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考え方を考える話

こんばんは。ベルです。

ベルという人間は……考え方も、行動も、醸し出す雰囲気さえも、普通の人とは違うと言われてきた。……まあ、これだけならよく言われそうなことだろうとは思うよ、ちょっと変わった人は世の中に沢山いますな。

ということで、「変わっている人」が見た世界観というのを、ちょっとだけ紹介します。


この世界を生きにくい人間がいる

……「変わった人」とはいうものの、ベルの場合はその普通の「変わった人」よりはもうちょっと深刻で、若干の手に負えなさというものがあり。話がかみ合わないことも少なくなく、感覚を共有できたという場面もそれほど多くない。友達が少ないわけではないけれども、例えば今このnoteに書くようなことを話すような間柄の人がどのくらいいるかといえば甚だ心許ない。

考え方が合わないって、どういうことなんでしょうね? みなさん、「考え方が違う」って何が起こっているんだと思いますかね。僕は一応、その答案は用意してございます。

考え方の違いはつまり、善悪の判断基準の違いだと思うんですよ。

別に何も哲学的な話をここで展開するつもりはないのだけれど、これはイメージができるんじゃないですかね。善いことと悪いこと。ムーアのパラドクスを思い出しながら、人によって多少なりとも善は違うのだが、しかしそれが「大幅に違う」となるとコミュニケーションの重大な阻害要因となる。

その善悪を統一するために、世の中では様々な尽力がある。なんとかして教え込んで、共有しようとする。それが「道徳」だったり、儒教的な礼儀だったり、諸々の宗教であったりと。それぞれ善悪の基準を共有する人たちが勢力を成して、人間関係を築いているのである。

なに簡単な話だ。相手が悪と考えていることを善と考えていたら、人間関係など上手く行くはずがない、逆も然り。善悪が違うというのは、それほど大きな問題であって、大半の人間が共有する基準とは違う基準を持っていると、それだけで人生はハードモードである。……そんな状況になったら、もはや努力でなんとかなるものではない。そのコミュニティは、その人に合っていない、と言えると思うのだ。


努力でなんとかなる話じゃない

自己啓発系の話が好きな人は、一度ならず見聞きしてきたであろう言葉がある。

「他人は変えられないが、自分は変えられる」

……果たしてそうかな?

僕は自己啓発系の言葉はあまり好きではないというのは、賛同できることが多くないからで、どういうところが賛同できないかは後に述べることにする。とりあえず今は、自分が変わるというのは可能なのかどうかということについて喋ろうと思う。

僕が思うに、「自分を変えればいいんだ」という人は、ある前提を無意識のうちに持っていると考えている。それが

……「相手も自分も、善悪の判断基準は同じである」という前提が。

意見の違いというのは、何かしらの経験則によって分岐した結果、末端の行動が違ってくるのを目の当たりにしている、というものだと捉えているんだろう。相手は自分の知らない経験則を持っているかもしれない。相手を自分に合わせようと説得するよりも、自分が相手に合わせれば学ぶこともあろう。おそらくそういう考え方なのだと推察する。

これは余談なのだが「他人は変えられないが、自分は変えられる」って他人に言うのが気にいらない。「俺は譲らないから、お前が変われ」と言っているに等しいのである。オウム返しの応酬を生みそうな文言だね。まぁしかし、自分が変わるという選択肢を与えるという意味で、この言葉を全否定するつもりはない。根本的な基準が同じなら、有効な場合だってあるから。

さて、根本的な判断基準が違う場合。もっとずっと根本的な、善悪の判断基準が違う場合。

とりあえず分かりやすい例として、選民思想{自分(たち)こそは選ばれた人間だという考え方}。この選民思想と、人間は皆平等であるという思想を持っている人とでは、何をどう譲歩したところで絶対に分かり合うことはない。それは容易に想像ついてくれるだろうか?

もう1つ分かりやすい例を挙げれば、「1+1=田」だとする考え方と、「1+1=2」とする考え方は、お互いの体系をどれほど観察して、分かり合えそうな共通項や法則を探したって、決して融合することはない。こういうなぞなぞが嫌いだ、っていう人はよく知っているでしょう?

それと同じようなことが、考え方で起こる。善悪の判断基準の差というのは、大まかな判断というか、どこへ向かうべきかという根拠で、それを前提にして人は物事を受け入れるか・受け入れないかを判断する。

その判断基準を変えればいいじゃん、って思うじゃない?

その善悪の判断基準というやつ、そう簡単には変わらない

なぜならその基準、否定される機会が滅多にないからだ。その基準で生きてきて大きな問題(矛盾)がないから、今まで変わっていない。そして大抵の人はその基準を意識せずに使っていて、それを根拠に導き出された膨大な経験則がある。しかも、大体感情というのは、その大元の基準と概ね一致して発言するので、自分が持つ基準を疑うということもしない。

善悪の判断基準を変える、ということは、人生で培ってきた経験則全てを捨てるに等しい。善悪の判断基準が変わると、全く別な性格の人間になるよ。神様を信じている人が、神様が存在しないことにする、というレベルの大事である。

「考え方を変える」、それは「はいそうですか、では変えますね」で何とかなるレベルじゃない。何か大事件が起こって、自分の基準が脅かされでもしない限り、無理なのだ。

精神論を唱える人に、心の病気を理解させることは極めて困難でしょう。でも、心の病気を認めざるを得ない状況に遭えば、その考え方を変えることができる。


上流(上位)の思想と公理

さっきまで使い続けてきた「善悪の判断基準」というもの、そのものについての話を今から展開しようとしております。

判断には根拠というものがある。その根拠は、最終的に下した判断より上流の考え方。その根拠をもとに、下流には無数の判断を作ることができる。(これがちょっと難しい言葉で演繹というやつです。無数の判断に共通する要素を見つけて、逆に根拠を推測するのを帰納といいます。これは高校生の数学とかでやったかしら?)

その根拠が正しいというのにも、根拠がある。それがさらに上流の考え方。

そうやって、上流の上流の更に上流の……というのを繰り返していくと、やがて根拠の分からないところに辿り着くんですよ、無条件に正しいと考えるしかないものが。それを公理といいます。

さっきまで使っていた「善悪の判断基準」というやつは、それが公理であるということを前提に話を進めてきました。

無条件に正しいと考えるしかないもの……根拠がないなら、変えられそうな気がする? そう思うのなら、考えてみればいいのではないですか? 自分の公理を探して見つけて(それだけでも骨の折れる作業だと思うし、歴代の哲学者はそのために尽力してきたといっても過言ではないと思うが)、自分が無条件に「そうあるべき」というものを、変えられるかどうか。

無理でしょう? だって、それを正しいと信じているのだから。別の言い方をすると「考えるまでもなく当たり前」というやつ。

数学でも実は同じなのさ。興味のある人は「ユークリッド原論」で調べてみましょう。証明を必要とせずに真とする条件(ルール)がそこにあります。『同じものに同じものを加えたら、その合計は等しい』とかはその1つ。さっきの「1+1=田」と「1+1=2」は公理がまるで違うので、どうしようもなく別の話なわけですわ。

……とまあ、こんなふうに「どうして」「どうして」と上流に行くと、より根本的な原則を見つけることができます。ベルにとって哲学とは体系の上流に行く思考だと思っています。

公理を基準にして、1つの体系ができている。全ての判断は、突き詰めれば公理を根拠にしている。人の思想も数学も、そういう意味では一緒なんだよ。


一貫性を求めるスタンス

ということだから、人それぞれに公理(信じているもの)がある以上、考え方は人によって千差万別。でも共通の公理さえ持っていれば分かり合える、説得が可能だ。

でもそんな都合よく、一緒の公理を持っているなんてことが……??

ならば多様性を認めよう、というのが僕の考え方である。(厳密には認めていなくて、それは後で述べる。)

矛盾さえしていなければ、少なくともその体系(思想)の中では誤りではない。それを認めよう、というものです。公理を否定するつもりはないけど(互いに矛盾する公理を持っていたら、論外として)、自己矛盾があればそれを間違っていると言える。

自己矛盾がないなら、いいんじゃないですかね。逆に言えば、自己矛盾を許さない

賢明なみなさんは気付いていると思うのですが、体系を否定するには基本的に2つしか方法がないんデスよ。「公理を否定する」「自己矛盾を指摘する」まあ、公理同士が喧嘩していなければ、自己矛盾の修正は容易でしょうが。

多くの信者を持つ宗教を否定することは、実は難しい。それをどれだけの人が意識しているだろうか? あれは自己矛盾のない大きな体系だ(もちろん自己矛盾が発見されればそれを排除するべく神経質に説明して、それが歴々積みあがっている)。生半可な思想で否定しようとしても、逆に説得され取り込まれるんだよ。

思想体系は、一貫性というものに対し非常に神経質である。

一貫性を「時と場合による」なんてテキトーな言い訳で捨てているのを見過ごすわけにはいかないのだ。そして世の多くの人は、自分の考えの一貫性をそこまで真剣に考えていない

ここが、ベルとその他の人と衝突する最も大きな原因である。僕の考え方が他の人と違うというよりは、相手の言っていることとやっていることの照合を重視する感じ。矛盾に対して人の5倍はデリケートなんじゃないかと思う。


日記が導く「あるべき姿」

そういう僕ももちろん、自分に対して一貫性を課している、当然である。自己矛盾をするようなことがあれば、否定されて当然。自己矛盾さえ起こしていなければ、反省する気すらない。矛盾していないものを、悪いと思う感覚が僕はとても薄い

一番最初の記事に、日記のことについてダラダラ書いたんだけどね……

この日記、ただの趣味じゃない。僕の必需品である。

たとえば、僕が1週間前に、不満に覚えたことの文句をつらつらと日記に書いたとしよう……1週間後にそれを読み返すと「何を言っているんだこいつは」という事が普通にある。それは、書いているときと、読んでいるときの自分の考え方の一貫性の無さが現れているのだ。

どうしてブレるのか……当時直面した問題に対し、自分はどういう立場をとるべきなのか。そういう課題を日記は逐一与えてくれるのだ。だからこそ日記には正直なことを書かなければならない。自分の怒りは正当なものだと根拠を並べても、それが正気に戻ると全然おかしなことを書いている。それを目にするだけでも、考え方はどんどん改まっていくね。悩んだときに、どういうわけだから、何を考えて、何を企んで、何をしでかそうとしているのか。それをいつの日か、後になって自分自身で評価するんだよ。

日記は自浄作用というか、一種の反省システムだよ。だから、みなさんにもおすすめしたいんです。

僕の日記は、僕の思想そのものだ。ジョハリの窓を否定するようだが、僕以上に僕のことを知っている人は存在しない。これは自信をもって言える。


まとめ:僕はおかしくない

ここまで読んできてくれた人

意外と「別に普通なんじゃない?」って思ってくれたと思うんだ……何当たり前のこと言ってるのさって人がいたら、ちょっと嬉しいよ。そう、僕にとってはこのnoteの記事、当たり前のことを書いているだけ。

人の考えを簡単に否定するんじゃなくて、その人が何を考えているか、相手の口を閉ざしてはいけない。何を根拠に考えているかが分かれば、相手の上流の考え方も分かって、賛同はできなくても譲歩できる(目を瞑れる)ところが出てくるでしょう。

「ああ、この人は、こういう思想なんだな」って。その独自な思想を押し付けられたら、そのときに初めて応戦する。そういう生き方をしています。

宗教関係の人とお話をすると、そのあたりはすごく勉強になると思うよ。


今日は疲れちゃったので、このあたりで、おやすみ。

この記事、続きがあるので、また近いうちに書きます。

読んでくれて、ありがとうございます。

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