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繰り返し繰り返し、没頭の先にある「何か」を

(これは、内容がひと区切りつくところまで読めます。もっと深い部分に切り込んでるところだけ、有料部分に分けました。では、始めます)

とりとめのない話である。

まず少し前に、父から大量のクルミが届いた。
ご丁寧にも、『虎』印の高貴な空き箱に入れて。

父と母は健康のため、毎日なかなか本格的な散歩をしているのだが、その途中に、大量のクルミが落ちているのだと言う。
だから、拾ってみたと。

その気持ちは、分かる。
人は太古の昔から、どんぐりとかクルミとか木の実を見たら、もれなく拾いたいように遺伝子に組み込まれているんだと思うから。


だがクルミはクルミでも、鬼の付くクルミである。
簡単に割れやしないのだ。

そこで、父の探究心に火がついたらしい。
石器時代の人間が割ることができたのだから、と色々調べ出し、近所のお年寄りにまで聞いてみているらしい。昔はどうしていたのですか、と。
ついにはカラスはクルミを道路に落とし、車が踏みつけて割ったところを食べていることまで突き止めたらしい。


その気持ちも、まぁ分かる。
探究心というのは止められやしないものだし、父はそれでついには研究者となったのだから。

電話口でもう2,000個も拾ったんだ、と嬉しそうに話す父の声を聞きながら、よかったねぇ、とイキイキしているであろう父の顔を想像した。


だがこの探究を、お前もやってみなさい、と子どもたちにも与えるのが我が父である。
それで、冒頭のクルミが大量に届いたくだりに戻る。

美味しいから食べさせてあげたい、じゃないの。
どうやって殻を割ったらいいか、を探究するのがすごく興味深かったから、子ども(私たちきょうだい)にもそれをやってみなさい、と来るのだ。

だから、割り方についての説明は一切無し
Googleで調べて、とあるのが唯一のヒントか。

父は先生だから、いつだって答えを教えず、自分で考えるように、というスタンスなのだった。


い、いらねぇ…!(笑)


悪いがこの父の『与えたい気持ち』は、どうしても分かってあげたく、ない…!

なぜなら『自分で立てたわけでもない命題に、自分の力だけで取り組まなくてはならない』って、言い方は悪いが私にとっては『押し付けといて退路を断つ』、なかなか理不尽なものだからだ。

今回に限ったことじゃなく、子どもの頃からずっと何やかやと探究を与えられてきたからなぁ。


私、分かってる。
父は、私への愛情で与えたいと思ってきたのだろうし、何も、退路を断つ意識は無いって。

「無理して割らなくてもいいんだ、アートの材料にしたっていいんだよ」

と彼は言う。

だが私は、そもそもその命題を受け取らなくてもいい、という選択肢を与えられていないのだ


やりたくないけど、自分の力でやり遂げなくちゃいけなくて、
何とかやったら今度は『まとめてごらん』と来る。
(まさに研究)

子ども時代は、これの繰り返しであった。


ちなみに父からは、こんなものも届いている。
私が初めてnoteに文章を書いてみよう、と思ったきっかけを作ったアレ。

基本、いい話である。
よかったら安心して読んでおくれ。


*


私は自分の性格とか、表現を、『優しい』と形容されるのが本当に苦手で…

せっかく言ってもらった褒め言葉なんだと、頭では分かるんだけど。
言われると鼻の奥がツンとして、悲しくなる。ごめんね、どうにも受け取りきれない、そこも苦しかったんだけど、それはこの『ずっと受け取り続けて、頑張って消化し続けてきた』歴史も関係しているのかもなぁ。


前回クルミが送られてきた時は、自力では数個しか割れず、申し訳ないけど捨てた。その次、クルミいるか?ときたメールには即レスで「要らないよ」と返した。

しかし、今回は送られてきてしまった。
クルミを見るたびに、複雑な感情が渦巻く。


*


先月、私は青銅器の展示を見に行った。

古代中国の青銅器と、そこからインスピレーションを得て、現代作家が創作した青銅器とがふんだんに展示された、とても見応えのあるものだった。

本当に、素敵だった…(うっとり)
ビエンナーレってことは、2年後にまたあるのだろうか。


そこで、私は青銅器をびっしりと埋め尽くす、細かな模様に目を奪われた。

うずまき、三角、四角。

これはだいぶ具象なんだけど、一番好き。

元々は神事で使われる器で、その模様も神に捧げる意味合いがある。

繰り返し、繰り返し、器の大きさが大きければ、もう無限ともおもわれるその模様を刻み込んでいく作業には、どんな意味合いがあったのだろう。


銀の三角、繰り返し…

ふと、萩尾望都先生のマンガを思い出した。


そして、父から昔、聞いた話も。


*


紙の上に、点を打っていくとしよう。


点 点 点

どんなに気まぐれに打ったとしても、その数が増えれば増えるほど、気まぐれだったはずの点々は、規則性を持った『パターン』になっていくのだと。
(父は、確率論の研究者です)


ほんで。


私も水彩と一緒にいるとき、気づいたことがある。

気まぐれから始まった『遊び』が、繰り返し繰り返しののちに、何かに『なる』のを。

たとえば。

地獄谷温泉につかる、お猿である。

これは、最初からお猿を描こうとしていたのではないんだな。
赤系統の色と、青系統の色を混ぜ合わせて、様々な紫色を作っていたら、『あぁ、これは寒い寒い冬の色だ、粉雪のちらつく』と思うものが出てきた。グラデーションを作り、所々を綺麗な水筆で拭ったら、そこに湯気が立ち上ったようにも思えた。そこで今まで使ってきた赤色をじっと見ていたら、それはお猿の上気した顔だった。

このような過程で描いたものだ。


繰り返し繰り返し、没頭の先にある「何か」を

ずっと…

数学者の父と、絵を描く私。血を分かった関係でありながら、ずっと私は、それぞれ全く違う星に住んでいるような感覚をぬぐえなかった。

かたやバリバリの理論人、かたや言語化が苦手な感覚人。

でも、この

繰り返し繰り返し
没頭の先にある
何かを

という「動き」が一緒だな、と気づいてから。

もしかしたら父と私は、根っこでは同じ『志』を持っているのかな、と思うこの頃。

今までずっと、父からの一方通行だったけど、繰り返し繰り返しから発見したこのこと、手紙に書いて送ろうかしら。


…勘の良い方にはお見通しかもしれないが。

こうして書いてみると、この父が「探究を与え続けてきた行為」というのは果たして健全な愛情なのだと言い切れるのかどうか。

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