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【発達障害】肩書に飲み込まれる人

 書籍を読んでいたら興味深い抄録を目にしました。
 以下のその内容をご紹介します。

 たとえば、彼らに肩書がついたとすると、そもそも自我質量が軽い彼らは、その肩書に吸い寄せられ、豹変することがある。職場のメンタルヘルスにおいて、こうした上司によるハラスメントあるいはハラスメントまがいの言動によって心身に不調をきたす事例にしばしば遭遇する。その際、被害者の話を聞くだけで、その上司がASD的心性をもっている事は、大体のあたりがつく。 

発達障害の精神病理Ⅱ   「反復と強度」内海健(著)

 肩書に吸い寄せられる。飲み込まれる感覚は自分もとても心当たりがあります。また自分の場合は、相手の肩書に影響を受けやすい性質だと自覚しています。幸い、管理職に就いたことがないため部下をみるなどの機会がなく、ハラスメント上司にならずに済んだのかもしれません。

 中学校時代に、今思えばASDと思われる部活動のメンバーがいたのですが、同じ立場だった頃はフラットにフレンドリー接する人でした。そのため部員一同から慕われており、上級生になった際に彼は皆の推薦で副部長に抜擢されました。

 しかし、副部長になった途端、彼の態度は豹変しました。それまでの温厚な態度が消え失せ、誰でも彼でも檄を飛ばすようになり、部長に対しても「部長なんだからしっかりしろよ!」とこれまでの彼の文脈とはかなり異なる様相を見せていました。
 自分に対しても副部長になる前は温厚に接してくれたのですが、副部長になってからは言葉遣いも荒くなり、一体どうしてそうなったんだろうと疑問を感じていました。

 結局のところ、部員に対する態度が豹変してしまった副部長の彼は、次第に人望を失い居場所を失くし孤立していきました。自分の記憶が正しければ副部長になって半年ほどで部活に来なくなり、その後は静かに辞めていました。
 今思えば、彼は副部長という役割に自我が飲み込まれてしまったのかもしれません。
 中学を卒業したのち偶然その彼と出会いました。会話をした際、当時の部活動に話題が及び彼の口からは「当時は、部員を引っ張ってリーダーシップを発揮しようとしたけど、空回りしてしまった。自分のキャラとは違うことをやって違和感を持っていた」ということを話していました。
 今回の書籍からこの部活動でのエピソードを思い出し、今そのメカニズムが繋がったというところです。

 「そもそも自我質量が軽い」という文面はASDの病理の中核を表していると思います。自分の中では、「自我が希薄」「ふわふわとした存在」「自分という存在があるようでない」という形でASDにおける自我の有り様を言語化していました。
 ASD当事者や自分を振り返ってみて、「自我が脆弱」という感覚はそれなりに的を得ていたようですし、専門書で言語化されているとなるとより確信がもてるようになりました。

 他の精神科医もASD者の自我が独特であるということを述べているので、それをご紹介していきます。

 自分のモノと人のモノとの境界がすごく曖昧である。それは単に持ち物だけではなくて、お金や人間関係、地位、立場といったこともそうです。
…こういうつかみどころがない、自己像がないという感じは、彼らの特徴の一番深いところにあるように思います。だからカウンセリングはほとんど役に立ちません。…特にこういう自己像認知、自分が何者かという認知が、一番深いところで決定的に欠けているように思われます。

【成人発達障害専門外来とリハビリテーション】 (昭和大学附属烏山病院病院長 加藤進昌) 

 私なりに精神病理学をシンプルに定義するなら、「病に対して心をもって理解する方法」である。ASDももちろんその対象となる。ただ、これまでと異なるのは、「主体」というものについて、根本的な再考を迫られたことである。もっとも統合失調症に代表される従来の精神病においても、主体は問いに付せられる。彼らにおいては、経験の舞台である主体そのものが壊乱の淵にある。それでもわれわれは彼らに対して主体として対応するのであり、そして回復とは主体としての回復があった。
 だが、ASD者の場合、どうにも勝手が違うのである。何か引っかかりどころと言ったものがない。かかわりが空を切り、肩透かしをくらったように私は取り残されてしまう。いわば異星人と相対している感覚にみまわれるのである。いかにも凡庸な喩えなのだが、そうとしかいいようのない気もする。

発達障害の精神病理Ⅰ  「あとがき」内海健(著)

 
 これらの引用を読み感じることが、ASD者の自我が定型発達者からみて、独特なもの、つかみどころがない、再考を迫られるほど異質なものなようです。

 過去に書いた「【発達障害】知識はあるが、話す内容が浅い」という記事で、 「自分の人生が他人事」に感じると述べたのですが、これはまさに「経験する自己」が欠如していたり弱っているということは、自我が希薄なことが影響していたのだと思わされました。以下の引用についても当時は認めたくなかったものの、妙に納得せざる得ない内容でした。

「自動的な行動」 
 大衆は共感性や自明性でふんわり動いているのですが、発達障害の人は「自動的な行動」と言われています。皆が動いている通りに動くのではなく、自分の中でプログラムされた一定のリズムで動きます。自動的に動いているから、いざ自分の意見を言えと言われると困ってしまいます。自分でも何で動いているのか分からなかったりします。
 レポートができなくて進級に困ることが多く、これは「経験する自己」が欠如している。あるいは弱っているということです。 
 自分が感じていることがよく分からない、不快感に対して鈍感、今の気持ちに対して鈍感だったりします。自分が何をしたいのかにも鈍感だったりして、主体がない感じはあります。主体がないけどこだわりは強いので、自分がある人だと思われたりするのですが、そうではありません。

発達障害の国語力・メカニズムと対処法【精神科医が一般の方向けに病気や治療を解説するCh】益田裕介

 これらのことをまとめると、ASDの中核的な精神病理には「自我の希薄さ、質量の軽さ」が存在するが故に「主体」が不鮮明に映るのでしょう。

 自分という主体が希薄が故に、容易に役割に影響され染まりやすく、それ故肩書に吸い寄せられ、豹変することがあることに対して一定の納得感があります。

 現代社会では、「自分軸」や「主体」を持つことを求められるが故、自我が弱いASD者にとっては生きづらさの根源では感じます。

 どうもスッキリしない部分がありますが、現状の自分ではここまでが限界のようです。また機会があれば今回の内容に触れていきます。
 最後までお読みいただきありがとうございます。

【参考文献・参考動画】

 


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