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SF賞の改名について(キャンベル賞、ティプトリー賞)

 ジョン・W・キャンベル・ジュニア新人賞およびジョン・W・キャンベル・ジュニア記念賞、そしてジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞が改名される予定である。本記事はこの件について思ったことをまとめたものだ。(photo by Romain Kamin)

1.なぜ改名されるのか?

 端的にいう。由来となった作家の言動に傷つく人がいるからだ。
 ジョン・W・キャンベル・ジュニア(1910-1971)はファシスト、レイシスト的な言動から、功罪の罪のほうがあまりに大きく、賞の冠としてふさわしくないと見なされた。今年キャンベル新人賞を受賞したジャネット・ンが受賞スピーチ動画)で訴えたことで大いに話題になり改名決定に至ったが、ンによれば賞名にふさわしくないという問題提起は以前からあり、署名活動も行われていたという。
 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア(1915-1987)のほうは、要介護の夫を殺して自分も死んだ最期が問題視されている。決行より何年も前に夫婦間で自殺の合意はできていたとはいうものの、その日の夫の意志を証明するものはない。問題となっているのは心中=自殺の是非ではなく、殺人ではないとは証明不可能だということだ。これは実際に介護を必要としている立場の人たちから上がった声だ。なお改名主張者の側からは、以前からWisCon(ティプトリー賞の授賞が行われるコンベンション)に意見していたものの取り合われなかった、との批判が上がっている。ティプトリー賞の運営団体は当初は改名の予定はないと発表し、反論もしていたが、最新のスタンスとしてはこのままの名称では続けられないとしている

2. なぜ改名する方向に次々と舵が切られるのか?

 私はこう考えている:運営団体が、現在そしてこれからコミュニティに来る人に対して、ここが安全であり、あなたが問題だと考えたことを決して軽視しないと宣言するためだと。その姿勢を見せなければ新しい人たち、今までいなかった人たちはコミュニティに留まってくれない。そのために信頼できる場所に見えるようにしなければならない。改名する動機はこのような論理だと思っている。
 キャンベル新人賞、キャンベル記念賞についてはもう変更が決断されている。ティプトリー賞も「現在の名前では続けられない」ので、1か月以内に続報を出すと宣言している。問題をうやむやにせず早急に決断する姿勢は、いじめやハラスメントに対してアメリカ社会がゼロ・トレランスに基づいて対応してきた文化ゆえにだ。妥協せず問題を根絶し、皆が安全な場を維持するために被害者を待たせない。「そんな早く決めてしまうのか、熟考したのか」というニュアンスの日本語の意見を目にしたが、日本とは違うのだ。(昨年、映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズを監督していたジェームズ・ガンが即解任され、9ヶ月後に監督として復活したのは記憶に新しい。)

 ところで、次の項に進む前に少し考えていただきたい。ただし、被害について思い出してあまりに苦しくなるようだったら途中で考えるのをやめてください。
 ・あなたは人種差別を受けたことがありますか?
 ・あなたは性別、あるいはセクシュアリティによる差別を受けたことがありますか?
 ・あなたは他人の介助なしでは生きられない状況になったことがありますか?
 ・キャンベルが存命中の1950年代前後から批判されていたり、避けられていたことを知っていますか?(現在の観点で過去を批判できるのか? 昔だったらキャンベルも"普通"だったのでは?という疑問が頻出しているので)
 ・スピーチや運営団体の声明の原文を読みましたか? 部分的に読んで反射で考えたり、意見を書いたりしていませんか?
 意見を述べるのはもちろん自由だ。しかし私の感情的な部分は、改名に対する意見の中に、被害者の痛みに対してあまりに他人事な発言があることにしばしば波立っている。

3. 時代によって作家の評価が変わるの?

 変わる。そして賞に名前を冠するかどうかは業績評価とは別だ。看板にふさわしいかどうかという観点が出てくる。その看板で人が来るのか?
 例えば、キャンベル新人賞は世界SF大会の参加者に選ばれた最優秀新人賞という存在だ。ここにキャンベルの名前が冠されていることは、キャンベルの言動が大した問題ではないというメッセージになりかねない。このままキャンベルの名を掲げつづけることは、これからのSFの振興にとって有益だろうか? 尊重するべきは、現在とこれからの作家や読者ではないか? 賞の名前は問題を認識しており、かつての偏向・抑圧はやめたという姿勢を見せるショーケースではないか? 私はそう理解しているし、それに賛同する。

4. 人と作品(功績)は別ではないのか? 

 ジョン・W・キャンベル・ジュニアは、編集方針や雑誌の編集後記の内容が本人の思想と直結していたので不可分だ。そしてキャンベル作品の愛好者であり、キャンベル初の伝記かつ黄金時代のSFを研究したノンフィクションAstounding: John W. Campbell, Isaac Asimov, Robert A. Heinlein, L. Ron Hubbard, and the Golden Age of Science Fictionを執筆したアレック・ネヴァラ=リーはこう述べている。「彼は当時の価値観を反映しているだけだったと言っている人々がいるが、私はそれが実際真実とは思いません。その時代の典型以上に人種差別主義者だったと考えています。」(“I’ve heard people say he reflected the values of his time, which I don’t think is actually true,” Nevala-Lee says. “I think he was more racist in some ways than was typical of that era.”)

 キャンベル新人賞をアスタウンディング賞に変えることに決めたのは、まさに功績を本人の負の部分と切り離そうという試みだろう。(ただしこの改名が妥当かどうかはまた意見が分かれている。)
 一方のティプトリー・ジュニア賞について。運営委員会の最初の声明にはティプトリーはアリス・シェルドンの筆名=創作物ではという反論が載っていた。ティプトリーの名はアリス・シェルドンの行動とは切り離して考えるべきでは、という意見である。(Dell Publishing moved the focus from creator to creation, honoring the publication (Astounding Science Fiction magazine) that he edited and whose reach and influence far exceeded his grasp. The Tiptree Award is already named after Alice Sheldon’s creation.

 私は妥当な論のように思えた。しかし今、耳を傾けるべきは、賞がティプトリー・ジュニアの名を冠していることに苦痛を感じる人の意見だ。外野が腑に落ちるかどうかは問題ではない。という判断は私自身、何人もの言葉を尽くした発言を読んだ上で納得したことだ。
 そして、改名を主張する人たちはなにも作家の功績を剥奪したり、本を読めなくしようとしているわけではない。スピーチがキャンベル新人賞改名のきっかけになったジャネット・ンの補足ツイートを見てほしい。「誰かの読書嗜好を止めようとはしていない」「すべて焼き払うべきだとは言っていない」「ただ、あなたがもし頭の中にSF像を持っていて、もし自分自身にそのSF像がどこからきているのか問いかけたことがなければ、今こそ問いかけるときでしょう」

 今までOKだったのを引っ込めるなんてとんでもない!という前に、それが誰にとってOKだったのかを考えてみてほしい。

5. 改名は歴史の修正に当たらないか? 一度、悪とレッテルを張られてしまった作家は歴史から消されない? 功罪を分けることはできないのか?

 改名の悪影響を懸念する人たちが散見される。しかし賞から名前が外れるだけで、その人が忘れられたり、その人の功績が消えてなくなるだろうか。私はそんな吹けば飛ぶほど軽いものだとは思わない。功罪の罪に目をつぶるほうがむしろ歴史修正ではないだろうか?
 先行する類似例を挙げよう。2010年代初頭に、世界幻想文学大賞のトロフィーがH・P・ラヴクラフト像であることに疑問が上がった。彼が人種差別者であるのは明らかであるからだ。2011年、1975年から続く世界幻想文学大賞で長編部門を受賞した史上初の黒人となったンネディ・オコラフォアは友人からラヴクラフトの人種差別について知らされたことをきっかけにFacebookで本件について他の作家たちに意見を求めた。チャイナ・ミエヴィルやスティーヴ・バーマンらだ。ジェフ・ヴァンダミアもその一人(彼自身によれば、彼は直接、運営委員会に進言したという。)

 2014年には作家ダニエル・ホセ・オールダーが署名を集め、2500人のサインを得た。これから栄誉を贈る作家たちへの礼儀として、ラヴクラフト像から別のデザインに変えるべきだという意見は認められ、2017年にトロフィーは変わった。
 さて、この変化はクトゥルー神話ものの隆盛に冷や水を浴びせただろうか? 私はそうは体感していない。ヴィクター・ラヴァルの中篇小説The Ballad of Black Tom (2016)はラヴクラフトの「レッド・フックの恐怖」をアフリカン・アメリカン側の視点で描いた凄絶な傑作である。冒頭にはこのように書いてある。"For H.P.Lovecraft, with all my conflicted feelings."  著者のヴィクター・ラヴァルはラヴクラフトは子供時代の四大偏愛作家の一人だったと告白している。残り3人はスティーヴン・キング、クライヴ・バーカー、シャーリイ・ジャクスン。しかし一方で、ラヴクラフトの人種差別思想は明らかに小説に影を落としていると感じ、ゆえに自らリミックスを試みたのだと。愛と批判は両立する一例である。本作はブラム・ストーカー賞、ネビュラ賞、英国幻想文学大賞、シオドア・スタージョン賞、ヒューゴー賞、世界幻想文学大賞の候補になった。
 ジョン・W・キャンベルの「影が行く」も(原作よりむしろ翻案映画『遊星よりの物体X』/『遊星からの物体X』を経由してそうであるが、ともあれ)ピーター・ワッツ「遊星からの物体Xの回想」やサム・J・ミラー「髭を生やした物体X」でそれぞれ二作家の関心テーマを核に再構成され、現代の読者のもとに届いている。いわんやティプトリーをや!

6. 苦痛を受けた側に寄り添ってほしい

 この項は基本的に2についての繰り返しで、個人の意見である。7の項ではスタージョンとディレイニーのことを書く。
 あなたが「Aは問題(苦痛)だという意見があるが、自分は問題だとは思わない」というメッセージを出すとき、それが問題だと感じた人の口をふさいでしまう。「いやいや、それはやっぱり問題だ!」と反論してくれる人がいたならまだいい。実際のところ、声を上げることに恐怖して、あるいはあきらめて口をつぐんでしまう人も多いのではないか。こうしてコミュニティ全体が見限られたり、信頼を失ったりする。
 棘が刺さったことがない人でも痛みを想像することはできるはずだ。だがあいにく刺さらないと痛みが想定できない人はいる。もちろん、同じ棘が刺さった当事者だったとしても人によって感じ方はそれぞれだ。ある棘が刺さった人が、別の棘の痛みには鈍感ということもよくある。私だってそうだろう。
 誰しも気づかずに他人の足を踏んでしまうことはある。だが「まあ踏むこともあるよね、仕方ないね、踏まれたほうも注意が足りなかったんじゃない?」ではなく、謝って再発防止を検討してくれたほうが魅力的に見える。この社会に蔓延する自己責任論と「自分だって我慢しているんだからそっちも我慢しろ」にはうんざりだ。
 あなたが意見をいうのは自由だが、思ったことを率直に言ったことがもたらす効果について考えてほしい。この言葉が響くとは微塵も期待していないが、改めて言っておく。
 少し本筋とずれるがーー例えば「昔なんてみんなこういう感覚だった。これが女性差別にあたるとか言っていたら、黄金期のSFなんて読めないよ」という意見については「実際SFを読むのに苦痛を感じている人もいます」としか答えようがない。今年の3月、作家のアダム・ロバーツがTwitterでアーサー・C・クラークの『宇宙のランデヴー』の一節を引用し、「これはヒューゴー、ネビュラ両賞および、英国SF協会賞、ジョン・W・キャンベル記念賞、ローカス賞を受賞した長篇小説です」とだけコメントした。女性は船に乗せるべきではないとのくだりである。ちなみにロバーツは初めて読んだ十代のときはまったく印象に残らず、再読するまでこんな部分があったことは忘れていたとだけ付け加え、クラークをどう取り扱うべきかとは一言も言っていない。このツイートのリプライ欄には「読んだときショックで叫んだ」「初めて読んだ十代のとき、他の何より強く印象に残った部分だ」「これだから、うかうかと黄金期SFは読めない」と数多くの声が寄せられた。あなたはこれについてどう思いますか?
 何気ない一部分によって傷ついたり、げんなりする読者はいる。そこに必要なのは「昔の価値観で傷つくなんて」「歴史的価値を考えて読まないと」という言葉では絶対になく、もちろんその部分を削除することでもない。どう対策するかは一緒に考えるしかない。たとえば注意喚起を出すとか。しかし「過敏すぎる」「それくらい我慢すべきだ」と言い返すのは無益だし、無神経である。

7. 時代によって受け取り方は変わる⇒時代と共に変わってもいい

 シオドア・スタージョンの『ヴィーナス・プラスX』あとがきを引用する。1960年6月のものだ。(大久保譲・訳, 国書刊行会, 2005)

p.293-
 それにしても、ホモ・サピエンスというのはおかしな連中だ。たった今、私はある統計に目を通していた。それによれば、合衆国市民を対象にしたアンケートで、あらゆる人間が平等だと思うかという問いに対して、六十一パーセントの人がイエスと答えている。こんどは同じ人々を対象に、黒人は白人と平等だと思うかと質問したところ、イエスと答えたのはたったの四パーセントだった。舌の根も乾かぬうちに、しかもギアを変える音ひとつ立てないで! 別の例を挙げてみよう。かつて私は、妻に対して不実をはたらく男を主人公に真に迫った短篇を書いた。だが、誰も私を非難したりはしなかった。それから今度は、夫に対して不実をはたらく女性を描いた物語を書いた。やはり、誰一人私の妻に非難を浴びせたりはしなかった。しかし! 同性愛者に共感するような作品を発表した途端、我が家の郵便受けは、悪臭に浸された葉書や、紫のインクと緑の大文字でかかれた手紙で溢れかえった。

 かくも批判が寄せられた作品は、翻訳者の大久保氏によるあとがきで「たとえ世界を失っても」(1953)だろうと言われている。同性愛を肯定的に書いた最初期のSFとして知られる。この少し後に続く文章も読んでほしい。

 『ヴィーナス・プラスX』において私が目指したのは、(a)上品な本を書く、(b)セックスについての本を書く、ということだった。そうした試みでは、宗教の問題に足を踏み入れないわけにはいかない。同様に、読者のうちの何人かの足を踏みつけてしまうことも避けがたい。結果としてその読者を傷つけてしまったとしたら、苦痛に関しては申し訳なく思う。だが、私自身の足はしっかり権利章典の二つの項目を踏みしめている。もし読者が私を批判するような本を持っているなら、私はそれを注意深く読むことを約束する。そして、その本を燃やさないことも。(太字は傍点)

 人の足を踏むことを確信しつつ、自らの中でポリシーは持ち、批判は必ず受け入れると宣言するーー私は彼の姿勢を尊敬する。正直、人の足を踏むことを想定していない、批判をまったく受け入れない、ポリシーはないという人はいくらでもいる。66年前に彼を焼いた批判の炎のことも思う。現代のSNSほど短期間に集中砲火を浴びはしないかもしれない。しかし66年前だって批判に焼かれはしたのだ。

 このシオドア・スタージョンの「たとえ世界を失っても」に、12歳のサミュエル・R・ディレイニーは涙した。ディレイニーがSFというジャンルに傾倒した動機のひとつだったのではないだろうか。彼によれば「たとえ世界を失っても」で、スタージョンはあわやSF業界から追放されるところだったという。原稿を受け取った編集者のひとりはあちこちに電話をかけ、こんなインモラルなものを書く作家は二度と出版してはならないと言って回ったそうだ。

https://lareviewofbooks.org/article/stonewall-before-and-after-an-interview-with-samuel-r-delany

I broke out crying when I read it at age 12. And I just thought, that is the most wonderful story I’ve ever read. There’s hope.

 多くの読者には受け入れられなかった一方、この短編はディレイニーの希望(よりどころ)になった。
 以下の引用は、天使のような両性の種族が登場するスタージョンの短編「反対側のセックス」(1952)の1シーンである。『一角獣・多角獣 (異色作家短篇集) 』(小笠原豊樹・訳, 早川書房, 2005)より。

「なぜあなた方はいつも隠れていらっしゃるの」と、バジーがとつぜん訊ねた。「どうして?」バジーの両手はテーブルの端のところで、熱烈に組み合わされていた。「あなた方はそんなに美しいのに!」
「隠れなければならないのです」と、相手はおだやかに言った。「今はまだ、あなた方は、すこしでも異なったものを……殺すからです」

 発表年は「たとえ世界を失っても」で批判に晒される前年。つまりスタージョンは燃やされることを知りながら、更にもう一歩踏み出したのだ。しかし、その"前進"は日本には長らく届かなかった。そのあたりのことは『20世紀SF ②1950年代 初めの終わり』(河出文庫)にも書いてあるが、短編集『一角獣・多角獣』の邦訳からは原書から数作が抜かれており「たとえ世界を失っても」もそのひとつなのである。最初に『一角獣・多角獣』が邦訳された1964年から12年後、ようやくSFマガジンに翻訳が掲載され、また長らく埋もれた。人や時代によってフィットする作品は異なる。何が批判されるか、評価されるかは絶対的ではない。だが、あえて意地悪な言い方をするなら、スタージョンの前進、ディレイニーの希望は、日本には長年届かなかったのだ。

 サミュエル・R・ディレイニーが1998年に発表した文章「レイシズムとSF」によれば、1960年代後半にジョン・W・キャンベルのところに長篇『ノヴァ』の原稿を送ったところ、エージェントに対し「うちの読者は黒人のメインキャラクターを受け付けられないと思います」とボツを知らされたという。(読者が問題であって、キャンベルひとりに責任を負わせるのは可哀そうでは?と思われる方もいるかもしれないが、キャンベルは60年代初頭に白人作家マック・レナルズが書いた黒人が主人公の小説は出版している

 かつては評価されなかった作品や埋もれてしまった作品に脚光を当てる行いが「有り」なように、かつて評価された作家に一歩後ろに下がってもらうこともまた「有り」ではないか。賞はもらって嬉しく、みんなが憧れるものであることが一番だ。賞は現在の、そしてこれからの人々のためのものだ。私は英語圏SFに新しく多様な人が集うコミュニティとして繁栄して欲しい。ゆえに改名という決断を支持する。

 余談1:賞の名前を改めるなら、別の賞として立ち上げ直すべき/賞の回数をリセットすべきだという意見を見かけたが、私にはそのロジックがよくわからなかった。賞とその運営団体の理念が変わっていないなら、名前がどうなろうと軸はぶれていないのではないか。例えば女性が書いた小説に贈られる英国のWomen's Prize for Fictionはオレンジ賞という名前だったが、オレンジ社がスポンサーを降りたため、2014-2017年の間はベイリーズがスポンサーを務めたのでBaileys Women's Prize for Fictionになり、ベイリーズが降りて以降は複数社がスポンサーにつくことになり、スポンサー名は使わないことになった。

 余談2:キャンベルの言動をまとめるかどうか、ちょっと迷っている。

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