーヒーで、口の中を流すと、質のいいカカオの香りに苦味の勝つコーヒーが加わって、これまた美味しい。
「これ、ブラックコーヒーとの相性、抜群ですね」
『ほんとにね。ほづみがケーキと一緒に送ってくれたホテル・ザッハーのコーヒー、よく合うわー』
「…へえ?」
 うちのコーヒー、いつものブレンドだけど。
 ほづみくんを見ると、素知らぬ顔で視線を逸らす。
 ほんっとうに、思春期だな!
 画面に映らないところでほづみくんの脇腹をウリウリしつつ、たっぷりクリームを載せたザッハトルテを頬張る。
『落ち着いたら、またそっちに食べに行きたいわー』
「来てください。そろそろ夏メニューも考えてますし」
『あ、ガスパチョする?』
「するよね?」
「たぶん。小松崎さんのところから、今年も大量にトマト届くみたいだし」
 脇腹をさすりながら頷くほづみくんに、曉子さんが「小松崎、ねえ」と呟いた。
『その小松崎って、去年のクリスマスに来てた親子連れでしょ』
「うん。母さんが即席講義してたお子様の」
『あのときは気づかなかったけど、まさかあの小松崎だとは思わなかったわ』
 曉子さんが言う「あの小松崎」は、正確には美樹子さんたちのことではなく、その本家筋のことだ。
 どうやら御厨の会社と小松崎本家って、同業者らしい。
『何がどうなって、あの小松崎の家庭菜園を引き取ることになったのか、森上さんが本気で首捻ってたわよ』
 つい、ほづみくんと顔を見合わせる。
 私たちも、完全に偶然と成り行きで、いつの間にかって感じだったからだ。
「…最初ってなんだっけ?」
「えーと…………気がついたら?」
『…あんたたち、そういうとこ、似たもの夫婦よね』
 曉子さんがため息をついたとき、画面の外からかづみさんの声がした。
『母さん、こっちのもらっていいか』
『さっき持ってったの、全部食べたの?』
『おう。久しぶりに食べ応えのある甘味だった』
『…一日でこのケーキの半分食べるのはやめときなさい。理屈は置いといて、身体にいいわけないから』
 なんかすごいこと言ってるな。
「一番大きいの、ひとつじゃ足りなかったか…」
「ふたつ送ってたら、かづみさんがひとりでひとつ食べてたと思う」
 画面の向こうから聞こえる、ザッハトルテを巡る親子の攻防を聞きながら、二切れ目をひと口を頬張った。
「んー、やっぱ美味しい。まだ半分残ってるけど、食べちゃうの名残惜しいね」
「実は、ホテルザッハーのレシピ本も買っちゃったんだよね…」
「え」
「あそこで出してるケーキ類と、ザッハトルテのレシピがガッツリ載ってるやつ」
 横を見ると、チラッと視線を寄越す。
 それが、やっぱりちょっと拗ねてるように見えて、吹き出すのを堪えた。
「じゃあ、次はほづみくんお手製のザッハトルテだね。楽しみー」
「…ほんと?」
「ほんと。旦那さんお手製の美味しいザッハトルテ食べられる女なんて、きっと日本中探しても私くらいだよ」
「がんばる」
 ちょっとご機嫌が直ったみたいで、にま、と笑う。
 それにしても、画面の向こう、大丈夫かな。なんかいづみさんの声まで聞こえるんだけど。
「ザッハトルテって、食べ過ぎたらどこが悪くなるんだろ」
「うーん…糖分過多、高脂質、高コレステロールだから…生活習慣病?」
「でも、かづみさんって大概食べてるけどほっそいよねえ。…むしろ、それが異常?」
「あれでも、毎年の健康診断、問題なしらしいよ」
「異常な健康…」
 スマホの中から、「母の日のプレゼントを息子が大量食いするな!」とか「早く食わんと風味落ちるだろ!」とか、賑やかに聞こえてくるのを楽しみつつ、コーヒーを飲み干す。
「桜子さん、コーヒーのお代わりあるよ。クリーム浮かべる?」
「うんっ」
 曉子さんのほうが落ち着くまで、のんびり待つか。
 なんだか想像していたのとは違ったけど、曉子さん楽しそうだし、賑やかだし、いいや。
『あーもうっ、あんたは小学生男子か! 言ってること、ランドセル背負ってたときから変わってないわ』
『昔から賢いお子様だったってことだろっ。あ、桜子ちゃん、本場のザッハトルテ、ごちそーさん』
 画面に映り込んだかづみさんに手を振り返す。
 仲のいい義母と義兄の口喧嘩を楽しく眺めていると、横からクリームたっぷりのコーヒーが出てきた。
「はい、どうぞ。桜子さん、そろそろ通話切って、ゆっくりしない?」
「ありがと。ちょっとしか喋ってないでしょー」
「だって、あっちはあっちで楽しそうだし」
「オンラインでもあんま変わんないなーって思うと、これはこれで楽しいよ」
「まあね…」
 ため息をついたほづみくんにもたれて、久しぶりのワイワイ賑やかな雰囲気を堪能する。
『せっかくほづみが母親孝行する気になってんだから、邪魔するんじゃないの!』
『どうせ桜子ちゃん喜ばすためだって。なあ?』
「うるせえ。ザッハトルテ代、請求するぞ」
 画面に割り込んできたかづみさんに、ほづみくんがデコに青筋を立てる。
『そんなこと言って、こんなでっかいの送ってきたの、俺の分も見越してだろ』
「見越してたのは桜子さんだ。母さんに送っても、どうせ兄貴が横から大量に食うだろうって」
『さすが桜子ちゃん。できた義妹だ』
「かづみさん、ちゃんと曉子さんの分、置いといてくださいよ」
『大丈夫。母さんも若くないから、食べ過ぎはよくないし、でっ』
『お黙り。この小学生中年。ザッハトルテの木箱の角で殴るぞ』
 それは痛い。
 過激な親子喧嘩に発展しそうな雰囲気にヒヤヒヤしつつも、つい笑ってしまう。
 母の日のお祝いだけど、私が一番楽しんでるかもなあ。
 曉子さんには素直じゃないのに、私にはベタ甘な旦那さんにくっついて、画面越しの家族団欒を満喫したのだった。


4、

 夜勤明け、家に帰ると、まずはシャワーを浴びる。
 玄関からバスルームに直行するのが常だが、この日はドアを開けると、奥から樹の「おかえりなさーい」という声が聞こえた。
 あれ……なんでいるんだろう。小松崎に行ってるはず……あ、今日、日曜か。
 完全に曜日感覚が飛んでいた。
「ただいまー。お風呂入ってくるねー」
 奥に向かって叫ぶと、ふたりの声が返ってくる。
「らじゃー」
「おー、食事の準備しとくから、ゆっくりしろ」
 布製のバッグにはたっぷり除菌スプレーを吹きかけて廊下に放置し、シャワーを浴びるためにバスルームに向かった。
 普段は面倒でシャワーだけだが、圭吾がいるから上がれば食べるものが準備されている。ならばと、久しぶりに湯船にお湯を溜めて、身体を伸ばす。
 血行が良くなったことで、一気に眠気に襲われるのを堪えつつ、適当に乾かした髪を大雑把にまとめて、楽な部屋着でリビングに足を向けた。
「お待たせー」
 圭吾は台所にいるようで、ソファの上から樹がぶんぶんと手を振る。
「まま、おかえりー」
「ただいまー」
 ソファに座ると、えへえと笑った。
 あまり癇癪を起こしたり、突然不機嫌になったりしない子だけど、今日は意味がありそうな笑顔だ。
「なんだかご機嫌さんね?」
「うーと…あのねえ、ぱぱがごはんするまで、ないしょなんだー」
「そうなの?」
「そーなの。まま、びっくりするから、ないしょなの」
 よくわからんなと思いつつ、にこにこニマニマ可愛い樹のほっぺを両手で挟む。
「パパと内緒はずるいぞー」
「もーすぐっ、もーすぐだから〜」
 ほっぺをむにむにすると、うっきゃあと笑う。あー、可愛いわ…赤ん坊のときも可愛かったけど、大きくなっても可愛いわ…。
 しかし、今の生活で素直に子どもを可愛いと思えるのって、ありがたいことだと思う。
 同僚の中には、突然の休校やストレス生活で、トラブルが増えたとため息をつく面子もいる。実際、圭吾と小松崎の家が、仕事だけしていればいいように取り計らってくれなかったら、私だって今の生活なんて話にならないくらい、追い詰められていただろう。
 休日に魂飛ばせるのだって、圭吾と樹が私を優先してくれるからだ。
 つい、樹をぎゅっと抱きしめていた。
「はー、樹、あったかい」
「あったかい?」
「あったかいよー。樹、大好き」
「ぼくもっ、ぼくも、まま、だいすき!」
 きゅーっと抱き返してくる。
 あー可愛い。息子、可愛い。大好き。
「おーい。親子で仲が良くて結構だけど、まず飯を食え」
 圭吾の声がすると同時に、いい匂いが胃袋を直撃した。
 あ、やばい、おなか鳴りそう。
 腕の力を緩めて身を起こすと、圭吾がワゴンを押して入ってくるところだった。
 多少のことならトレイで済ませるのに、何事だろう。
「なんでワゴン?」
「ちょっと小道具が多いんだよ。まずは、これお袋から。ビーフシチューのパイ包み焼き。前に美樹が美味いって喜んでたからって」
 大きめの壺型の陶器が鎮座する受け皿を、テーブルに置いた。
 こんがりきつね色のパイ生地が、夜勤明けの胃袋を刺激する。
「わー、すごい。これ、圭吾が焼いたの?」
「お袋に言われたまんま、オーブンに突っ込んだだけ。熱いうちに食べな」
「いただきまーす」
 ソファだとテーブルが遠いので、床にクッションを下ろして、直に座る。
 サクサクのパイ生地にスプーンを突き立てると、湯気が噴き上がり、濃厚なブラウンソースの匂いが広がった。熱々のシチューソースの中には、贅沢に牛肉がゴロッと入っている。
 スプーンで楽に割れるくらいに煮込まれた、とろける肉に満足の息を洩らすと、樹が「おいしー?」と顔を覗き込んできた。
「美味しい。おばあちゃんのごはん、美味しいねえ」
「ぱいねー、ぼくがやったんだよ」
「え?」
「パイ生地被せて、飾りの切れ目入れるの、樹が頑張ったんだよな」
「そうなの?」
 え、なら、もっとよく見たっていうか、写メ撮ったのに。
 半分崩してしまったパイ生地をもったいない気持ちで眺めると、横に座った樹が「はやくたべてっ」と急かす。
「じょーずじゃないから、たべて〜」
「ええ?」
「綺麗にできないーってベソかいたんだよ」
「ぱぱ、あっちいって」
 樹がむうっと顎に梅干しを作り、圭吾が「悪かったって」と苦笑いする。
「次はもっと上手にするんだろ」
「うん。まま、はやくたべて」
「はいはい」
 横から急かされてスプーンを口に運ぶ。残ったパイ生地をよく見てみると、確かに切れ込みの長さがまちまちだ。微笑ましい気持ちになったが、横から刺さるような視線を感じて、何も言わなかった。樹、何気に完璧主義なとこ、あるからなー。
「これ、野菜サラダのサンドな。野菜と主食、いっぺんにとれるかと思って」
 カリッと焼いたバンズにこんもり野菜が挟まっている。かじってみると、なんだか覚えのある味で、妙に美味しい。
「美味しい。これ、なんの味だっけ」
「アンチョビじゃないか。野菜を和えてるマヨに入れてるんだよ」
「へー……圭吾、料理の腕、上がってる?」
 前は、こういう小洒落たものは作れなかった気がするんだけど。基本に忠実に、というか、オーソドックスなところから逸れると派手に失敗していた印象だ。
 手を伸ばしてくる樹の口に、ちぎったバンズを押し込んでやりながら圭吾を見つめると、ちょっと視線を逸らして頬を掻いた。
「腕、というか、それ、御厨さんに教えてもらったやつだから」
「そうなの?」
「少し前に、樹と雨芽を連れて店に行ったときに、料理失敗する理由が何か、みたいな話になったんだよ。で、ついでに素人でも失敗しないけど、美味いってやつをいくつか教えてくれた」
「ふうん。…確かに美味しい。これなら、肉っけなくても物足りないってことないし」
「そりゃよかった。樹、ママのごはんとるな」
「ちぇー」
 唇を尖らせるのに笑いながら、サンドにかぶりついた。シチューとの相性もいいし、たっぷり食べても罪悪感少なくて済みそう。
「これ、また作って」
「おう」
 嬉しそうに頷く。…あ、そうか。
 私にべったりくっついて離れない樹を見下ろし、圭吾を見て、シチューを口に運ぶ。
 ろくに休憩も取れない夜勤だったこともあって、我ながら結構なスピードで平らげた。
「はー、満足。ご馳走様です」
「全部食べられたな」
「うん、美味しかった。ありがとう」
 チラッと笑って、ワゴンに皿を引き、「さて」と呟いた。
「美樹、まだ入るよな?」
「ん?」
「デザートあるんだよ」
 そう言って、ワゴンの扉を開けた。これ、下半分は食器なんかを収納できる棚のようになっているのだ。
 そこから、次々にいろいろなものを取り出して、テーブルに並べていく。
 小さい花瓶いっぱいに活けたカーネーション、チョコレートケーキが三皿、器に入ったホイップクリーム。
「おお?」
「樹、ママに渡すんだろ」
「うんっ」
 樹に視線を移すと、いつの間にか手に紙を持っている。
 にぱっと笑って、それを両手で差し出した。
「まま、いつもありがとーございます」
 画用紙にリボンがついていて、折り紙のカーネーションと「ママ、ありがとう」のクレヨンの文字。
 お手製のカードを受け取ると、えへえと笑う。
 なるほど、さっきの「ないしょ」はこのことだったのか。
「ありがとう。樹、毎年どんどん上手になるねえ」
「ほんと? じょうず?」
「うん。カーネーションも、字も、前よりいっぱい上手」
「えへ」
 てれてれしながら、うにゃうにゃ言って、ボフンと抱きついてきた。
 去年よりは大きくなったけど、まだ十分小さい身体を抱きしめて、髪を撫でる。
「おばあちゃんにもカーネーション、あげた?」
「うんっ。うめちゃんと、しろとあかとぴんくのかーねーしょんいっぱいつくった。おばーちゃん、ありがとー、うれしいわーって」
「よかったねえ」
「ぱぱもねえ、おいしーけーきあげたんだよ」
「ケーキ?」
 そういえば、前に珍しいケーキがどうのって言ってたな、と思い出した。
 あれ、いつだったっけ。
 保温ポットからマグカップにコーヒーを注いでいた圭吾が、顎で皿を示す。
「で、これがそのケーキ」
「え、これ?」
 圭吾が並べた皿を指差し、樹が「おばーちゃん、おいしーのよーってゆってた」と続ける。
「美樹、お袋のことばっかりで、自分が祝われる立場だって抜け落ちてただろ」
「…まあ…それどころじゃなかったというか」
「そんなことだろうと思った。一年に一度のことなんだし、味わってくれ」
 そう言われても、見た目は普通のチョコレートケーキだ。
 周りがチョコでコーティングされていて、中には何も挟まっていな…いや、なんかある? 線を描いたみたいにうっすら色が変わっているところがある。でも、それだけだ。
「ま、とりあえず食べてみろよ。樹も、ママと食べるって我慢してたんだよな」
「うんっ」
 ソファに座り直して、行儀良く、手を合わせた。
 私も、フォークで削って、口に入れる。
 ガツンとくるチョコレートの味と、甘味。でも、すぐに何かの酸味が追いかけてきて、しつこくはない。
 でも、重い。
「どうだ」
「すっっっっっごい、濃厚」
「あまーい!」
「どれ」
 圭吾もひと口食べて、無言で口元に手を当てた。
 そういや、甘いもの、苦手じゃないけど得意ってほどでもなかったな。
「…大丈夫?」
「…生きてる」
「そこまでか」
 ブラックコーヒーを一気飲みして、ふーっと息をついた。
「いや、美味いとは思うんだけど、いろんなもんの濃さが凄まじいな」
「ねえ。これ、周りのチョコがシャリシャリいってない?」
「…砂糖かな」
 思わず顔を見合わせる親たちの横で、樹は元気よく「んまーい!」とご機嫌だ。
 子どもの受け皿ってすごいな。
「これ、どこのケーキ? なんか、日本の味じゃない気がするんだけど」
「当たり。ウィーンにあるホテル・ザッハーってとこのザッハトルテなんだよ」
「ウィーンの? 日本で買えるの?」
「世界中に通販してるんだと。教えてくれたのは御厨さんなんだけど。なんでも、母の日用と、奥さんに食べさせたいのとで通販するつもりだって言うから、便乗させてもらった」
「へーっ。…ちなみに、おいくらくらい?」
「うちで買ったのが、ワンホール六千円くらいなんだけど、送料のほうが遥かに高いんだよ。でも、今なら一定価格以上買えば、全世界送料無料なんだと」
「すごいキャンペーンがあったもんね」
 だけど、納得だ。
 オーストリアからの通販だから、間に合うかわからない、だったと。
 試しにホイップクリームをつけて食べてみる。
 お、これ、いける。
「クリーム、甘くないんだ」
「あ、そうそう。御厨さんに、砂糖は入れないほうがいいって言われてさ」
「なるほど。これ、クリームつけるとだいぶ印象変わるわ。これなら、圭吾も食べられるんじゃない?」
「どれ」
 たっぷりクリームを乗せて口に入れ、ややして頷いた。
「いける。チョコの重さがだいぶマシになるんだな」
「ブラックコーヒーとも相性いいしね。…樹、美味しい?」
 もぐもぐしながら、コクコク頷く。
 圭吾が黙って、ほうじ茶を入れたマグカップを前に押しやった。
「お義母さん、喜んでたんじゃない?」
「んー…まあ。昔、食べたことがあったらしくて、懐かしがってたわ」
「へえ?」
「新婚旅行がオーストリアとドイツだったんだと」
「…さすがセレブ」
「うちはいつ新婚旅行に行けるか、わからないけどな」
「あー、ねえ」
 どこに行くかと相談しているうちに、感染症が広がってしまったのだ。
 私と圭吾は医療者のワクチン優先接種枠で、二回打っているから、そろそろ抗体ができているころだろうけど、世間全体で言えば、まだまだ先は長い。
「海外とは言わないから、温泉でゆっくりしたいわー」
「まずは湯治だな。一週間くらい、湯に浸かって、だらしない生活したい」
「わかる」
 今は温泉の想像するだけで、気が遠くなるけども。
 慣れてくると、ガッツリな甘味が美味しく感じられるケーキを頬張り、コーヒーを口に含む。
「なんかこの甘味、身体に染み込んでく…」
「ワクチンでコロナは避けられるかもしれんが、過労はどうしようもないからな。しっかり栄養とって、ちゃんと休め」
「ん、ありがと。はー、いい母の日だわ」
「そうか?」
「うん。息子と旦那にお祝いしてもらって、家で美味しいもの食べられるんだから十分」
「まま、うれしー?」
 ケーキに夢中だと思っていたら、横からひょいと覗き込む。
 目をくりくりさせる樹の頭を撫でて頷くと、にぱっと笑った。
「樹とパパにおめでとーって言ってもらえて、嬉しい」
「えへー」
「来月は、パパの日のお祝いしないとね」
「ぱぱのひはー、きゅうり!」
「…きゅうり?」
 圭吾を見るが、こちらも意味がわからないらしく、盛大に首を捻る。
「樹、パパの日がきゅうりって、どういう意味?」
「えっとねー、おじーちゃんが、はたけのきゅーり、ぱぱのひくらいにおいしくなるなーって。ぱぱのひはきゅーりでぱーてぃーしよーね」
 得意満面に胸を張る息子に、なんと言ったものか。
「きゅうりでパーティって河童か…」
「…まあ、ディップで工夫すれば美味しいんじゃない?」
 嬉しいんだけど、ちょっと違うと肩を落とす旦那を慰める横で、樹はふんすと続ける。
「おなすはねー、もーちょっとあとだって。でも、とまとはおいしーよ。あすぱらさんは、もうおっきいんだけど、まだちっちゃいのもあるから、ぱぱのひもだいじょーぶ!」
 こりゃ、本気で野菜パーティになりそうだな。
 しかし、本当に野菜嫌い、いつの間にか克服してるなあ。ピーマンが嫌いなのは相変わらずだけど、最近はパプリカなら黙って食べてるし。
「樹、野菜博士ねえ」
「親父の仕込みが怖い」
「ぼく、いっぱいおいしーおやさいつくるからね! ままとぱぱ、いっぱいたべて」
 得意げに笑う樹に、なるほど、と思った。
 そうか、野菜作り、この子なりの応援なのか。
 圭吾を顔を見合わせて、笑う。
「じゃあ、ママはトマト楽しみにしてるわ」
「パパはとうもろこしだな。焼きもろこし、美味い」
「おじーちゃんが、とーもろこしはおやさいじゃないってゆってたよ」
「…まあ、穀類だけどさ」
「あとねえ、さくらちゃんのおにーちゃんにおいしーのいっぱいつくってっておねがいする」
「樹…すっかり味をしめたな」
「御厨さんの料理、美味しいからね」
 笑いながら、甘いケーキを楽しみ、コーヒーを飲む。
 例年のように、みんなで賑やかに、とはいかないけれど、これはこれで十分楽しい。
 親子三人で、今年も無事に笑っていられる。
 来年は、もっと楽しいことになっているといい。
 そんなふうに思いながら、母の日のケーキを一欠片残さず、平らげた。

 その後、ふたりにとっとと寝ろと追い立てられた寝室には、スポーツ選手が使っているというマットレスと枕が鎮座していた。
 旦那の散財に頭を抱えたものの、恐ろしいほどの寝心地の良さに、文句を言う間もなく、爆睡したのだった。
 


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