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I AM ALL YOURS

”ある夏の暑い日。
道で蝉が死んでいた。
仰向けのまま生涯を終えようとしていた。
僅かな力で必死に生きようともがいていた。
笑えた。でも、羨ましかった。
自由に生きて、裸で寝転んで、叫んで、死ぬ。
そんな風に生きてみたかった。
美しい景色。
汗が滴る。目が痛い。立ち漕ぎをした。息が切れる。
見殺しにした。助けなんて来ない。
必死に逃げた。何かに追われている気がした。自転車の車輪が廻る。誰もいなくて、逃げた。声が聞こえなくて、逃げた。何も見えなくて、逃げた。どこから来たのか分からない罪悪感と恐怖心から逃げたんだ。転んで膝から血が溢れ出した。なぜか安心した。痛くなかったけど、痛かった。
いつしか陽が落ちて、紺色のベールが空を包んでいく。キラキラと輝く無数の星達が姿を現す。怖かった。恐ろしかった。昔教えてもらった話が本当なら、この世界は死で出来ている。逃げても逃げても逃げられない。赤くて、冷たい感覚。子供の頃、高熱を出した時に見る恐ろしい悪夢。大きすぎて、倒れてきそうな、溶け出してきそうな星々。貴方を見つけられなかった。見つけられる、そう信じていたのに。心が剥けて、離れていく。
汗が滴る。目が痛い。立ち漕ぎをした。息が切れる。
見殺しにされた。助けなんて来ない。
「人ってなんで生きてんだろうね」
気がついたら言葉にしていた。無意識だった。無意識に意識的に言葉を紡いでいた。私が私でなくなる前に、誰かに気づいて欲しかったのかもしれない。名前も知らない出会ったばかりの君に。君は怖くなかった。君の目は嘘みたいに澄んでいた。でも怖くなかった。澄んでいるように見えて、薄汚れていたから。私みたいに汚れていたから。
いつからだろう。こんな風に人が透けて見えたのは。
あの夜からなのか。はたまた今夜。
名も知らない君を目の前にして、私を曝け出した時、それはすなわち自分の人生を、証拠を、尊厳を、信仰を、火で炙って食べたようなもの。
あの日出会った蝉のように、私は生きていられるのだろうか。
しあわせ ────
人ってなんで生きてんだろうね。
裸のまま寝転んだ彼女は、汗ばみ、濡れた長い髪を指で弄って言った。
君ってなんで生きてんの?この世に産み落とされたからじゃない?海って怖いよね。空も。雲も。花も。ねえ、君は何に怯えてるの。ねえ、それってさ君はなんで生きてんのって言ってんのと同じだよ。君をぐちゃぐちゃにしてしまいたい。良いよ。怖くないの。怖くないよ、この世にある本当の恐ろしさをまだ君は知らないんだよ。
彼女の眼は黒翡翠みたいに黒く染まっていた。
君さ、胎盤の中にいた時のこと覚えてる?覚えてない。生ぬるい羊水にぷかぷか浮いてた時のこと。狭くて動けない。何も聞こえない。微かに見えるのは血管と珊瑚礁みたいな絨毛だけ。怖いね。
彼女は、そのまま立ち上がって東京を一望できる大きな窓から、夜の街並みを見下ろした。
怖い、ね。今日はなんか一段と綺麗だね、東京。君といるからかな。そうかな。私は怖い。高い所苦手なんだね。別に。じゃあなんで怖いの。綺麗すぎるから。
そう言って、振り返った彼女の顔は暗くてよく分からなかった。
綺麗すぎるものは怖い。海も、空も雲も花も。この景色も。でも貴方は怖くないよ。だって汚れてるもん。え?私と同じ。汚れてる。私、人が透けて見えるの。
彼女にピントが合わない。ゆっくりと手を上げる彼女。仰々しい色を放つ照明に手を翳す。
どくどく波打ってるわけ、血管が。ほら。どくどく
僕の手に触れた彼女の手は驚くほどに冷たかった。
僕は泳いでいる。深い水の中にいる。息が少しずつできなくなり、苦しい。頭に響く脈の音。血が、血が蠢いている。
体を伝って、君に伝う。意識が朦朧とし始める。脳みそが機能しない。
君はさらに深海に僕を誘う。抗いたい。抗えない。快楽に堕ちていくようで僕は僕を捨てた。君は君をもうとっくに捨てている。
心臓を受け渡した。臓器売買。血液はまだ蠢いている。
僕の身体はただの肉片と化しているのに。ただの肉片は、ゴミと化すか、食べ物と化すか、はたまた消え失せるか。
僕。君。誰。貴方。呼吸。忘却。煩雑。恐怖。
吐き気がする。胃の中は空っぽ。酸の海に溺れたい。
皮膚の感触。もがいた証。止まらない欲情。疼く傷跡。紺碧の海。広大な空。真っ白な雲。鮮やかな色の花々。
一度きりの賭けに僕は見事に敗北した。
生きることは怖い。
見ることも。感じることも。聞くことも。嗅ぐことも。
今日もどこかで命が芽吹き、それ以上の命が朽ちてゆく。僕はそんな世界で快楽を感じ、欲情の赴くままに溺れている。死に近付いているのか。はたまた遠のいているのか。命を惜しみなく使う方法を君に教えてもらった。君の手はやはり冷たかったが、僕の手が温かいとも思えない。生ぬるい感触。
都会の空には星が存在しない。それが唯一の救いだと君は笑った。綺麗な世界。汚い世界。星は命。朽ちた命の数。星が綺麗だと言う。朽ちた命が綺麗だと言う。薄汚れた世界で生きる僕らは何者なのか。爪の間に挟まった薄皮を眺めながら、僕は君に問うた。

僕はなんで生きてんだろうね ──── ”
「I AM ALL YOURS」原作:NAGISA 英語訳:Sean.K

「何読んでんの」
「貸してくれたやつじゃんよ」
「はーい」
気の抜けた返事。興味がなさそうな返事。

「これ、全然分からんわ」
「ふーん」
はたまた気の抜けた返事。興味が絶対ない返事。

「英語だし、意味分かんない。でもやたらと日本が出てくんだよね」
「意味わかってんじゃん」
「いや、TOKYOくらいは分かるでしょ」
「これ原作者日本人だから。それを英訳したやつだから」
「へ〜」
「気の抜けた返事するな!」

本が大好きな彼女は、顔を真っ赤にして、単純に怒った。
いや、お前に言われたくねえわ。と思ったけど口に出すのはやめておく。

「んで?どうだったのさ感想は」
「だからー分かんなかった!難しすぎて!」
「はあ〜?もういっつもそれで逃げんの」
「いや、今回はレベル高いって。やっぱナギは凄えー」
「嬉しくない」
「でも、俺一箇所だけ引っかかったポイントがあるんよ、まだ読み途中だけどね」
「え!どこ!」
喜怒哀楽が3秒ごとに変わる人間を俺はナギ以外に知らない。
子犬のような無邪気さに思わず抱きしめたくなる。
「この本さ、登場人物のセリフに鉤括弧無いじゃん」
「うおん!無いね!」
身を乗り出すナギ。
「そう、無い!…無いよな!」
「え、それだけ?」
「そ、それだけ」
ナギはブンブン振っていた尻尾を垂らして、げんなりとした。
「いいとこまでいくんだよなーいつも。それがまた腹立つ」
「マジごめん。俺の頭じゃ分かんないのよ。ナギだから分かるんだよ」
「じゃあ、ナギのこともよく分かんないんじゃない?」
「え?」
「本当のナギ知ってる?見たことある?」
「今のナギは嘘なの?」
彼女は返事をしない代わりに、とびっきりの笑顔を見せた。
「正解はね、鉤括弧があるセリフが一箇所だけある。でしたー!」
彼女が何事も無かったかのように話を続けたから、俺も何事も無かったかのように話を続けた。
「え!嘘!どこ?」
「314ページの34行目」
「即答じゃん」
俺はナギに言われるがまま、ページを捲った。
「『人って何で生きてんだろうね』…ここか」
「そう、凄い言葉だよね。この2人はなんかお互いに探り合っているような、求め合っているような、惹かれるべくして惹かれたようなそんな感じがするんだよね」
「普通に原作読みたいわ、もう日本語読ませて」
「あ、そっかごめん」
「なんかアダムとイヴっぽいというか…ロミオでは無いな」
「ほう」
「この言葉この本に何回も出てくるんだけど、ここだけなんだよね。鉤括弧ついてるの」
「へぇ…」
「ふふ…今のは本物のへぇ…だね」
「なんか意味あるよな絶対と思って、作者の人ってこういうところに意味持たせるもんな普通」
ナギが嬉しそうにこちらを見ている。
たたかいますか?仲間にしますか?と聞かれれば、僕は迷わずずっと一緒にいますと答えるだろう。
「I'm All Yours!」
急にそう叫んだ彼女は僕の胸に飛び込んできた。
彼女の心臓の鼓動が全身に伝わる。
「アイムオーーーールユアー…ズ」
顔を埋めながら本のタイトルを叫ぶナギ。
俺も負けじとナギの背中に顔を埋めて叫んだ。
「I'm All Yourrrrrrrrs!!!!!」
「ふははははっ、こしょばいーーー!」

俺はナギのものだし、ナギは俺のものだ。
俺は本当のナギを知っているかもしれないし、知らないかもしれない。
ナギも本当の俺を知っているかもしれないし、知らないかもしれない。
でもいいんだ。それで。
楽しい。この瞬間がとても楽しい。
私は生きてるんだ!と言わんばかりに胸いっぱいに息を吸って叫び、
大きく口を開けて笑う彼女を見て、俺は人が生きる意味が分かった気がした。

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