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【連載小説】Monument 第六章#4

 それからのぼくは、支離滅裂だった。

 授業には全然身が入らず、隣の机――森ノ宮の席――に飾られた花を、ちらちらと眺めてばかりいた。

 彼女の言葉。
 彼女の仕草。
 彼女の顔。

 すべてが幻だったみたいに、なにもかもがその輪郭を失って、はっきりと思い出せない。

 それでも、季節は巡っていく。
 秋は、ことさらに残酷だ。

 美しい夕焼けを目にするたびに、ぼくはその光景を垣間見る。
 橙色の夕焼けの影絵に沈む森ノ宮、を。
 その鮮烈な記憶だけが、ぼくの頭に焼き付いて離れようとしなかった。


 このままではいけない。ぼくは試行錯誤を繰り返した。

 工作は? 二人の――麦と眞琴の――手を借りるのが煩わしい。
 自由研究は? 結局ホタルを見ることなく、森ノ宮と別れた夜がよみがえる。

 未だ知ることのない何事かを、ただただひたすらに吸収していく――勉強だけが、唯一すべてを忘れられる時間になった。

 それでいて、カプセルだけは――彼女の置いていってった緑色の指環の入ったそれだけは――どうしても手放すことができずにいた。
 見れば彼女を思い出さずにはおれないそれを。

 かばんの隅にひっそりと。
 机の傍らにぽつんと。
 ぼくのポケットの中でほんのりと。

 大切に取っておきたいのか、それとも忘れてしまいたいのか。
 矛盾している。
 その矛盾と格闘しながら、闇雲に、勉強だけにかじりつく。
 ぼくにできることは、それだけになった。

 やりたいこととか、目指したいものとか、将来とか。
 そんなきれいごとなんか、一切合切もう、どうだっていい。

 橙色の影法師を、ひととき忘るためならば。


 折々の学校行事。地域で起きる些細な事件。
 そんな出来事にかこつけて、度々、ぼくを担ぎ出そうと画策する麦。

 けれど、ぼくの気持ちは、麦にも眞琴にも戻ることなく、勉強という口実に逃げ込んで、出てこようとはしなかった。

 松平先生の退職の噂を耳にしたのは、六年生に進級した春のこと。
 まことしやかに、原因は森ノ宮ではないか、とささやかれていた。
 川向こうの工事現場で、先生の姿を見かけた――そんな話も耳にした。
 真贋のほどは、わからない。
 その頃にはもう、そんなことはぼくの中で、何の意味も持たなくなっていた。


 その年の暮れ、北海道にある全寮制の中高一貫校に合格した。
 虚ろな勉強を続けた末の、中身の定かでない結実だった。

 達成感もない。
 喜びもない。

 ただ、この街を離れられるという安堵だけが、胸の奥底にひっそりと冷たく横たわった。


 夜逃げの前日、無理を圧して顔を見せに来てくれた麦にさえ、ぼくはもう、なんの感慨も抱けなくなっていた。
 ただ、麦を殴りつけてしまったときについた、小さな拳の傷だけが、小さくうずいたような気がしてならない


 いよいよ、この街を離れる。
 その前日は、大雪になった。

 踏み音が鳴るほど乾燥した粉雪が降り続く中、ぼくは今まで自分の足で歩いたことのある、この街のすべての道という道を踏破し、場所という場所を訪ね歩いた。

 ちっぽけなカプセルを、コートのポケットの中、握りしめて。

 なにが、そうさせたのか。
 自分でも、よくわからない。

 夕暮れが間近に迫る頃、ぼくは、街を見下ろす丘の上の展望台にいた。
 降りしきる雪はすべてを呑み込み、灰色の渦以外、なにもみえない。

 それで、いい。
 ぼくは、ここから見えるはずの場所で起こった、すべての出来事を捨て去って、新天地へ赴く。

 そこに、眞琴が現れた。

 ――出来過ぎだ。

 神の采配。
 もしも、そんなものを信じていたとするならば、ぼくはきっと神をのろったことだろう。

 この雪の中、眞琴はなにをしに、ここへきたのか。

 ぼくを探してくれたのか。
 別れを言いに、きてくれたのか。
 なにか、話しておくべきことはないか。

「……行っちゃうの?」
「ああ。明日の朝」

 ぼくの心の中はもう、すっかり空っぽになっていて、どれほど掻き出そうと試みても、それ以上、何の言葉も結ばれない。
 是非もなく、そのまま眞琴の元を離れた。
 痛痒もなにも感じなかった、と言ってしまえば嘘になる。
 けれど、ぼくの唇は引き結ばれたまま、一言も発することはなかった。

 ぼくの心の中に最後まで残っていた、たったひとつの温もりを持った粒。
 その日、それを冷たい雪の中へ置き去りにして、ぼくはひとり、この街を去った。
 ちっぽけなプラスチックのカプセルだけは、ポケットの奥にこっそりと忍ばせたまま。


 それからのことは、あまり思い出したくない。

 「いつかどこかへ帰りたい……」

 と、時折、そんな言葉が口を突く。

 屋上へ続く、階段に座って。
 真っ暗な自分の部屋の、ドアを開いて。
 勉強以外、なにもすることのない休日の机に、カプセルを転がして。

 その言葉とは裏腹に、続けるしかなかった勉強が、いつのまにかぼくを大学にまで進ませた。低迷のない成績が、意志を持つことのないぼくを、そのまま社会へと弾き出す。

 十一のままのぼくがスーツを纏って社会人となり、巨大な組織の中へ飛び込んでいく。
 通用なんかするはずもなく、やがてぼくは……僕は知ることになった。

 居るべきところも、帰るべきところも、もう、どこにもないということを。

 虚空を舞う木の葉のごとく、風に揺られるままに一日を過ごす。
 一刻ひととき、地に着いたかと思えば、また風に吹かれて空を舞う。

 いつか、僕が帰るべきどこか。
 それが、いつで、どこにあるのか。
 僕にはもう、なにもわからなくなっていた。

       ◇

 もし、「あの夢」に気付いていなければ――僕は、ここには居なかった。

「ありがとう――森ノ宮」

 そう語り掛けると、カプセルの中、指輪は応えるようにきらめいた。


 水路の入り口で、光りが動いた。
 流水を踏みしめながら、二つの影がやってくる。

「毬ちゃん、お待たせ」
「予定通りだ。順調にこれたか?」

 二人に手を貸し、通路に上げた。

「大丈夫。誰ともすれ違わなかったし、近所の家は、もう真っ暗。バスも途中から、わたしたち二人だけだったし」

 かえって運転手に印象を残した可能性はあるが、黙っておいた。


 ここからバラ園まで、往路はおよそ四十分。

 現地での作業を三十分、と見込み、帰路は下りで、荷物――クチナシの苗木――もない。
 およそ一時間半後には作業を終えて、ここへ戻ってこられるだろう。

 この季節、夜明けは早い。
 薄明を迎える前には、水路の外に出なければ。

 たぶん、その瞬間が最も人目につきやすくなる。
 首尾良く人目を避けて、この水路から這い出せさえすれば……。

「ねえ、毬野。それ、わたしに背負わせて」

 移動用にと拵えた、吊り下げ式調光ランタンの赤い光に照らされて、眞琴がクチナシを指さした。

「ここをまっすぐ行くと、突き当たりに堰がある。そこからはしばらく登りになるから、そこで交代だ。いいな」
「わかった。疲れたら――ううん、疲れちゃう前に交代しもらうから」

 ハーネスを調節して、眞琴の背中に背負わせた。

 互いに互いを確認しあう。
 ジャージの、ところどころに巻かれたテープ。
 反射材の養生だ。

「支度はいいな、二人とも――麦、先頭を頼む。しんがりは僕が行く」

「オッケー」

 前を行く眞琴の背中で、黒くみえる葉の蔭に、クチナシのつぼみが揺れていた。

「――毬野、啓太郎。ありがとう。いまさら……だけど、啓太郎が正しいのかもしれない。電気ホタルのこと、わたしすっかり忘れてた。なのに、ごめん。巻き込んじゃって……」
「えー。そうなんだ。俺は眞琴っちゃんの、『クチナシ植えて、絵の通りにする』に一票、かなあ――毬ちゃんは?」
「さあ、どうだろなあ。もしかしたら、『どっちも』だったりして、な?」

 眞琴の鼻が、湿気って鳴った。

「ありがと。二人とも――もうじき、終わりだね」
「三人揃って、おまえの家へ帰れて成功――だろ? それに、これで終わり、はないんじゃないか――なあ、麦?」
「そうだよ。電気ホタルの修理も、手伝ってもらわないと」
「それが済んだら、森ノ宮の元に届けなきゃな。来年が二十三回忌――か?」
「その前に、松平先生を探そうよ。香澄ちゃんのお墓だって、知ってるかもしれないし」

 僕は今、僕の居るべき場所に戻って、しっかりと踏みしめている。
 一歩、一歩を。

 目の前で揺れるクチナシのつぼみに、僕はもう一度、心の中でこう告げた。

「ありがとう。森ノ宮」

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