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煙 (『#塚森裕太がログアウトしたら』番外編短編小説)

 ※本記事は幻冬舎様より発売した『#塚森裕太がログアウトしたら』の番外編となる短編小説です。本編より先にこちらを読むと本編の読み口が大きく変わってくると思われる内容のため、本編を先に読むことを強く推奨いたします。

【本編】
Amazon(文庫):https://www.amazon.co.jp/dp/4344432584
Amazon(単行本):https://www.amazon.co.jp/gp/product/4344036905
版元:https://www.gentosha.co.jp/book/b14789

 

 タバコを吸う姿に惹かれた。

 手慣れているのに、似合っていなかった。野暮ったい眼鏡をかけて、ワイシャツのボタンを一番上まできっちり止めて、悪いことなんて何一つしたことありませんみたいなおすまし顔で、有害物質のたっぷり混ざった紫煙を吐き出す。俺は子どもの頃、朝の特撮でヒーローをやっていた俳優が夜のドラマでチンピラ役を演じているのを観て、笑ってしまったことを思い出した。初恋の男だった。

「吸うんだ」

 声をかける。男が新しく赴任してきた同年代の教師であることを俺は知っていた。今朝、男自身が職員室で自己紹介していたから。だけど男の方は、隅で自分の話を聞いていたジャージ姿の教員など気にも留めていなかったのだろう。わずかに身体を引き、俺を警戒する素振りを見せた。

「最近、珍しいからさ。職員室でもすっかり少数派だよ」

 職員室。仲間意識を呼び起こす言葉を、タバコの臭いに乗せる。男の肩が下がった。

「まあ、そうですよね。特に教師は」
「前の学校でもそうだった?」
「そうですね。肩身が狭かったです」
「分かるよ。でも、止められないんだよな」
「……そういうわけでもないんですけど」

 男が歯切れ悪く言葉を切った。煙をふかしてから、続きを語りだす。

「なんか、止めるのも勿体なくて」
「勿体ない?」
「前の学校では、喫煙所から繋がる人もそれなりにいましたから。止めるとそういう機会をフイにしてしまうんじゃないかと」

 ――ああ。道理でサマになっていないわけだ。タバコを吸っているのではなく、喫煙所に入るための許可証として使っている。関係性ありきでしか他人と話せないタイプ。人との繋がりを気にかけているくせに、タバコを吸っていなければ努力次第で深められたかもしれない人間関係など、考えたこともないのだろう。

 俺もない。

「潮時かな、という気はしているんですけどね。最近は全面禁煙の学校も出てきているらしいですし」
「そうかな」

 寂しいことを言うなよ。いいじゃないか。ふてぶてしく、殺されるまで生きよう。

「少なくとも俺は、君がここにいなけりゃ、話しかけようとは思わなかったよ」

 短くなったタバコを円筒型の灰皿に押し付ける。男の唇が、嬉しそうにほころんだ。

「そうですね」

 屈託のない、教わる側のガキみたいな笑顔。左の薬指に嵌っている指輪が笑えるほど似合っていなくて、玩具みたいだと思った。

     ◆

「断ればよかったのに」

 いけしゃあしゃあと放たれた言葉が、鼓膜に刺々しく引っかかった。他人事だと思いやがって。お前だって同じ立場だったら断れないだろうに。

「俺が断って、次はお前に行ったらどうすんだよ」
「ないだろ。お前だったらバスケ部の顧問を俺に頼もうと思うか?」
「思わねえな」

 自分で口にしたifを、自分自身で即座に否定する。運動全般ロクに嗜んだことがないであろう、ひょろひょろした薄っぺらい身体。味気ない髪型ときっちり整った服装が相まって本当に弱そうだ。指の間に挟んでいるタバコだけが、切って貼ったみたいに浮いている。

「にしてもお前、バスケなんかやってたんだな」
「意外か?」
「運動やってるイメージはあったよ。ジャージ着てるし。ただ、柔道とかラグビーとかだと思ってた。これはそういう身体だろ」

 白いワイシャツに覆われた腕が、俺に向かってニュッと伸びてきた。掌が胸板の上を小さな円を描くように這う。心臓がほんの少し早鐘を打ち、それが伝わっているかもしれないという恐怖でまた平常に戻る。

「バスケだってガタイはいい方が強いぞ」
「そうなのか?」

 手が離れる。皮膚の内側で燻る熱が、名残惜しさを主張するように震えた。

「当たり前だろ。タッパがなけりゃ意味ねえけど」
「やっぱり身長か」
「まあな。ただいくらタッパがあっても、お前みたいなモヤシは論外」

 俺も触れようか。そんなことを考えて、左手の指が痙攣するように動いた。急いで右手のタバコをくわえ、薬で病気の症状を抑えるように、湧き上がる衝動を鎮める。

 俺の吐いた煙が、隣から流れてくる煙と交わる。交わって、重なって、何も生まれることなく中空に溶ける。あの中に俺たちの成分はどれぐらい入っているのだろう。例えば煙に乗った唾液の飛沫同士がぶつかりあっていたとして、それは何か特別なことと言えるのだろうか。

「うちのバスケ部、実績はどうなんだ?」
「もう一歩でインハイってことまでは行ったことあるらしい」
「じゃあ当面の目標は、インハイ出場か」
「簡単に言ってくれるな」
「やるなら本気でやった方がいいだろ。頑張れよ。インハイに出場したら、酒でも奢ってやるから」

 酒はいいから、抱かせろよ。

 右手を口に。ニコチンと言葉を舌の奥で混ぜ合わせる。コールタールのようにドロドロになったそれを嚥下し、処理しきれなかった残渣を吐き出す。

「ワリにあわねえだろ」

 そうだな。おかしそうに答える声が右の耳に届く。もっとデカいものをくれという俺の願いは、煙と共に虚空に消える。

     ◆

「それにしてもまさか、ベスト4まで行くとはねえ」

 それはもう聞きました――とは言わず、俺は「そうですね」とへらへら笑ってみせた。別にこの男に恨みはない。むしろ、教頭であるこの男がタバコを吸っていなければ喫煙所はとっくになくなっていただろうから、感謝しているぐらいだ。ただ今は貴重な休憩時間を無為に消費されて、鬱陶しさを覚えているのは否めない。

「塚森くんは最初からあんなに出来る子だったのかな?」
「上手いことは上手かったですね。ここまで成長するとは思っていませんでしたが」
「指導が良かったんだなあ」
「あいつの努力の成果ですよ」

 教頭は分かりやすく、バスケ部全体より塚森裕太という個人に注目していた。部員全員の頑張りを知っている俺はその話しぶりに苛立つ一方、塚森なら仕方ないなと納得もしてしまう。それがカリスマというやつなのだろう。存在そのものが人を惹きつけてしまう、そういう業を背負った人間。

「じゃあ、これからも頼んだよ」

 俺の背中を軽く叩き、教頭が喫煙所から去った。休憩に来たのに疲れてしまった。ポケットの電子タバコを取り出す気力も湧かず、息を吐いて肩を落とす。

「災難だったな」

 ――そう思うなら傍観してないで助けろよ。期待してねえけど。

「どうして年寄りってのは、同じことを何回も言うんだろうな」
「寂しいんだろ。俺たちだってすぐだよ」
「なりたくねえなあ」
「こればっかりはどうしようもないな」

 声と共に、煙が隣から流れて来る。視界と思考を染める白。

「しかし、すっかりヒーロー扱いだな」
「俺はマジで何もしてねえけどな。チーム運に恵まれただけだ」
「お前だってチームの一員だろ。そこは素直に誇っていいと思うよ」
「おだてても何も出ねえぞ」

 つっけんどんな返しをしながら、ふと思い出した。そういえば――

「お前、インハイ出たら酒奢るって言ってたよな」

 もう何年も前、俺がバスケ部顧問をやることになった時の与太話。どうせ忘れているだろうと思いながら出した話題には、意外な反応が返って来た。

「ああ、そういえば言ったな」
「なんだ、覚えてたのか」
「そりゃあ一応、約束だから」
「じゃあ話は早いな。いつ行く?」
「酒でいいのか?」

 ゆらり。

 喫煙所に漂っていた煙が、生きているように大きく揺らめいた。風は吹いていない。俺も動いていない。動いたのは火元。俺の顔の横にあったタバコは今、俺の頭の後ろにあり、そしてタバコを吸っていた男は、正面から俺の肩に両腕を乗せて俺の唇と自分の唇をぴったり合わせている。

 男が舌を伸ばした。毒の草を燻した後に残る苦味が、吐息と唾液を通じてピリピリと伝わる。電子タバコに変えてからしばらく味わっていない強烈な刺激が、頭蓋の中に侵入して脳みそを蕩けさせる。

「こうしたかったんだろ?」

 タバコ一本分も離れていない距離で囁かれる。近すぎて、表情はよく分からない。

「俺もしたかったよ。ずっと、したかった」

 煙が上る。洒落っ気のない眼鏡のレンズに映る俺が、靄の向こうに隠れる。まるで入道雲の中に飛び込んだように、俺たち以外の全てが、薄く灰がかった白に呑まれていく。

 俺は、呼んだ。

「小山田」

     ◆

 目覚めてすぐ、車窓から外の景色を確認した。

 通勤のたびに眺めている見慣れた街並みを前にして、ほっと胸を撫で下ろす。そして同時に悔しさを覚える。電車を下りるまであと二駅ある。あと五分は眠れた。それならばギリギリまで、現実に戻って来たくなかった。

 眠る前に頭を覆っていたアルコールの熱は、短い睡眠を経てすっかりと勢いを弱めていた。首を軽く横に振り、残り火を中空に発散させる。そして腕を組み、シートに深く腰かけて、スーツ姿の中年男が二人座っている向かいのシートを見やりながら、ついさっきまで酒を飲み交わしていた相手のことを――夢にまで出しゃばってきたあいつのこと考える。

 これからあいつは、どう動くのだろう。忠告はした。だがあの雰囲気だと、逆効果になってしまった可能性もある。俺の家族の話だ。お前が偉そうに口出しするな。そう思われてしまったかもしれない。だとしたら――

 ――いや。

 違う。逆効果ではなく、狙い通りだ。本当にあいつを止めたいなら、俺はきちんと話せばよかった。お前が娘を認めているかどうかより、お前の娘が自分を認めているかどうかの方が大事なんだと諭すべきだった。そうしなかったのは口論を面倒くさがったから。お前の家庭がどうなろうと俺はどうでもいい。むしろ壊れてしまえ。そういう想いが心のどこかにあったからに他ならない。

『最低だな、お前』

 俺ではない俺が、俺を責める。

『お前を信頼して相談してくれたんだぞ。なのにお前は心配するフリをして、大事な場面で裏切って、人として恥ずかしくないのか? あいつをオナニーのネタにして、自分勝手な夢を見て、そうやってあいつを汚して来たことに報いたいとは思わないのか?』

 俺を責める俺は饒舌だ。だから俺はまともに相手をしない。向き合えば向き合うほど、コイツは嬉々として俺を責め立てる。何十年もコイツと付き合ってきた俺は、それをイヤというほど分かっているし、分からされている。

 だけど塚森は、きっとまだ分かっていない。

 そんな気はしていた――というのは後付けだろう。人は記憶をねつ造する。夜空に散らばる星を勝手に繋いで星座と神話を作るように、点を線にして、形にして、物語にする。認めよう。俺は塚森が「仲間」だと思ってはいなかった。

 ただ、納得はした。塚森は部活の最中、たまに夢の中にいるような遠い目をすることがあった。そしてそういう時、視線の先には必ず阿部がいた。あの目には覚えがある。ただ隠すのが上手くなっただけで、きっと今だって俺は、時折ああいう目をしているはずだ。

 どうして人を好きになることに、罪悪感を覚えなくてはならないのだろう。

 こんなやつに好かれて申し訳ないと思わなければならないのだろう。想いを遂げることなんてあってはならないと考えなければならないのだろう。誰もがやる妄想を特別に汚らわしいものとして、自分自身で糾弾しなくてはならないのだろう。

 ――分かっている。「そうしなければならない」なんてことはない。勝手に「そうしてしまう」だけだ。塚森に「お前がお前を認めていないなら何の意味もない」と偉そうに説教しておきながら、俺はそれを自然に実践することができていない。

 とはいえ、自分の全てを好きになれる人間なんてそうはいない。好きなところも嫌いなところもあるのが常だ。俺は教師としての俺は嫌いじゃない。そして人は、自分が実践できないことであっても、他人に教えることはできる。

『お前みたいな薄汚れた人間に、他人を導く資格があると思うのか?』

 うるせえよ。

 俺は俺を好きになりきれていない。俺を嫌う俺の方が強いかもしれない。だけどそれ以上にお前は大嫌いだ。だからお前が喜ぶようなことは絶対にしない。

 殺されるまで、生きてやる。

 電車が駅に着いた。立ち上がりながらポケットに突っ込んだ手の指先に、電子タバコの硬い感触が伝わる。どこかのコンビニで紙のタバコを買い、一本吹かしてから帰ろう。大した理由もなく、そう思った。

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