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坂本龍一 追悼 YMOに至る道 坂本龍一の仕事 15のプレイリスト

坂本龍一氏が71歳の若さで惜しくも3月28日に逝去した。坂本龍一の名を世に知らしめたのは、もちろんYMOへの加入だ。ではYMO以前の坂本はどんな道をミュージシャンとして歩んで来たのか?
YMO加入以前の非YMO音源から、YMOに至る道筋での仕事を辿る。

THOUSAND KNIVES/千のナイフ(坂本龍一)

坂本龍一がYMOデビュー前に唯一残したソロアルバムが1978年10月発売の『千のナイフ』。録音は1978年4月10日から7月27日と長きに及んだ。
彼にとってのデビュー作『千のナイフ』は初回プレスがわずか400枚で、そのうち200枚が返品されたというから、まったく話題にもならず注目もされていなかった。
ここには坂本龍一に関わるキーマン達が参加していた。
細野晴臣(フィンガーベル)
山下達郎(カスタネット)
渡辺香津美(ギター)
さらには、ジャケットのスタイリングは高橋幸宏

その後、千のナイフはYMOの重要なライブ・レパートリーとなるのだが、それは先の話。(映像は1979年のLAグリークシアターライブ)

そして、翌月の1978年11月25日、デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』がアルファレコードより発売される。

1978年 YMO結成に尻込みした坂本龍一

ファム・ファタール/はらいそ(細野晴臣)

1978年2月19日細野晴臣のソロ「はらいそ」のファム・ファタールのレコーディングで、細野晴臣、坂本龍一、高橋ユキヒロのYMOの3人が初めて揃って演奏することになった。

この日、細野が2人を自宅に招き、コタツを囲んでYMO構想を話し勧誘したと言われた「こたつの夜」。ここにイエロー・マジック・オーケストラが事実上結成されたのである。

勧誘した細野に高橋はすぐに賛同したが、一方の坂本は尻込みした。

その一方で坂本は尻ごみしていた。スタジオ・ミュージシャンやアレンジャーの仕事で多忙を極めていた坂本は、細野の誘いに対して「時間のあるときにやらせてもらいます」と返答した。その真意を坂本が語る。「スタジオ・ミュージシャンやアレンジャーの仕事を優先したかったのだろうと思われるかもしれませんが、まったくそうではなくて、スタジオ・ミュージシャンもアレンジャーもぼくにとってはアルバイトだったんです。ずっとバイト感覚で、自分のことをミュージシャンと自覚したことがなかった。自分の本業は現代音楽というか、自分の作品を作ることだと思っていました。でもスタジオやアレンジの仕事が忙しくなりすぎて、本業としての作曲、自分の作品を作ることが全然できていなかったわけですね。細野さんに声を掛けられて、時間のあるときにやらせてもらいますと言ったのは、バンドもバイトのバリエーションのひとつだと思ったから。それもあってYMOの結成直前に、自分の作品として『千のナイフ』を作ったんです」

細野晴臣と彼らの時代

最後には細野が「僕を踏み台にして世界に出ないか」と言って説得した。
細野は「はっぴいえんど」「テインパンアレー」と日本のロックの中核を成すバンドの中心人物として、また幾多のソロアルバムをリリースし、既に大物として君臨していた。高橋も「サディスティックミカ・バンド」「サディスティックス」のドラマーとして知名度のある存在だったが、バンドに所属した実績のない坂本はまだ何者でもない世間では無名の存在だった。
音楽業界では一目置かれる存在だったが、東京芸大卒と言う肩書のみが目立つ新進気鋭のキーボード奏者として認識される程度の存在だった。

そして1978年7月10日、YMOがレコーディングを開始する。

1976年 細野晴臣との出会い

街、Breakin' Blue / グレイ・スカイズ(大貫妙子)

この2年前1976年、坂本は細野と大貫妙子のレコーディングで初めてお互いを意識し合う。
大貫にとって山下達郎らと結成したシュガー・ベイブを4月に解散後、初のソロアルバムとなるレコーディングである。

「細野が坂本を明確に意識しはじめたのは、ふたりがともにアレンジと演奏で参加した大貫妙子の初のアルバム『グレイ・スカイズ』のレコーディングのときで、これは1976年6月にクラウン・スタジオでおこなわれた。」

細野晴臣と彼らの時代

大貫妙子は語る。
「坂本さんとの出会いが、ものすごく自分にとって大きかったわけですね。まだ彼はそんなに有名ではなかったけれど、とても才能のある人だと思ったし、もう芽生え始めていましたから。その頃、新しいシンセサイザーが出だした頃で、いち早く取り入れて使っていました。随分、勉強熱心だったし、研究熱心だったから。『グレイ・スカイズ』の中でやってるんだけど、彼のアレンジで。坂本くんも、最初は私の仕事を通じて、いろいろ試しながらやってたようなところがある。でも、自分のやりたいものとはすごく近いところを持っていた、最初から。私のメロディーというのは、すごく器楽的なので、どこかクラシックの要素が強く、その点、坂本くんは基本的なところで、よく理解してくれました」

大貫のソロ・アーティストとしてのデビュー作『グレイ・スカイズ』は76年9月にリリースされた。
その中ので編曲を細野晴臣坂本龍一が共同して行っており、これが2人の初の共同作業となる。

そして珍しいインストルメンタルナンバーBreakin' Blue は作曲は大貫妙子、編曲は坂本龍一で、坂本の少しゴスペルっぽいピアノが聴ける。
坂本はPiano,Clavinet, Synthesizer, Electric Organと縦横無尽に弾き、そして山下達郎がElectric Guitarで演奏していた。

1975年 山下達郎との出会い

山下と坂本は意外な組み合わせだが、実は親密な友人関係にあり、それは現在に至るまで続いていた。初期の坂本の音楽活動においては山下は仲間と言うべき存在だった。

日本のポピュラーミュージックを牽引してきた“戦友”は数多いと思いますが、同世代で「友人」と呼べる存在を挙げるとすると。
「坂本(龍一)君かな。彼がYMOのメンバーになる前、70年代半ばから2年半ほど、それこそ毎日のように会っていた時期がありました。数年前、久しぶりにゆっくり話す機会があったんですが、距離感はまったく同じだった」

山下達郎

坂本の音楽活動の原点とも言うべき、山下との出会いは1975年に遡る。

シュガー・ベイブ山下達郎と最初に会ったのは『荻窪ロフト』なんです。あそこができたばっかりのときで、オープニングに荒井由実や夕焼け楽団などいろんな人が出て知り合ったのですが」
と坂本は語る。
ただ山下の記憶では、福生である。
山下:そうそう、福生に。あの時はね、何の時だったのかなぁ。75年なんだよ、それは確かなんだよね。
坂本:大瀧さんのとこにいたんだっけ?
(FMサウンドストリートより)

この1975年、まだ芸大生の坂本は六文銭の及川恒平がアイヌ民話をテーマにしたレコード『海や山の神様たち‐ここでも今でもない話‐』の編曲に起用される。ここで坂本がコーラスに起用したのがシュガー・ベイブの山下達郎と大貫妙子だった。
編曲家坂本龍一の第一歩である。
同作より及川恒平のコロボックル(2002年リリース「Gem」より)

この年の11月には『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』の山下の曲ドリーミングディの録音に加わり、2人の初のセッションとなる。
翌月12月にはシュガー・ベイブのライブではピアノを弾いている。

NIAGARA TRIANGLE Vol.1』大滝詠一山下達郎伊藤銀次によるコラボ作として1976年3月にリリースされる。
この中のFUSSA STRUT Part-1では、事実上の細野と坂本の初セッションが聴ける。

Niagara Moon Strings Again

坂本龍一にとって初の本格的なストリングス・アレンジとなる。1976年2月24日、『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』のプロモーション・フィルム撮影時に収録されたという。

1977年 山下達郎、大貫妙子、伊藤銀次

YMOに至るまでは、意外だが坂本は山下、大貫そして伊藤銀次がいたシュガー・ベイブの面々の裏方として、友人として濃厚な時間を過ごしている。

山下のバックバンドに参加した坂本は、1977年2-4月に録音され、6月25日にリリースされた「Spacy」にも参加している。

その前作山下のデビュー作「サーカスタウン」は1976年の8月から開始され、海外録音なので坂本は参加していないが、デモテープを坂本と山下で制作するなど、濃密な関係だった。
当時の坂本は水島新司の漫画「あぶさん」の主人公に似ていたことから「アブ」と呼ばれていた。

山下と坂本については以下の記事にも詳しい。

1976年夏、渋谷宮益坂上にあったRVCレコードのスタジオで、山下達郎ファースト・ソロ・アルバムのデモ録りが行われました。スタジオ内には山下達郎、教授(まだアブと呼ばれていたころです)の二人。その日作られたヴォーカルとピアノのデモは、ニューヨーク・サイドのプロデューサー、アレンジャーのチャーリー・カレロのもとに届けられました。レコーディングは8月18日ニューヨーク・メディアサウンドで始り、リズム隊の録音が終了したのが24日。別れ際にチャーリー・カレロが真顔で言ったことは驚きでした。何故あのデモで演奏しているピアニストを連れてこなかったのかと。

坂本龍一について知っているニ、三以上の事柄 牧村憲一

都会/サマー・コネクション(大貫妙子)

また同時期の大貫妙子の2作目、1977年5月録音の『SUNSHOWER』の編曲にも坂本は全面的に参加している。
都会では坂本龍一はFender Rhodesとシンセ。細野晴臣がベース、ドラムはスタッフのクリス・パーカー。山下達郎がバックボーカル。

先行シングル曲サマーコネクションはアルバムとはテイクが異なる。編曲は坂本で、Keyboardsも担当。Guitarは鈴木茂、松木恒秀、Bassは田中章弘
、Drumsは村上秀一。

最近では坂本は大貫と同棲関係にあったことも告白している。
時期は不明だが、この時期であろう。当時、坂本に大貫、山下、そして伊藤銀次と言うシュガーベイブの3人でよく卓を囲んで麻雀をしてようだ。

今だから明かしますが、ぼくは20代前半の一時期、大貫さんと暮らしていました。だけど、別の相手ができたぼくは、その部屋を出ていってしまった。本当に酷いことをしてしまいました。その後、大貫さんと親しくしていた母が、龍一がお世話になったと会いに行ったようです。「お母さまが、清楚な真珠のネックレスをくださいました」と、大貫さんから聞きました。

新潮 2022年8月号

こぬか雨/DEADLY DRIVE(伊藤銀次)

坂本は1977年5月発売の伊藤銀次がファースト・ソロ・アルバム『DEADLY DRIVE』にも参加し、ホーンとストリングスのアレンジを担当した。
山下との共作こぬか雨では、坂本はFender Rhodes & Acoustic Pianoで大貫妙子もコーラスで参加。

伊藤銀次は、1975年7月からりりィのバック・バンドである“バイバイ・セッション・バンド”に土屋昌巳の後任で参加。バイバイ・セッション・バンドには1976年1月から坂本龍一が参加、2人はしばらく同僚でもあった。
『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』のレコーディング時も伊藤銀次の幸せにさよならで演奏している。

坂本は76年に東京芸大大学院を修了。
本格的にミュージシャンとして専業となる76〜77年には、シュガーベイブ人脈の中で編曲家、セッションミュージシャンとして濃厚に過ごしつつ、細野晴臣とも運命的な出会いを果たし断続的に共演している。
嗅覚の鋭い細野の脳裏には坂本の存在がしっかりと刻まれたことであろう。

1977年 高橋ユキヒロとの出会い

気分を出してもう一度 /ガーディニア(加藤和彦)

その中で、山下の紹介でもう1人のYMO高橋ユキヒロ(幸宏)と出会う。
1977年、日比谷野音だったと言う。坂本は山下のバックでの出演だった。

裾の切れたジーンズと、ゴム草履と、長髪という身なりの彼は、ケンゾーのジャンプ・スーツを着て、首もとにスカーフを巻いた高橋の姿にショックを覚えた。
「教授とよくつるむようになって、教授のところに行ってはいろんな音楽を聴いていました。ソウル・ミュージックのレコードを聴きながら、バーナード・パーディのドラム、シンプルでいいよね」とかいって。

アブと呼ばれた坂本に「教授」と言う渾名をつけたのは、高橋だ。
そして、生涯に渡り坂本は「教授」と呼ばれる。

そして、同年の1977年10月~11月、高橋の推薦で坂本がストリングス&ホーン編曲を担当した加藤和彦の「ガーディニア(Gardinia)」に、2人揃って演奏でも参加する。

誰かキーボードで良い人はいないかなとトノバンに訊かれて、芸大の大学院生だけど、面白い人がいる、と紹介した記憶がある。

高橋 幸宏. 心に訊く音楽、心に効く音楽

ELASTIC DUMMY/Saravah!(高橋ユキヒロ)

Saravah!』(サラヴァ!)は、高橋幸宏のソロデビュー作品。1978年2月-5に録音されて、高橋ユキヒロ名義で1978年6月に発表された。
共同プロデュースと編曲を担当した坂本龍一は、再発された帯文に「『Saravah!』は若さと友情の賜物」という言葉を寄せている。

まさに、高橋幸宏の最高傑作であるが、編曲家坂本龍一の最高作でもある。
YMO結成の直後から録音が開始され、坂本、高橋、そして細野が揃って演奏した。
インストルメンタルのELASTIC DUMMY(エラスティック・ダミー)は坂本の曲。編曲が坂本龍一高橋ユキヒロ、ドラムが高橋、ベースが細野に鍵盤が坂本。そしてコーラスが山下達郎吉田美奈子という豪華なメンツを従え、坂本のアレンジが冴え渡る。
「”インストでも良いから何か書いてよ”って僕が教授に頼んだんです。“ちょっとファンキーで、もろフュージョンみたいにならないような曲”ってリクエストで」と高橋は語る。
「モロにEW&Fな上に僕の早引きソロ。恥ずかしいねえ。若気の至り。笑 だけど幸宏はとてもこのトラックを喜んで細野さんに聞かせに行った。」と坂本は語る。

『Saravah!』完全再現ライブ。(坂本の間奏ソロは当時の音源)

本作での坂本と高橋の秘話は以下の拙文が詳しい。

1978年 YMOレコーディング開始

全く同時期1978年6月には「PACIFIC」と言う企画ものがリリースされている。南太平洋の海をテーマに、細野晴臣鈴木茂山下達郎が書き下ろし作品を提供した。細野はちょうどYMOの準備中で、担当3曲をすべて坂本龍一、高橋ユキヒロと制作している。

最後の楽園/PACIFIC(作・編曲 細野晴臣)

高橋ユキヒロ Drums、細野晴臣 Bass、坂本龍一 piano

キスカ/PACIFIC(作・編曲 山下達郎)

村上秀一 Drums、高水健司 Bass
坂本龍一 Fender Piano, Korg Polyphonic、大村憲司 Guitar
山下達郎 Background Vocals

コズミック・サーフィン/PACIFIC(細野晴臣)

デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』に収録される「コズミック・サーフィン」のプロトタイプも収録され、いよいよYMOへの道筋が具体化する。パーカッションの浜口茂外也以外はYMOの3人。

そして7月10日、YMOとしてレコーディングを開始する。

また『Saravah!』の録音と同時期の78年3月に『IT'S A POPPIN' TIME』として発売されるライブが「六本木ピット・イン」で開催された。
坂本は山下バンドの一員として、村上秀一(ドラム)、岡沢章(ベース)、松木恒秀(ギター)という一流セッションミュージシャンと演奏。

スタジオワークとは違うもう一つのライブアーティストとしての坂本は、このピットインを主戦場として磨かれて行く。

海と少年/ミニヨン(大貫妙子)

78年9月にリリースされた大貫の「ミニヨン」にも再び参加。5曲の編曲を担当し、海と少年でも、高橋、細野と演奏している。

プールサイド/SOUTH OF THE BORDER(南佳孝)

同年9月に出た南佳孝『SOUTH OF THE BORDER』も全曲編曲を担当南は坂本にジャズやボサノヴァのレコードを参考資料として渡し依頼したが、予想を超えるアレンジになって非常に驚いたと語っている。
南は「アルバム全体の坂本龍一のアレンジは超絶に凄かった」と語っている。
プールサイドにはYMOの3人が参加した。

1978年7月10日より、YMOのレコーディングが開始された。「イエロー・マジック・オーケストラ」という名前もこの時に付けられた。
この時点では「細野晴臣とイエロー・マジック・オーケストラ」という感覚であり、企画性の高いユニットと位置付けられていた。
そしてレコーディングは9月5日に終わる。

YMOデビュー後の話は、坂本龍一追悼特集の続編「YMOブレイク前夜 プレイリスト」に続く。


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