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自分色のない情報の謎。

お久しぶりです。初めましての人は、初めまして。べルといいます。

僕は本を読むのは得意な方ではない──かといって、書くのはどうかと言われればそれも得意でない。

でも、これを読んでくださっている人は、きっとものを読む習慣があるのだろうし、凄いなあと思う。noteで誰かの記事を読む、というのも、僕みたいな読書の習慣が無い人にとっては、読む前に深呼吸が必要なくらい、体力も気力も使う。web上を渡り歩くのも、仕事や趣味で必要な情報を探す……くらいだ。

仕事で必要な情報をwebで探す前に、時折考えることがある。果たして探している情報を手に入れることはできるだろうか? と。多くの場合は手に入る。

どうして手に入るか……それは、その情報をweb上にアップロードする人間がいるからだ。不特定多数向けに、一般的なことや、専門的な情報を発信する。──実はそれがよくわからない。

僕は、日記もつけているし、ブログの経験もあるのだが、世の中で困っている見知らぬ誰かを助けるために情報を発信しようとは、あまり考えたことがない。僕がわざわざ言わなくても、他の誰かが発しているというのもあるけれども、それ以前にメリットが感じられない。

事実を不特定多数に紹介する、ということで、どんな良い事が? 新聞や雑誌でもないのに。一個人として、なぜ?


母校で勤めていた講師が、プレゼンの授業で僕に教えてくれたことがある。

調べたことをまとめただけのプレゼンに価値はない」と。僕は電気科の人間だけれども、教養科目たるこのプレゼンの授業の、この言葉にとても感銘をうけたことを今でも覚えている。調べたことをただ発するだけなら、別にあなたのプレゼンに耳を貸す必要はない。ウィキペディアと検索すれば、そこに書かれている以上の情報が手に入るだろう。君のやっていることは無駄なんだ、と。

(ウィキペディアにも親切な書き手がいて成り立っているということは、この際おいておこう。)

その講師が仰るには。プレゼンには、発表者の感覚や意見が含まれていることが最も重要なことだというのである。かき集めた情報をどれだけ並べたところで、その結果「面白かった」のか「つまらなかった」のか、最終的にそういうものを聞き手は一番知りたいのだ──と。

そう言われて、僕もその通りだと思った。

学校の授業であれ、大学の講義であれ、本を読むときであれ。語り手の感想をこそが一番聞きたいのだという自覚はあった。そして、語り手の私情が織り交ぜられている話は、とても面白かったし、印象深かった。

僕が専門科目よりも教養科目の方が面白いと思っていたのは、そういう講義に沢山巡り合えたからなんだろう。教えるだけで興味を引くことはできない。興味を引くためには、自分の感覚や経験、思いを織り交ぜなければならない。

感想文、大いに結構なのだ。事実と感想を分離して考えろ、と、皆さんもよく言われてきたことだろう。それは別に感想を書くなということではなかったはずだ。事実は事実として、憶測は憶測として、感想は感想として表現しろ、とそういうことを言っているのだと思う。

事実を淡々と述べる論調は、退屈で眠ってしまいそうだ。事実を求めて感想を求めず──という人間たちも、いるにはいる。非常に事務的で、こういう人の話を聞くのもつらいし、こういう人に話をするのもつらい。

感想が無い話というのは、スパイスのない料理なのかもしれなかった。

その講義以来、仕事でもプライベートでも、人に何か話をするときは、無機質な事実よりも、とにかく感想といったものに最も力を入れてきた。この事実を集めた人間の見解を知らしめたいのだし、その集めてきた情報を使って最終的に何が言いたいのかは本来そこにあるのだと思う。

閑話休題。

web上にある幾多の情報には、欲しい情報が溢れている──溢れているけれども、だけれど、面白い情報にはなかなか巡り合わない。無機質な情報を求めているから、無機質な情報だけで満足するというのもあるにはあるけれども、技術的なことが掛かれているwebサイトか何かに感想が含まれているケースはそう多くはないことだろう。

僕もそれを承知の上で調べるし、利用する。

ただ、理由がわからなかった。

自分の感想を載せないような情報がなぜ親切にも発信されているのか? 「こういう困りごとは、こうやって解決できるよ!」「こんな技術を使ってこんなこともできるよ!」……読み手にとって非常に有益な情報である、それは疑わない。

ただ、その情報を公開しようと思った書き手の気持ちがわからない。例えば僕だったら、1つ1つの困りごと解決法よりは、成果物(自分が表現したかったもの)を紹介することに注力することだろうな。

これを──noteを読んでいる皆さんは、その内容に何を求めているだろうか?まさか僕がプレゼンに対しての説を垂れのをありがたく聞くことが目的ではあるまい。僕だって、事実を淡々と書く目的noteを書くことは今後もないと思う……

無機質な情報を公開するwebサイトが溢れているのは、なぜなのか。ビジネスの機会を得る技術紹介という形で紹介する以外にも、何かあるのだろうか?

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