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でも、でも、でも、と煮詰まる心。

 ちょっと素晴らしいレターを読んでしまった。Xのおすすめか何かで流れてきてたまたま目に止まったのだけれど、この方がどんな方で何をしているのか、何も知らないけれど、一気に好きに(ファンに)なってしまった。ポッドキャストとかしてらっしゃらないかしら。追いたいです。武田俊さんという方らしい。

 Xには、「子どもと配偶者が寝たあとの昨日の深夜、堰を切ったようようにことばがあふれてきたので書きました」と記事へのリンクが載っていた。
 子どもと妻が寝た後の、正真正銘の「ひとり時間」。私もその時間の尊さと背徳感を知っている。せっかくの余白時間に何かしなきゃと焦ったり、禁じている夜中のアイスに手がつい伸びたり、積読はたくさんあるのにそれらではなく脳を動かさなくても読めるネット漫画を読み流したりして時間を溶かし、寝るのが勿体無く感じて、夜更かししてしまう、あの時間。
 その時間にあふれた言葉という文句に、指がスルスルと動きリンクをタップする。そしてうつの痛みがリアルに書かれていて、まさに同じ境遇のためどんどん興味が惹かれる。記事が途中で途切れる。「この記事は会員登録をすれば無料で続きを読めます」の文字にも手は止まらず、シュパパと会員登録をし続きを読んだ。

 私も子どもを育てていて、うつの波があって、深夜のひとり時間は尊い。パレスチナの情勢に絶望的な悲しみと怒りを覚え、社会運動の言葉に自分の不甲斐なさを自覚して落ち込み、子どもの笑顔を見て抱きしめると、パレスチナの子どもを思う。

 ぽっこりお腹を膨らませた小さい我が子は、ほっぺただってふくふくだ。ぽっこりお腹とふくふくほっぺが、大人の暴力によってバラバラになって血だらけになって痛くて怖くて死んじゃって、もう二度と笑えないなんて、そんなことが今、我が子と同じ、子どもに起きているなんてと胸が張り裂ける。

 今日はこの記事を読んで、パレスチナにおける集団虐殺について、そしてそれを止めるための社会運動で用いられる言葉について考えた。

「今行動をとらないことは、ジェノサイドを見逃すことで、それに加担しているのと同じことだ」という強い扇動の言葉。私もこういう言葉に突き動かされていたし、同じような言葉を使ったことがある。めっちゃある。でも、ずっと違和感があったし、怖かった。今でも怖くて、罪悪感と正義感と良心と羞恥心とが混ざりあってもうどれがどれだかわからなくなり、境目は溶けて煮詰まってドロドロと液状化している。
 そういう扇動の言葉は見たものの心の自由を奪う。あまりに強くて、間違っていなくて、正しくて、何も言えなくなってしまう。選択の余地はない、自分の事情なんて考慮されずジェノサイド加担者になってしまうから、強いプレッシャーになり、もしかしたら(虐殺を止めるための正しい)行動を生むこともできるのかもしれない。でも、そうだけど、でも、という気持ち。

 でも。でも。でも。
 ドロドロになった心を煮詰めたスープの中に浮かんでは弾けて消えるあぶくのような「でも」。

 ただ、事実として、私たちは現在の社会運動の参加の有無に関わらず、「加害者」である。この問題に目を向けるということは、誰かに強い言葉で言われようが言われまいが、どちらにせよ、自分の加害性と向き合うことだと思う。

 そしてもう一つの事実として、プロテストには力がある。国際社会の圧はICJに届くし、不買運動を始めとしたBDS運動は様々な企業の体制を変えさせ、デモや署名はイスラエル軍事企業との協業覚書を打ち切りにさせた。私たちの声に力があるならば、私たちの沈黙にも力があるというのは、脅しや扇動だけではなく事実だと、思う。…ブクブクブク。

 一刻を許さない状況である。我が子と同じ、ぽっこりお腹にふくふくほっぺたちが、殺されている。爆撃によって身体から引きちぎられた頭部のふくふくのほっぺたは、母親が愛おしくてたまらず毎晩キスをしていた部位だったのに。

 こんな状況で正気を保ちながら、誰かを慮りながら、正しくヘルシーな社会運動なんてあり得ない。だから強い言葉を用いる人も、それに鼓舞される人も、それに恐怖を感じる人も、できることから始める人も、逃げたくなる人も、本を読む人も、情報を遮断しちゃう人も、みんな、こんな狂った殺戮を前にした人間として、正常な反応なんだと思う。

 でも、とあぶくがブクブクしているスープを、今日も私は煮詰めている。


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