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「1番美しいもの」はやはりスマホにはない

地下鉄の都営新宿線を乗っていると、船堀駅〜東大島駅にかけてだけ外に出る瞬間がある。都内を流れる中川、荒川を超える橋を渡るためであるが、その1駅区間だけ橋を渡っているときだけはスマホを見ないようにしている。橋の上から見える川辺の景色がとても好きだからだ。遠くまで広がる空は毎回違う表情を見せてくれる。

今日、通いの整骨院を出た後、軽くなった体を感じながら信号待ちをしていたら、雨雲の間からとても綺麗な夕焼けを見ることができた。ほんの4〜5分しか見れなかったけど、見下ろした後、いつもの街の営みも違って見えるほど心が温かくなった。

「空」とか「夕焼け」なんて生まれてこの方くさるほど見てるよ、と思っていたけど、ふとした瞬間違って見える、心に深く刺さるときがある。今日の夕日もたまたまそれだった。(いま思い返すと ゆれる/EVISBEATS feat田我流 の歌詞そのままだw )


何が言いたかったいうと、「体験に勝る美しさはない」ということ。
そして「自分がこれから人に与える表現は、そのようなものでなければならない」と思ったということ。

入力(体験)と出力(表現)については、養老孟司さんが講演の中で話されている──

スマホがあればあたかもコミュニケーションがとれると錯覚してしまう。
綺麗な写真や高画質の絵画なんて、いつでもどこでもすぐに見れる。ディスコードがあればいつでも友達と通話出来てしまう。気軽に描いたものをアップすればSNSで瞬時に発表することができる。
でもネットを介しての「入力」は手軽な分やはり希薄なものに感じてしまう。今こうしてまとめたのも、今日夕日を見た体験の後、自分自身がその「希薄なもの」を吐き出してしまってよいのかと疑問が残ったからだ。

ネット経由のつきあいにおいては、どうしても「ノイズ」が消えていくということになります。より純粋思考になっていく、といえます。ケータイやネットでの交流が主になっていう人は、生の人づきあいを「ピュア(純粋)ではない」と感じるようになるのではないか、という気がします。
人間の脳は、つい楽をしようとします。脳が楽をする、とはどいうことか。それは現実を単純化して考えようとする、ということです。(中略)ネットやケータイのようにノイズが少ない情報は、脳にとっては楽です。だから皆がそれを好むわけです。

氏の著書『自分の壁』(新潮新書)より

自分が出力/アウトプットする仕事や作品は、ネットから少しずつ離して、今後ますます「体験」に変えていかなければならない。

何故なら、五感を使うもの/身体を使うもの/触れるもの/時間をかけるものこそ人の心を動かすものであるし、それらの出力は、実は学習となって自分自身にも帰ってくる。以前「自分自身の成長がないと絵も成長できない」と言われたことがあったが、まさにその通りだと今は噛み締めている。

文武両道。
知行合一。

昔の人はうまい言葉を作ったなーと関心しながらも、重要なことは実は昔から変わってないんだと改めて思う。


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一番大事なものはいつだってスマホの中にはない。

Luv (sic) pt4 (feat. Shing02) / Nujabes を聴きながらメモ。

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