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天皇裕仁の敗戦前後史「生き神様:軍国主義の大元帥陛下」から「象徴天皇:平和を愛する生物学者」への変身

 ※-0 天皇裕仁が「敗戦前後史」を,「生き神様:軍国主義の大元帥陛下」から「象徴天皇:平和を愛する生物学者」へと変身してきたその生きざまを,客体視して批判的に議論する必要性

 昭和天皇裕仁は第2次世界大戦終了後,「戦犯指定を逃れえた立場」を与えられるなかで,敗戦後の政治過程史において「彼なりに発揮してきた処世術」を記録してきた。その言動などから「政治的含意」として読みとれる人間天皇としての「本音と本性」を分析してみる。

 

 ※-1 侍従長が語った天皇裕仁の敗戦体験

 藤田尚徳『侍従長の回想』が講談社学術文庫となって,2015年3月に復刻発売されていた(本文は目次も含めて 226頁)。本書の初版は1987年5月に中央公論新社から発行されていた。

 a) 同書の内容説明は,こうである。 

 敗戦必至の状況に懊悩する昭和天皇。空襲,重臣間の対立,ソ連参戦,原爆投下……。終戦の決断に至るまでになにがあったのか。

 玉音放送,マッカーサーとの会見,そして退位論をめぐって君主として示した姿とは。サイパン陥落後の昭和19〔1944〕年8月から極東国際軍事裁判が開廷する昭和21〔1946〕年5月まで側近に侍した海軍軍人の稀有の証言。

 著者の藤田尚徳は海軍大将であり,サイパン陥落後の1944年8月から極東国際軍事裁判が開廷する1946年5月まで侍従長の任にあった。「聖断」に至るまでの天皇の懊悩,重臣たちの動き,玉音放送に至るまでなど,その回想は天皇の側近に侍していた人物でなければしりえない秘話に満ちている。

 なかでもクライマックスは1945〔昭和20〕年9月27日,虎の門の米国大使館における昭和天皇とマッカーサーとの会見である。

 2014年における近代史学界最大の話題は『昭和天皇実録』の完成でした。天皇裕仁の一生と「昭和」という時代をいかに描き,評価するか……。この点において『実録』編纂者の苦心は並々ならぬものがあったと思われる。

 同時に,これを読む側も眼光紙背に徹する必要がある。そのためにも『実録』の資料ともなった本書『侍従長の回想』はきわめて重要なものである。多くの読者の目に触れることを願いたい。

 b) 同書の目次も紹介しておく。

  空襲下の四方拝  酒と侍従  天皇,軍を叱る
   和平に動く吉田茂氏  天皇の終戦秘密工作

  陽の目を見た近衛上奏文  御意志に遠い重臣の奏上
   皇居炎上す  意中の人,鈴木首班  挫折した近衛特使

  聖断下る  再び聖断を仰ぐ  録音盤争奪事件
   慟哭,二重橋前  天皇,マ元帥会談への苦慮

  近衛公自殺への私見  異例,天皇の心境吐露
   人間宣言と退位をめぐって

『侍従長の回想』目次

 c) 著者紹介 

 藤田尚徳[フジタ・ヒサノリ]は明治~昭和時代前期の軍人。1880年東京生まれ,海軍兵学校(29期)卒業,海軍大学校卒業。海軍省人事局長,艦政本部長,海軍次官,呉鎮守府司令長官など要職を歴任し,1936年に大将,1939年に予備役編入。1943年に明治神宮宮司,1944~1946年に侍従長として終戦前後の昭和天皇の側近に侍す。1970年没。

 藤田尚徳の画像2点-軍人時代と明治神宮宮司時代-

目つきが鋭い
こちらはおとなしい目線に映る


 ※-2 藤田尚徳『侍従長の回想』「録音盤争奪事件」からの引用

 まず,本書のこういう段落を引用する。

 --やがて夜は白々と明けて8月15日。真夏の夜明けの訪れは早い。私は侍従室で陛下の御召しを待っていた。侍従たちが陛下の御様子を知らせてくれる。陛下は軍曹のままで,時に庭に出たり,自室に座られたりして夜を過ごされ,一睡のなさらなかったらしい。

 やがて御召しによって御文庫書見室に出た。陛下の後にはリンカーンとダーウィンの像があった。朝の陽が2人の偉人像を広く照らしていた。陛下は深く椅子によられている。連日連夜の御辛苦から顔の色もすぐれない。「はっ」とするほど陛下の表情には力がなかった(藤田尚徳『侍従長の回想』講談社,2015年,152-153頁)。

 この1945年8月15日における天皇裕仁描写は,このとき侍従長であった藤田尚德がじかに接した「彼の姿」を記述していた。本書,藤田尚徳『侍従長の回想』文庫判に解説を書いた保阪正康は,関連する宮内省の様子をつぎのように言及していた。 

 前任の〔侍従長〕百武三郎,そのまえの鈴木貫太郎と,昭和になってすぐから侍従長のポストは海軍が占めるようになっていた。これは伝統的に侍従武官長の職を押さえていた陸軍に対する海軍の牽制でもあった。藤田の就任は鈴木貫太郎,米内光政の強い推薦を受けてのことであった。

 藤田は海軍の先輩として宮中入った鈴木などの人脈に畏敬の念をもっていたが,そんな点が密かに海軍内部のリベラル派,さらにいえば良識派に好感をもたれ,侍従長にふさわしいと受けとめられた節もある(同書,「解説」228頁)。

保阪正康「解説」

 ここにも戦前・戦中の軍部に関して「陸軍悪き者・海軍良き者」という,それも戦後になって意図的に捏造,強調されてきた「日本軍部内の構図」は,戦時体制期の軍部事情を単純に理解した立場から発想されていた。

 大局の歴史で判断すれば,陸軍も海軍も,大日本帝国内では〈同じ穴の狢〉であった。この事実に変わりなかった。だから,敗戦を契機に意図的に演出・偽装された,それも極端なまでに対照的な区分となった『「陸軍:悪」対「海軍:良(善ではなく)」という歴史認識』は,日本帝国内の実際における軍事事情の理解を,故意になのか過度に単純化していた。

 要は,海軍が陸軍に引きずられて太平洋〔大東亜〕戦争まで突入したというわけである。

 共同通信社「近衛日記」編集委員会編の『近衛日記』共同通信社開発局,1968年によると,東條英機の直前に総理大臣〔第3次近衛内閣;1941年7月18日~10月16日〕を務めていたときの近衛文麿に,日米戦争の場合の展望を問われた山本五十六大将は,こう答えていた話は有名である。

 「それはぜひやれといわれれば,初め半年や1年のあいだはずいぶん暴れてご覧に入れる。しかしながら,2年3年となればまったく確信はもてぬ。三国条約ができたのはいたしかたないが,かくなりしうえは,日米戦争を回避するよう極力ご努力願いたい 」

 こういう海軍の意向に即したかのようにして,昭和天皇の「敗戦後における処遇」が措置されたことを事由に挙げながら,彼がもともと「絶対的にも戦争を望まない」統帥権の保持者であったと一色(故意に一辺倒)に潤色された。

 つまり,敗戦後になると,いつの間にか〔とはいってもその種の政治的な情宣を積極的に推進した御用記者たちなどがいた事実は忘れられないのだが〕,「天皇は平和愛好者」だという「人間天皇・裕仁像」が宣布されていった。

 ※-3「昭和天皇が戦争狂になった訳(背景)」

 
 1)ナポレオンからリンカーンとダーウィンへ

 以下に引用してみる『阿修羅 掲示版』の文章は,投稿者 ・中川 隆, 2010年3月7日,http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html ,16:57:48: 3bF/xW6Ehzs4I における記述である。

    ☆ 君はアジアを解放するために立ち上がった                    昭和天皇のあの雄姿をしっているか? ☆
     -投稿者中川 隆,2010年2月27日 22:54:18-

 昭和天皇は若いころから,宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので,珍重していた。

 「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」〔という方法で〕彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。〔そして〕日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された “民草” といわれる安上がりの軍隊で,ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた」

 「ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。ナポレオンは参謀部をつくり,機動力にまかせて,波状攻撃を仕かけた。天皇は大本営を宮中に置き,参謀部の連中と連日会議を開き,ナポレオンと同様の波状攻撃を仕かけた」

 「あの真珠湾攻撃は,そしてフィリピン,ビルマ,タイ……での戦争は,ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚〔英昭〕氏は書いている。そういわれればたしかにそうだ。

 つまり,昭和天皇はナポレオンを崇拝し,彼にならって大戦争を仕かけるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと,狂喜乱舞したといわれる。2・26事件当時の侍従武官・本庄 繁の『日記』には,天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

 〔ところが〕終戦の玉音放送が流れる日の朝,侍従が天皇を書斎に訪ねると,昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており,代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった,と……。

 補注)敗戦後,天皇が御文庫で机に向かう姿は,つぎの画像に撮されていた。この写真では胸像が一つしか写っておらず,つぎの説明とも異なっているのは,戦後になって撮られた写真だからである。

 実際には藤田『侍従長の回想』も記録していたように,その机の背後には飾り台があって,この上下二段に二つの胸像が置かれていた。その上段にはリンカーン,下段にはダーウィンが飾ってあったというのである。

 つぎの画像は,右田裕德『天皇制と進化論』青弓社,2009年,233頁に挿入されていたものである。写ってみえる上段の胸像はリンカーン。

この写真は田中 徳『天皇と生物学研究』講談社,1949年5月,92頁
にも挿入写真として利用されていた

 この変わり身の素早さには驚かされる。つまり,もう占領軍が来てもいいように,好戦的なナポレオンの像は撤去し,アメリカの受け(好印象)を狙って,リンカーンを飾り,自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるため,ダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです……といえば,戦争責任が回避でき,マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

 戦後,天皇が海洋生物の研究家になったのは,ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり,戦争中の責任を隠す念のいった方便であった。国民もそれに騙された。そして,戦争指導の責任を全部,東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押しつけた。

 大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって,太平洋を主任務地としたのは海軍であったから,あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し,国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は,海軍にあった。

 2)旧海軍と旧陸軍

 しかし,この「大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である」「陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって」という太平洋戦争史の理解は,正しくない。

 最近作,田中宏巳『消されたマッカーサーの戦い-日本人に刷り込まれた〈太平洋戦争史〉-』吉川弘文館,2014年8月は,その間違いを,戦後70 年近くも経った時点で説明している。


 田中宏巳の同書は,全体的にこういう論旨である。

 敗戦直後,アメリカが創り出した “太平洋戦争史” は,マッカーサーの島嶼戦が除外されたため,GHQ内部に対立を招いた。この確執から生じた『マッカーサーレポート』を検証し,いまも残る太平洋戦争史の呪縛を解かねばならない。

 さらには,その「消されたマッカーサーの戦い」も,つまり,太平洋におけるアメリカ海軍の戦闘史がもっぱら中心に記述されていたけれども,それと同等〔以上〕に,太平洋の島嶼における陸軍の戦闘史を正当に評価し,位置づけねばならない。

 たしかにそのとおりである。太平洋戦争史において旧日本陸軍兵士が,どの戦場にどのくらい送りこまれ,そのうちどのくらい戦没したか。これは既知の戦史の展開事情である。日本軍の場合,それら兵士を太平洋の島嶼に送りこんだのは,もっぱら陸軍の輸送船であった事実も忘れてはならない。

 太平洋海戦史だけが太平洋戦争史だけではない。太平洋島嶼における日米陸軍(アメリカの海兵隊も含んだ)戦闘史として展開されていた事実を,より全体的・総合的に把握しておく余地がある。

 田中の意見に戻る。ところが,戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し,あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。だから後年,阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは,海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。

 3)瀬島龍三旧陸軍参謀や東條英機元首相

 海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが,昭和天皇だったから,天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。

敗戦後は日本の財界で活躍したが
なにかといわくつきの人物であったのがこの瀬島龍三

とくにシベリアへ抑留された日本人兵士約60万人のうち
この参謀のおかげで約6万人もの兵士が命を奪われたと批判されている

その犠牲者のなかには朝鮮人兵士約1万人(死者71人)も
当時は旧帝国臣民だったということで
統計上はコミコミに(ごた混ぜに)されていた

 太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いている識者もいる。だが,彼らはしってかしらずか,さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

 1946年10月18日,東京裁判で元関東軍参謀の瀬島龍三元中佐がソ連側証人として証言。瀬島氏は捕虜としてシベリアに抑留中で,空路東京に護送された。11年間抑留の後,伊藤忠商事に入社すると会長にまで昇進。第2次臨調では電電公社,国鉄の民営化に蔭ながら尽力し,その後も中曽根首相を支えた。

 東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて,「われわれ(日本人)は,陛下のご意志に逆らうことはありえない」といった。これは当時としては真実である。しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったといわれる。責任が全部自分に来てしまい,自分が絞首刑にされる。

 それで天皇は部下を遣わして,東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。それから天皇は,なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し,自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって,しきりに良い女を所望したと鬼塚英昭氏は書いている。

 キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく,との意向を,女を抱かせることで狙った。女優・原 節子がマッカーサーに提供されたという噂は,噂ではあるが,当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

 みんな天皇1人が責任を回避するためであり,東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。

 註記)以上,http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2 参照。ただし,このリンク先・住所は現在,削除されていたゆえ,『阿修羅 掲示版』を参照した。

 

 ※-4「天皇裕仁」と「リンカーン・ダーウィン,そしてナポレオン」

 1)天皇免罪

 1947〔昭和22〕年に入っての話である。昭和天皇の戦争責任が内外で議論されており,それをかわすために民間情報教育局と宮内省が,「人間天皇」キャンペーンを大々的に展開する時期になっていた(右田裕德『天皇制と進化論』青弓社,2009年,233頁)。

 宮中ではそれ以前から,新しい天皇像を作る努力を必死におこなっていた。アメリカの雑誌 “LIFE” 1946年2月4日号は「裕仁家の日曜日」という題名で,天皇一家の団欒の写真などを掲載した。

 その最後のページには,リンカーンの胸像の前で,天皇が英字新聞2紙--英国の『タイムズ』と米国の『星条旗新聞』--を読む昭和天皇の写真(左側)を出していた。前掲,右田裕規から借りた〈同じ写真は〉,もとはこの “LIFE” からのものを加工していた。

 補注)前段の記述については,早川タダノリがつぎのように指摘(抗議)をしていた。早川は,敗戦の時期を読み違えた人物の「単純な蹉跌」をみのがさずに,批判をくわえていた。

SNS上にはこの種の間違いをさっさとあるいはせっせと
吐きつづける人もいるからご注意

〔本文に戻る→〕 やはり前出,田中 徳『天皇と生物学研究』大日本雄弁会講談社,1949年5月は,敗戦後に「平和を愛する天皇裕仁」の理想像を,生物学の研究にいそしむ人間天皇であるという側面を,特筆大書的に強調したり,あるいは,伸長棒大的に昂揚させたりするために公表された書物である。本書の冒頭部分は,こういう描写をもって記述されていた。

 お部屋の装飾といえば,この他に書棚の側の飾棚にリンカーンとダーウィンの高さ30センチ位のブロンズの胸像が据えてある。これは極く普通のもので,以前側近はナポレオン像も飾っていたが,それは何時の間にか戸棚の中でちりをかぶって忘れられているとのことであった(田中 徳『天皇と生物学研究』大日本雄弁会講談社,昭和24年,5頁)。

田中 徳『天皇と生物学研究』引用


 さてここで,必要とされる〈謎解き〉をしてみたい。以下はもちろん,裕仁の立場を基準に分析した解説である。

 リンカーンの胸像はアメリカへの尊敬を表意させ,ダーウィンの胸像はイギリスへの気配りを意味する。ただし,ナポレオンはヒトラーと同じにロシア(ソ連)に負けた国だし,また幕末・維新期には幕府側を支援したフランスは,それほど重きを置く必要もないとみなされた。

 古代史から顧みれば,かつては厚い尊敬の念を抱いていたはずの中国や朝鮮(韓国)は,裕仁の祖父の時代からは完全にみくだしてきたからなのか,孔子・孟子なども視圏外の東洋偉人であったらしく,相手にもしていなかった(?)。

 幕末・維新期から大いに通商・外交関係がもたれてきた「アメリカの大統領エイブラハム・リンカーン」と,「イギリスの進化論学者チャールズ・ダーウィン」,この2名の青銅製の胸像が,昭和天皇の政務室に置かれていた。この様子は,大日本帝国の由来と性格を,そつなく物語らせる小道具であった。

 2)いつのまにかしまいこまれたナポレオンの胸像

 もっとも,敗戦後に「ちりをかぶる」ことになったという,ナポレオン像のあつかいには注意したい。昭和天皇は若いころから,宮中の書斎にナポレオンの胸像が飾っていた。

 裕仁がまだ皇太子のとき,1921〔大正10〕年3月から9月までの半年間,ヨーロッパを訪問旅行した。この日程のうちで6月上旬にパリを訪問したさい,土産・記念として自分で買ったのがそのナポレオンの胸像であり,帰国後,珍重していたという。

 ところが「敗戦の詔勅」の放送が流された1945〔昭和20〕年8月15日の朝,侍従が天皇を書斎に訪ねると,昨夜まであった〔?〕ナポレオンの胸像がなくなっており,その代わりに,リンカーンとダーウィンの像が置いてあった。この変わり身の素早さには驚かされる。

 つまり,もう占領軍が来てもいいように,好戦的なナポレオンの像は撤去し,アメリカの受け:好印象を狙ってリンカーンを飾り,自分は生物学に専念している「政治に無関心な」人間なのだとの印象を与えるために,ダーウィンを飾ったのであった。「天皇は書斎からしてこうなのです」といえれば,戦争責任が回避でき,マッカーサーに命乞いできる,という思惑であった。

 註記)以上,「昭和天皇が戦争狂になった訳」,http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2 は,2013年9月6日時点ですでに検索不能(削除された状態)になっていたので,こちら「同文」が転載されている,http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html から検索・引用した。〔 〕内補足は筆者。

 敗戦前であれば,ちまたでは敵国を「鬼畜米英」と罵倒し,ひたすら憎悪の対象とされたアメリカとイギリスの著名人が,8月15日を境にたちまち,自国の「餓鬼道と畜生道の2道」とは接点をもたない2人に変身させられた。米英が事後になるや否や,もっとも大事な相手国になっていた。この事実の変転ぶり,いうまでもなく「歴史の事実」であった。

 以上のごとき,かつての大日本帝国・大元帥自身によって演出された,それも主演者として堂に入ったその芝居姿は,戦争中に「鬼畜米英」の標語を叫ばされた旧「帝国臣民」の記憶にとってみれば,戸惑うばかりの「昭和天皇による〈みごとな体の入れ替え〉ぶり」であった。

 天皇裕仁は「敗戦後」になると,みずからが「カムカム・エブリバディ」補注)の態勢をととのえた。そうであろう。占領軍が来たら「天皇の住みか」に,将兵たちがずかずか入りこんで来るにちがいない,と。

 補注)敗戦から約半年が経った1946〔昭和21〕年2月1日から,東京放送局(3月4日からNHKと名称変更)のラジオ番組「英語会話教室」が開始した。月曜から金曜の午後6時から15分間の短い報道番組であったが,大いに人気を呼んだ。

 この番組の開始時に使われた音楽が「証城寺の狸囃子」の替え歌(Come, come, everybody)であって,これが人気を博した一番の要因であったといわれる。この文句が,このラジオ番組を「英会話教室」ではなく,「カムカム英語」と呼ぶようになったゆえんであった。

 そのことは筆者がたまたま,2014年2月1日のNHKラジオ第1を聴いていたとき,午前7時に近くなる前の時間帯であったが,「今日の日付け:2月1日に起きた主な出来事」(NHKのことではなく日本社会のそれ)として,この「カムカム英語」というNHKの番組は,1946〔昭和21〕年2月1日に始まってから5年間続いたものでした,と紹介されていた。

 思いだせば,日本帝国が朝鮮を植民地にしていく歴史のなかで起きた重大事件のひとつに,日本国公使の陰謀にしたがうかっこうで,民間人たちも含めて王宮に乱入した日本人たちが,この国の王妃の閔妃を虐殺していた〈実績〉がある。

 つぎの2文献がある。つぎに関連する文献を,アマゾン通販の画面によって紹介しておきた。

 日韓両国間において生起してきた,これらの帝国主義関係史的な「歴史の事実」を最低限しっただけでも,韓国側の「反日」という〈意識の淵源〉がどこにあるかは, おおよそ理解できるはずである。ここでは,豊臣秀吉の朝鮮侵略までは触れないでおくが……。神功皇后の昔話(神話)に至っては,さらに問題外……〔と,ひとまず理解しておく〕。 

 そういう国家次元の犯歴を平然と記録した帝国・為政の側だったくらいだから,敗戦を機に立場が百八十度方向逆になったいま,こんどは自分たちの国になにが起こるが分からないと,ひどく恐怖心を抱くほかなかった。その程度の乱暴狼藉が起こると覚悟したうえで,天皇自身もいざというときに備えたつもりで,せめて「胸像の入れ替え」をしておいたに違いあるまい。

 3)日本国憲法の誕生

 坂本孝治郎『象徴天皇制へのパフォーマンス-昭和期の天皇行幸の変遷-』山川出版社,1989年は,敗戦後にGHQが日本に押しつけた日本国憲法に関して,その日程関連の含意を,こう説明している。

 GHQの憲法草案は,リンカーン誕生日(2月12日)とワシントン誕生(2月22日)という政治的日程から,2月13日に日本政府側に提示され,22日にその受け入れが閣議決定されていた。さらに,6月25日からの国会審議を経て10月7日に成立,10月29日に天皇が署名し,11月3日「明治節」に公布された。

 だが,この新憲法公布の日程選択の仕方には,新憲法制定が大日本帝国憲法(1889:明治22年2月11「紀元節」に発布)の改正手続によってなされた事実と併せて,占領下の日本側の儀礼戦略の一端が現わされており,GHQの政治儀礼的な日程に一矢むくいた相互の関係になっていた。

 もっとも,明治節は1948〔昭和23〕年に「文化の日」となる。これは,11月3日を憲法記念日にとの日本側の要求,つまり,「明治維新後の天皇制と戦後天皇制との有意な連続を狙った」ことに対して,連合国の一部が反対したからである。

 結果的に,「憲法記念日」は施行の日に5月3日が選択されたが,これは《東京裁判が開廷した日》であって,歴史的な外傷体験をとりわけ旧支配層に与えた象徴的な日付けに重なっていた。

 占領からの独立したのちも,憲法記念日が政治的葛藤をはらみ,やがて皇居前広場から憲法記念日の祝賀儀礼が消失していくゆえんである(坂本孝治郎『象徴天皇制へのパフォーマンス-昭和期の天皇行幸の変遷-』山川出版社,1989年,133-134頁)。

 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の主体であるアメリカ軍の将兵は,それまでの日本軍人とはだいぶ様子が異なっており,比較的に紳士的であったせいか,皇居にいきなり闖入する事態は,こまかな関連する事件があったものの,実際にはなかったというから,「不幸中の幸い」であった。結局,リンカーンとダーウィンの2胸像が,そういった事態が起きたときの「お護り」に使われる余地は生じなかった。

 ともかく,1947〔昭和21〕年2月27日,マッカーサー元帥とともに敗戦直後,副官として来日し,天皇制の維持や昭和天皇の戦犯不訴追に関して重要な役割を果たした人物,ボナー・フェラーズ(Bonner Fellers)からのメッセージが届いた。

 今後の天皇の処遇について,「唯一の現実の指導適格者と認めるからもっと積極的になさるがよい。マッカーサーは陛下を認めてやっていくつもりでいる」 「天皇の退位は必要ない,アメリカは天皇を裁くつもりがない」という重大な情報が,マッカーサーからの伝言として,高松宮に伝えられてきた(この高松宮の関係については次項※-5でさらに論及する)。

 だが,当時は,各国から東京裁判には検事が派遣され,まだ予断を許さない情勢であった。極東軍事裁判を控え,高松宮邸では晩餐会が開かれ,GHQの高官が招かれた。宮内庁が人選をおこない,天皇が平和を愛する人だということを訴えていた

 註記)以上2段落は「〈NHKアーカイブ〉秘録・高松宮日記の昭和史」(1996年6月23日放送),http://nekotamago.exblog.jp/1683949/ も参照の記述。2013年7月27日検索)から。

 4)大安組の安藤 明

 前述,ボナー・フェラーズから伝達された情報(メッセージ)は,安藤 明という敗戦前後において実業家〔土建屋の親分〕として隆盛していた愛国者(天皇崇拝者)からも,事前にもたらされていた。確証はえられていないが,安藤からのその情報入手が一番早かった可能性がある。

 『高松宮日記 第8巻』のなかには,この人物「安藤 明に関する記載」が繰りかえし記載されている。こちらの「天皇関連情報」は,いわば多分「非公式経路」によって事前に,高松宮=宮内庁側が入手できていたものであったと思われる。

 なお,秦 郁彦『裕仁天皇五つの決断』講談社,昭和59年の解釈によれば,この安藤 明を称して「酒と女でGHQ交換を抱きこもうとしていた,暴力団の親分安藤 明の大安クラブの工作も,ほぼ〔GHQへ〕筒抜けになっていた」(秦 郁彦『昭和天皇五つの決断』講談社,昭和59年,175頁)と決めつけていた。

 だがこの言及は,安藤 明の行動を一面観でもって偏見的:悪意をいだいて形容した記述である。「日本のヤクザ史」に関する専門的な著作1冊でも精読していれば,このように短絡した修辞「暴力団の親分」を出すことは,安藤に関してそう単純にはできなかったはずである。安藤は土木工事にたずさわる事業家であった。秦はこれ以外にもときどき,筆を滑べらせる記述をおこなうことがあって,「要警戒の筆法滑り」を侵すクセがあった。

 神田文人『昭和の歴史第8巻 占領と民主主義』小学館,1983年は,敗戦直後の厚木基地について,こう記述している。 

 「厚木進駐はマッカーサーの意志であった」 「日本側はやむなく,受け入れ作業のために3日間の猶予を要請」した。

 8月「26日進駐が決定した。ところが,当時の厚木基地では,第302航空隊司令小園安名大佐が徹底抗戦を主張し,飛行場にはこわれた戦闘機・爆撃機を横たえ,米軍機の着陸阻止をたくらんでいた」  

 「その撤去を命ぜられた佐藤六郎大佐は,大安組の親分安藤 明に協力をたのみ,25日から翌日にかけて,ようやく作業を終了することができた」。「しかし台風によって2日延び,進駐は28日になる」(神田文人『昭和の歴史第8巻 占領と民主主義』小学館,1983年,56-57頁)。

 5)マーク・ゲインの『ニッポン日記 上・下』1951年

 袖井林二郎『占領した者された者-日米関係の原点を考える-』サイマル出版会,1986年は,その安藤 明について,こういう記述をおこなっている。

 著者〔岩崎 昶〕は日映の乗っ取りをはかった「安藤組」の手先に襲われ,顔を切られる。シカゴ・サン紙のマーク・ゲイン記者が見舞いに訪ねて来たところで,この本〔岩崎 昶『占領されたスクリーン-わが戦後史-』新日本出版社, 1975年の記述内容〕は終わっているが,

 この大安組のボス,安藤が占領軍に深く食いこんでいたことは,ゲインも当時明らかにしている。占領というものの奇怪さをあらためて思わされるのである(同書,326頁。〔 〕内補足は引用者)。

 なお,マーク・ゲインの『ニッポン日記 上・下』筑摩書房,昭和26年11月の下巻には,なんども大安組のボス:安藤 明が話題に上っていた。森川哲郎『疑惑と謀殺-戦後,「財宝」をめぐる暗闘とは-』祥伝社,2000年。初版は現代史出版会,1979)は,この安藤の娘の話題に関して言及していた。

 1952年4月9日,日本航空のもく星号事件で死んだ1人に宝石デザイナーの小原院陽子女史がいたが,安藤 明の娘であった。  宝石の売買もする女性として,またダイヤモンドコレクターとして,彼女はその道の人のなかではよく名前がしられていた。  その父の安藤政吉は敗戦直後,某宮邸を使ってアメリカの高級将校を酒と女で籠絡し,巨財を作ったといわれた怪物である(森川,同書,85頁参照)。

森川哲郎『疑惑と謀殺-戦後,「財宝」をめぐる暗闘とは-』から


 ここで某宮とは先述に出ていたが,昭和天皇の実弟の1人高松宮のことであった。高松宮と安藤 明の関係は『高松宮日記 第8巻』中央公論新社,1997年に,なんども安藤 明が登場することからも確認できる。

 6)安藤 明の敗戦処理活動-酒と女と手土産による接待攻勢-

 昭和天皇の敗戦後における命運に対しては,安藤が間違いなく「なんらかの関与した事実」が記録されている。安藤に関する著述も何冊かある。そのうちから,古川圭吾編,中山正男『安藤 明-昭和の快男児 日本を救った男-』講談社出版サービスセンター,2003年を「参考文献の紹介:アマゾン通販」の形式で紹介しておく。

 なお,この表紙カバー画像の左側に写っている和服姿の人物が安藤 明。右側に移っているのは,安藤が米軍関係者で初めてしりあいになったフィッシャー大尉。

 安藤 明の息子眞吾は,みずから『昭和天皇を守った男-安藤 明伝-』幻冬舎ルネッサンスブックス,2007年を公表し,実父が敗戦後史のなかで活躍した事実を記録に残していた。この本もアマゾンから紹介しておきたい。


 なお以前,安藤眞吾のブログ『 Shingo Ando blog 父 安藤 明の業績を中心に投稿します』というサイトがあったが,現在は閉鎖されており,その代わりにつぎのサイトに移動している。

 要は,安藤 明が敗戦後の一時期,彼なりに独自の対占領軍対策をやってきた事実は,充分に証拠があった。その事実史については本ブログは,つぎの記述をおこなっていた。

 安藤 明が高松宮に冷たく追い返された一件は,たとえば,つぎの記述に表現されていた。

使い捨てにされても尊皇心だけは捨てられなかった安藤明


 ※-5 右田裕規『天皇制と進化論』青弓社,2009年

 1)昭和天皇による自室〈胸像の入れ替え〉

 この著作(青弓社,2009年)は,前述に触れた「昭和天皇による自室〈胸像の入れ替え〉操作」という対応が,敗戦を迎えたさいの緊急事態としてのみ,観察されればよい出来事ではなかった事実,つまり,近現代天皇史において有したその深い含蓄に論及している。

 1937〔昭和12〕年7月7日「日中戦争」(北支事変→支那事変)」が始められていた。その半年近く前の同年2月11日に「勅令」として制定されていた『文化勲章令』は,第2回(1940〔昭和15〕年度)授賞以降からは,受賞者の半数以上を自然科学者が占めていた。

 戦時期支配層の政治技術は,一方では,天皇自身よる「御研究」の近況そのものは隠蔽すべき政治状況をかかえながらも,他方では,「天皇」をその科学研究のシンボルに使い,科学研究における自然科学を奨励・保護していかねばならなかった。

 また,天皇の「現御神」「神の末裔」である姿は,学校や軍隊をとおして,大衆に徹底的に教化する試みは厳然と続けられていた。昭和初期の日本政府が作りあげた天皇のイメージは,進化論と皇国史観の双方を《顕教》に置く当時の文部行政と,みごとに照応した二元論的性格をもっていたことになる(右田裕規『天皇制と進化論』青弓社,2009年,213頁)。

 1947〔昭和22〕年2月に刊行された戦後初の皇室写真集『天皇 emperor』の最初の写真が,リンカーンとダーウィンの胸像の前に座って,新聞を読む昭和天皇の姿であった(前掲)。「自由と進化の両偉人に,陛下の日常の御関心と御人格の一端をうかがふことができる」ということであった(同書,232頁)。

 この要領に沿って考えるとすれば,戦争中に飾ってあったナポレオンの胸像が,はたして,どのように「陛下の非常のご関心と大元帥の指揮ぶりの一端」をうかがわせるものであったか,ここではあえて語らないでおく。

 2)人間天皇への世論誘導

 敗戦後における当時の昭和天皇については,戦争責任が議論されるなかでこれをかわすために,GHQの民間情報教育局(CIE)と宮内省が,「人間天皇」のキャンペーンを,大々的に展開していた時期である。この写真集『天皇 emperor』は,天皇の生物学者としての姿を強調する構成になっていた。なかでもダーウィン像は,天皇が親イギリス派だという以上に進化論者だ,という象徴として位置づけられる(同書,233頁)。

 「人間宣言」〔昭和21:1946年1月1日〕あるいは「神道指令」〔昭和20:1945年12月15日〕の1年後,進化論者・天皇を内外に広くアピールする占領軍と日本政府の意図を汲みとることはむずかしくない。天皇自身も皇国史観を否定していることを,シンボリックかつ明確に国内外の人びとにしらしめる。

 ダーウィン像の「公開」という実践の意図は,この1点に収斂されると思われる。生物学者でもある天皇は当然進化論者でもあって,自分の祖先を神だとはまったく思っていない。このような含みが『天皇』のダーウィン像には込められていたということだ。

 1947年(昭和22年)の政府のダーウィン像の「公開」とは,その意味でまぎれもなく,進化論と皇国史観との長きにわたる覇権争いが進化論の「勝利」で一応の決着を見た歴史的瞬間だった。

 しかしここで注意したいのは,ダーウィン像の「公開」にみいだされるべきは,近代天皇制との断絶ではなくあくまでも連続だということだ。

 昭和初期の政府が,天皇の生物学者・科学者としての社会的イメージの浸透をめざしていたという史的事実があるかぎり,ダーウィン像の「公開」は,近代天皇制と自然科学の関係の歴史,天皇制が自然科学に対して譲りつづけてきた歴史の延長線上に位置づけられるべきものである。

 〔つまり〕……占領軍や戦後の日本政府が『天皇』に託したもくろみに惑わされることなく,そのように捉える必要がある(同書,233-234頁。〔 〕内補足は筆者)。

 以上のなかで,右田裕規『天皇制と進化論』が「生物学者でもある天皇は当然進化論者でもあって,自分の祖先を神だとはまったく思っていない」という論定は,妥当性をみいだせるものとは思えない。

 というのも,『終戦の詔勅』や『人間宣言』に昭和天皇がこめた意図については,なかんずく,敗戦後の占領期における昭和天皇の言動は,「ウソも方便」の立場から必死に,皇室生き残りを画策していた時期のそれであったに過ぎなかったのである。

 それゆえ,皇室神道の信仰心にしたがって生きている昭和天皇,その宗教的な確信にかかわらしめて,右田のように,天皇が「自分の祖先を神だとはまったく思っていない」〔と否定した〕と受けとめる論旨を導出するのは,逸脱の筆法であった。

 そういた右田裕規の論旨は,昭和20年代を自分なりの戦術を駆使しながら,たくましく生き抜いていった「昭和天皇の政治倫理あるいは心理機制」を考慮に入れない「裕仁個人史に関する理解」に留まっていた。

 3)天皇制問題を進化論で論じる限界

 右田裕規の天皇理解は,「敗戦後の時期にこだわり,極端に走る認識」を,勇み足したごとく犯している。昭和天皇は1929〔昭和4〕10月ころに,ダーウィンの胸像を「即位の記念」として側近から贈られていた。

 「皇国史観を具現化した一大ページェント(祝祭)である昭和大礼の1周年のお祝いに,側近からダーウィンの胸像を贈られる」といった「エピソードとは,第1次世界大戦後の天皇制が抱えていた矛盾を端的に描いている」という。

 けれども右田裕規は,この歴史の部分に向けてさらに,19「47年のダーウィン像『公開』は〔この〕前史〔を昭和初期〕にもっていた」(同書,235頁。〔 〕内補足は筆者)という具合にも結びつけてしまった結果,

 戦時体制期の真っ最中における帝国臣民=「赤子」と雲上人「天皇」とのあいだ厳在していた懸隔を,一気に吹き飛ばせるかのような思いこんだ関連づけを強行していた。しかしこれは,どこまでも無理強いであった。要は肝心である論点をいくつも「中抜きしたうえでの歴史理解」であった。

 昭和20年史としての裕仁天皇史は,右田裕規が議論したごとき「天皇制と進化論」の次元で論じうる皇室問題だけから捕捉したのであれば,その歴史の根底を形成してきた「日本政治史としての天皇行動史」との接点をみうしなっていたことになる。

 学習院初等科を終えた裕仁は,クラス・メートと離れ,高輪御所に設けられた「東宮御学問所」で初等科から選ばれた永積ら数人の学友と20歳まで学ぶ。御学問所時代の後期になると,彼は生物学より歴史のほうに興味をもったという。

 とくに,箕作(みつくり)元八の『西洋史講話』『フランス大革命史』『世界大戦争史』を熟読した。しかし,側近が,「歴史を学ぶと,どうしても天皇という立ち場に疑問を抱き,将来ご自分で悩まれることになろう」と判断,生物学を勧めたのである(高橋 紘『現代天皇家の研究』講談社,昭和53年,137頁)。

 4)昭和天皇の本当の経歴

 「戦前,軍部が陛下のご研究に横ヤリを入れた」(高橋,同書,137頁)事実を思いだすまでもなく,昭和天皇は自身が敗戦するまでの治世においてすでに,政治や軍事の歴史がどのように現実的に展開されていくかを,否応もなしに,まさに身をもって十二分に学んできた。

 敗戦後における天皇裕仁が本当に,「平和を愛する生物学者に変身した」というわけでは,けっしてなかった。新憲法のための「象徴天皇像の形成へ向けた〈戦後における与論の誘導〉」は,天皇裕仁に関する「〈イメージの変換〉を狙った宣伝活動」によってなされていた。

 敗戦後の昭和20年代,日本社会の表層において形成されてきた「昭和天皇に関する歴史・現象的な全体像」は,これを包括的・有機的に分析していけば判明・浮上してくることだが,実は,その裏面の実像も併せて観察しないかぎり,「一面観にはまり虚偽に終わる」結果となるほかなかった。

 敗戦後,GHQ占領下において昭和天皇が,全国各地を巡幸する日程を意欲的にこなしていたが,それと同時にまた,皇室という〈菊のカーテン〉の裏側では,彼が密やかにそれも積極的に,日本国の政治・外交に関与・介入してきた。その履歴は史実として記録されている。

 彼は表向きでは,あくまで皇室活動に主な舞台があったかのように振るまっていたけれども,そのそばで,アメリカに向けては個人的な〈意思〉を伝達したり,国内では内奏を吸い口に利用するかたちで,それも非常に能動的な姿勢でもって,日本の外交・政治問題に関与・介入してきた。

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