島日和<ひょうたん島後記>

        4-2024   池田良


春になると、色々な種類の柑橘類が店頭に並ぶので、それをひとつずつ買ってきて、窓辺に並べて眺めている。
その中には、うっとりするほど美しい味のものがある。
それは、甘いとか美味しいとかいう範疇ではなくて、まさに美しい味としか表現しようのない味。
花が咲いて実になる果物は、どれも美しい味になって当然のような気もするけれど。

窓辺に座って、なかなかむけないブラッドオレンジの皮を無理やりむいて、指を血まみれ色にしてゆっくり丁寧に食べていると、草原の向こうから、ネコが小さな包みを抱えてやって来るのが見える。
きらきら光る春の日を浴びて足取りも軽く、出そろい始めた草の新芽を踏んで、とても嬉しそうだ。

「やあ。とてもいい匂い。なんのオレンジを食べていたの?部屋中がステキな匂いになっていますよ」
ドアを開けて微笑みながら、ネコはそう言って、ソファーの僕のとなりに腰かけた。
「ブラッドオレンジ。このあたりのお店で売っているのは珍しいから、つい買ってしまったの。小さくて固いけど、この色と匂いは素晴らしいでしょ」
僕はそう言って、ひとつをネコに手渡した。
ネコはそれを、丸ごとくちゃくちゃとかじる。
ネコはたいていの果物や野菜を、皮ごと生で食べるのだ。
「その皮、少し苦くない?」
「大丈夫ですよ。僕は柑橘類の皮の味は特別大好き。とても美しい味だから」
そう言ってネコは、床から足をちょっと浮かせて楽しそうにぷらぷらさせている。
やっぱりネコも、柑橘類の味を美しいと思っているのだ。
僕はなんだか少し嬉しくなって、背中がむずむずする。

「あのね、このあいだソレイユの丘に行ってみたらまだ菜の花が満開でね、それがとても背が伸びちゃっていて、大人も埋もれちゃうくらい。だからみんながその中で迷路ごっこをしていましたよ。でもね、出口の係員さんが、こっそり言っていたけど、菜の花畑から出られなくなってしまう人も、いるんですって。何日も何日も探してみても、見つからないんですって」
菜の花畑の迷い人は、花粉の匂いにむせかえる。
夕日が沈んだその後の、寂しい風に涙する。
「ふうん。それでその人たちはいつか出られるのかしら」
「出られる人もいれば、出られないままの人もいる」
菜の花畑を彷徨う人は、お互いに決して出会うことはない。
話し相手は皮肉屋の月だけ。毎晩、月の出を待ち焦がれ、毎日、菜の花畑のどこからかかすかに聞こえる、人々の声を聞いては懐かしむ。

「今日はとても素敵なおみやげを持ってきましたよ。あなたがとても好きそうな物。これはね、ソレイユの丘のおみやげショップにあったんですよ。ぽつんとひとつ」
そう言いながらネコは、テーブルの上に置いた小さな包みを開いた。
そして取り出した箱のようなものの上の口をぱかりと開けると、ポケットから黄色い菜の花畑の写真を取り出し、手品師のような手つきで僕に見せると、その中に押し込んで、箱.の横のスイッチをぽちっと入れた。

次の瞬間、それは、息をのむような光景。
何千何万という無数の菜の花の黄色い花びらが箱の中から吹き上がり、部屋中に広がり、乱舞する。
菜の花の、黄色い花粉の匂いさえして。
「どう?素敵でしょ。桜吹雪だっていつでも楽しめますよ。3D花吹雪プリンター。映像じゃなくて本物が出てくるから、その花を敷き詰めた床を楽しむこともできるし。花だけじゃなくて、星や月のかけらも舞い上がる。虹のかけらや宝石のかけらも。色々混ぜればそれはもう、万華鏡の中にいるような夢心地」
僕は菜の花の匂いにちょっとむせて小さな咳をしながら、唇を尖らせ、ネコと一緒に菜の花の黄色い花粉を吸う。唾液でたっぷりしめらせた舌をのばし、纏わりつく黄色い花を舐めまわし、ふたりで大はしゃぎしながら。
「ああ素敵。僕たち花まみれ」
そしてふたりで大笑い。

「さてさて、それでは、ここに何を入れようかしら。何が見たい?」
それは、・・・何だろう。何の中にまみれたいのだろう。星、花、思い出・・・。
けれども一番見たいものは、この世の中の仕組みの奥の奥。
「この世の中の仕組みの奥の奥?そんなものを、このおもちゃに期待するの?それは無理というものでしょう。まあせいぜい、これくらい」
そう言ってネコは、宇宙のどこかから見たような青い地球の写真を、何気なさそうに箱に入れ、スイッチをぽちっと押した。

そして部屋中、乱痴気騒ぎ。
上を下への支離滅裂。
飛び交うものは血まみれ色のガレキの破片。餓死していく子供たちのうつろな目玉。
よみがえった「独裁者」の舌なめずり。
BGMはクレイジーラブ。