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フラワー・オブ・ライフ③


二十歳の時、祖母が脳梗塞で倒れた。
そのまま祖母が特養ホームに行ってから、だんだんと記憶を失って亡くなるまでの十数年、母はたったの一度も祖母を見舞いに行かなかった。
祖母が亡くなったお葬式で、「嫁」として機敏に動きながら、時に泣き、時に父に寄り添う母を見ながら
「人が死んだ時、こんなに喜びを隠しきらんくてもええんやなぁ」
と、ぼんやり思った。
母のかぶる能面からは、噛み殺した笑いが溢れ出していた。
でもやっぱり家族だもの。忍び笑いだなんて、私の穿った見方かもしれない。
そんな折、母が電話で同じように嫁姑問題を抱える友達に
「絶対終わるから。死んだら終わりやから。あともう数年の辛抱やで」
と言っているのを耳にし、やっぱり死んでくれて嬉しかったんやな、と冷めた心で思った。

小さい時はおばあちゃんが大好きで、週末はおばあちゃんとのお出かけが何より楽しかったのに、何十年も祖母の悪口を聞き続けた私の中に、祖母が死んで悲しい、という気持ちが浮かんでこない、そのことが悲しかった。

祖父と祖母が亡くなって数年間は働いていた小早川さんも、60歳を迎えた時に退職した。
退職金を手渡した数日後、小早川さんの姉という人がうちに来て、深々と頭を下げてお礼を言った。今後は、お姉さんが小早川さんの面倒を見るのだという。
祖父に怒鳴られ続け、時には血も流し、働き詰めだった小早川さんの人生は一体なんだったのだろう。小早川さんは何を考えていたのだろう。
私にはわからなかった。
一度母が、街で小早川さんを見かけたそうだ。
小早川さんは知らない家の玄関を前に佇んでいた。赤信号で停車していた母はその背中しか見えず、信号が青に変わるのをじれったく待った。車が進み出し、覗き込むように小早川さんを見ると、小早川さんは表札に映る自分を見ながら、長い間鼻をほじっていたのだった。


自分の世界が欲しかった。
早く家を出て大人になりたかったけれど、反抗の仕方も「家」の外へ出るのも、どうすればいいのか分からなかった。みんながとっくに反抗期を終え、自由な世界へと羽ばたいていくなかで、私は母の結界から出られないまま、歪に歳だけを重ねた。

気がつけば、私はあらゆることを母のせいにして怒る人間になっていた。
人生でうまくいかないことが起れば、すべて母のせいだと思った。

もっとこうしてくれたら
あの時こうしなかったら

失われた時間を悔やみ、自分に流れる母の血を呪い、早く結界から出せと叫んだ。
私と母はぶつかり続けた。母は消耗し、疲弊していった。それでも責めることをやめなかった。
しかし責めても責めても、人生は思うようにいかず、私は徐々に自分の心と身体をコントロールできなくなっていった。

外では普通を振る舞ったが、家に帰ると全く別の自分が顔を出した。
いつか橙色の灯りで見た、あの操り人形にそっくりだった。
自分の本当の姿を見るのが恐ろしくなった私は、心のなかに深い井戸を掘った。
私はそこから14年間、真っ暗な井戸に身を潜めるようになるのである。


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