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「会う社(やしろ)」と書いて、会社。

きょう会社で会った先輩から、
「最近8階に入り浸ってるね」と言われた。

「5階と8階にだいたいいるんです。
3階が、自席なのに」と答えた。

「人に会うためです」と添えた。

「本来と違うフロアで仕事してる」
なんてことは、

リモートワーク、フレックス勤務、
フリーアドレスが
当たり前の働き方なので、
そんなことに気づいて声かけてくれる。

だけで、文字通り有難いことだなあと
しみじみした。

同時に、この先輩には、
「会社って、会う社なんです」
と会うたびに話しては、
面白がってくれた。

コロナ禍以降、出社は半減か1/3以下になり、
会社で会う人も限られるし減ってきた。

さまざまな家庭の事情、コロナ感染防止、
さまざまな価値観のもと、
「家で仕事できる」ことは、
とっても便利で、効率的で、
家族との時間、自分の時間により多く
投資できるようにもなった。

オンライン会議が当たり前になり、
出張しなくてもよくなり、
海外の拠点とも、瞬時に会議もできる。

まるでドコデモドアみたいに。

「働き方改革」を、会社で推進してきた
立場としても、それは喜ばしいことでもある。

得られたこともたくさんある。

では、
「失われたもの」は、ないか?

(会社にいかないことの否定ではなく、
 いくことの意味を再構築するための問い)

私はといえば、
「毎日出社」が、デフォルトになっている。

「会社にいかなくてもいい」
「行ってもチームメンバーにも会えるわけでない(みんな在宅ワークが基本」
なのに。

なんで?

と聞かれるたびに、
「家に居場所がないんで」とか、
茶化してみたりもするけれど。

本当は、

「人に会う」ため。

それは、

「自分に会う」ため。

もう少し言えば、

「新しい自分に会える」ため。
であり、
「新しいあなたに会えるかも知れない、
あなた自身が」
というためでもある。

「家の中」か
「散歩して、周辺で見聞きする」
という世界で得られるもの以上に、

通勤し、
電車内での世間に触れ、
会社にある社会に触れ、
世界に触れる。

ことでこそ得られるものの
「頻度と刺激」

が、失われた?

それは、人類の歴史で言えば、
アフリカ大陸に始まった人類の起こりから、

肥沃な土地、
生きながらえる食糧、
もしかすると
単なる好奇心。

大陸を歩き広がる世界と開拓精神のようなものが、仮に、人類を発展させてきた?
知能を発達させてきた?

としたら。

大袈裟かも知れないけど、
その逆を行っている今??

振り子のように、
「会社への出勤必須」という企業も増えている
のも、当然の流れかも知れません。

どっちが是が非か、ではないです。

が、

セレンディピティー
偶然の出会いや、発見は、
「井戸の外」にあるような気がします。

なぜ人は、人に会うのか?

オンラインじゃだめなん?
SNSじゃだめなん?

だめじゃないけど。

「新しい自分との出会い」

は、人と人とのリアルから生まれる
ことがより多い。

かな。
それは、自分がだれかと「わざわざ」
会う世の中になったとき
(すでになってる)
自分が誰かのために、
その人が新しい自分との出会いがあるように
よりよく成長していようという、
モチベーションにもなる。


会社は会う社。

人と会う意味、は、
会社という枠にとどまらず、
社会に問いかけられているのかなと
思います。

noteも社。
直接会えないけど、やしろのひとつとしての、
プラットフォーム。

「人と会う」つもりで、
これからも,書いていきたいなと思います。

きょうもとりとめなく、長くなりましたが、
ここまでお読みいただきありがとうございます


写真は夜の大阪駅。

たくさんの人が行き交います。
すれちがうとき、べつに話したりするわけ
ではないけれど。

行き交うだけで、なにか感じられるものも
あります。

こんなに人がいるのに、と、
むしろ孤独や空しさを感じる時もありますが、
それさえも、そう感じる自分さえも、
新しい自分との出会い。

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