【映画】「スペシャルズ!~政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話」感想・レビュー・解説

僕には出来ないなぁ、と思う。
意識としては常に、誰かのためになれたらいいなぁ、と思っているけど、同時に、その気持には限界があることも理解している。

【世の中の人は二種類に分かれる。見向きもしない人と、それ以外よ。振り向いてくれる人は、ほんの一握りよ。だから、認可なんて関係ない。】

僕もきっと、自閉症の人たちを見かける機会があれば、「見向きもしない」か「それ以外」のどっちかになってしまうだろう。

だから本当に、この施設をやり続けている二人は、凄いなと思う。

劇中に、こんなセリフがある。ブリュノに頻繁に助ける医師の言葉だ。

【彼らは、心と信念で動いている】
【彼らは正しかった】

施設の監査にやってきた役人から、「ほとんどの職員は無資格だそうですが」と聞かれた時、マリクはこう返す。

【資格がありゃ、殴られても平気ってか?】

そんなやり取りを見ながら、僕はこんな風に感じた。

知識は外から借りてこれるけど、
情熱は外から借りてこられない

「ルール」に対する、僕の基本的なスタンスは、「ルールに逆らいたいのであれば、ルールを変える努力をしなければいけない」というものだ。これは特に、芸能人が薬物で逮捕される度に感じる。薬物の使用については、「誰も傷つけていない」とか「煙草よりも依存性が低い」とかいろんな意見があるけど、僕のスタンスは、「法律で禁じられているのだからダメ。それでもしたいなら、法律を変える努力をしろ」というものだ。薬物に限らず、僕は、大体こういうスタンスで「ルール」に対峙しようとしている。

もちろん、その原則では対応を間違える状況もある。例えば独裁国家においては、国の名の下に定められた「ルール」の方が歪であることが多いだろうし、「ルール」を変えるための努力も実を結ばないことも多いだろう。そういう状況であれば、別の手段を講じる必要がある。そして、この映画で描かれている自閉症児の支援についても、同じように感じる。

ブリュノらが運営する団体は、政府からの許可を得ていない。それはすなわち、「ルール」を破っているということだ。しかし、問題はそう簡単ではない。

まず、ルールを破らないことが困難だ。というのは、重度の自閉症児であればあるほど、「認可された施設」は拒否するからだ。自閉症に関しては、重度の患者ほど施設に受け入れてもらえず、家庭に閉じ込められているという。「認可」施設はどこも受け入れてくれない、しかし家庭で対応できるレベルを超えている。となれば、ルールを破った存在が必要不可欠になる。

また、「ルールを変えるための努力をする」と言っても、ルールが変わるまでには時間が掛かる。そして、その間にも、一刻の猶予もなく支援を待っている自閉症児がいる、という現実は変わらない。だから、「ルールを変えるための努力をする」場合でも、ルールが変わるまではルールを破り続けなければならないのだ。

またそもそも、「ルールを変える」ために実績を積み上げる必要だってあるだろう。いくらブリュノが何の実績もないまま、「無資格の職員で重度の自閉症児を受け入れる施設を運営するんで許可を下さい」と言ったところで、どう考えたって認可されるはずがない。だから、それが現実に可能であるということを示さなければならないし、示すためにはルールを破らなければならないのだ。

まあ、こういう理屈をつらつらと並べなくたって、ごく一般的な人はきっと、ブリュノやマリクの活動に賛同するだろう。しかしやはり、行政側はそうはいかない。この映画に出てくる、ブリュノらの活動を監査する役人には苛立ちを覚えるが、しかし、彼らの立場も理解できる。ルールを定めている側が、ルール違反を認識しているのに、それを放置することは、他の部分においても支障をきたす可能性があるからだ。

世の中には、「ルール」を決めれば解決、なんていう状況の方が少ないだろう。結局のところ「ルール」というのは、正しいことが行われるために設定されるわけで、より重要なことは「正しいことが行われること」だ。そして「正しいこと」は、知識や経験よりも、情熱を持った人間の方が実現しやすいはずだ。

そういう人間が、その情熱をフルパワーで発揮出来るように「ルール」は存在するべきではないだろうか。

内容に入ろうと思います。
自閉症の青少年を支援する団体<正義の声>を運営するブリュノと、同じく自閉症の青少年の社会教育を行うことがメインの<寄港>を運営するブリュノの友人・マリクは、無認可のまま15年この活動を続けてきた。ブリュノはマリクから見ても”軽率”で、つまり、どれほど重度で困難な患者でも断らない。あらゆる施設から断られた患者でも、ブリュノだけは無条件で受け入れてくれることを知っているから、多くの人が彼を頼っている。しかし団体の運営は容易ではなく、職員への給料の支払いも綱渡りの赤字経営だ。しかしブリュノは、何があっても「何とかする」という口癖をほうぼうに振りまき、実際になんとかしてきた。
しかし今回は結構ヤバい。今までも監査は度々入ったが、それは保健局の連中だった。しかし今回は厚生省のエリートだ。下手すれば施設の閉鎖も考えられるかもしれない。真剣に考えるように、会計担当から釘を差されるが、しかしブリュノは日々のトラブル処理に大わらわだ。
中でも、ブリュノがこの団体を立ち上げるきっかけになったジョゼフの就職の件に手こずっている。ジョゼフは一人で電車に乗る訓練をしているのだが、いつも橋を渡る途中で非常ベルを押してしまい、毎度鉄道警察のお世話になっている。また、新たに医師から支援を頼まれたヴァランタンは、すぐに自分の頭を壁に叩きつけてしまうために、常にヘッドギアをつけている状態だ。非常に難しいが、新米の支援員であるディランに担当させることにした。しかしこのディランが、遅刻をするわ言い訳をするわとなかなかの問題児。それでもディランは、少しずつヴァランタンと心を通わせていく。
実際の話を元に描かれる、男たちの奮闘記!

これは良い映画でした。けど、この映画、邦題が良くないような気がするなぁ。ちょっと映画の雰囲気にそぐわないと思う。「政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った」という文言は、この映画を観る前の人の印象をちょっと違う方に持っていくんじゃないかな、と。

映画を観る前、僕は、この物語が「弱小施設VS役人」という構図になるんだ、と思っていた。副題を見れば、誰だってそう思うんじゃないかな。でも、実際は違う。この映画はむしろ、<正義の声>と<寄港>の日常を描き出す物語だ。役人との闘いは、味付け程度でしかない。僕は、邦題からイメージする内容と違ってたけど見て良かったと思った。けど人によっては、なんだ思ってたのと違うじゃん、という感想を持つ人もいるんじゃないか、と。まあでも、確かにこの映画を見てもらうフックとして、「弱小施設VS役人」という構図をイメージさせるのは仕方ないかなぁ、という気もするから難しいところだけど。

とにかく、ブリュノとマリク、そして団体で働く職員たちは凄いと思う。だって、とにかく面倒ごとばっかりだ。もちろん、それを上回る喜びや達成感を感じられるだろう、という予感も抱かせてくれる作品ではあるのだけど、日々の大半は、次から次へとやってくるトラブルに対処することだ。

しかもこのトラブルが、もうどうすりゃいいんだって感じのものばかりだ。先程挙げた、電車に乗ってると非常ベルを押してしまう、というのも、何回も起こってしまうことだけど、自閉症の人を相手にするととにかく、言葉で根気よく言い聞かせないと伝わらないから、その過程でトラブルが続出する。だから他の施設では、薬で大人しくさせたり、監禁したりする。それを「仕方ない」と言ってしまうのは大きな抵抗があるが、しかし、ブリュノらの苦労を見ていると、薬の使用や監禁をしてしまう気持ちは理解できなくはない。だから本当に、ブリュノたちは凄いと思う。

新人のディランへの研修を兼ねたある場面でマリクが、

【強制したらダメだ。説得するんだ】

と言う。この場面だけでも、彼らが自閉症の人を、きちんと個人として接していることが伝わってくる。

以前、「自閉症のぼくが「ありがとう」を言えるまで」という、自閉症本人が書いた本を読んだことがある。彼は、通常のコミュニケーションは一切出来なかったが、7歳の時に母親に、自分には知性がある、ということを伝えることができた。しかしその方法は、母親の手を借りなければならないものだったため、専門家は彼に知性があることを信じなかった。しかし母親は息子を信じ、やがて学校に通い、本を出版できるまでになったのだ。

彼は、【自分の頭がまともだということを知っているのは自分だけなのだ。断言できるけれど、これは一種の地獄だ】と書いている。彼もまた、他の自閉症児と同じく、外から見る限りは、手足を意味不明に動かしたり、外部からの呼びかけに反応を返さなかったりという感じだった。外から見ている分には、とても知性があるとは思えない状態だったのだ。頭は正常なのに、それを外側に伝える方法がないという状態は、確かに地獄だろう。彼は、自閉症児は井戸の底に閉じ込められているようなものだ、と書いていた。

そのことがあったから、映画に登場する自閉症の人たちにも皆、ちゃんと知性があるんだろうと僕は思っていた。しかし、振る舞いだけ見ていたら、そう実感できることはまずない。彼らは知恵遅れのようなものなのだ、と思ってしまっても仕方ないだろう。そういう中で、自閉症の人たちをきちんと個人として扱っていることは、本当に素晴らしいことだと思う。

公式HPを見て知ったが、ジョゼフを演じたのは、実際に自閉症を抱える人だそうだ。驚いた。実際に障害を抱えている人を起用することは非常に困難だっただろう。HPではジョゼフについてしか触れていないが、恐らくこの映画には他にも、実際の自閉症患者が登場しているのだろう。同じくHPには、主演を務めた二人が、実際にモデルとなった団体の中に入っていった、ということも触れられている。というか監督が、「モデルの団体で2時間過ごしてくれ。それが無理なら出演の話は無しだ」というオファーをしたという。

フィクションである以上、ドラマチックに描かれている部分もあるが、基本的には、自閉症の人の支援活動を丁寧に描いている映画、という印象だった。良い映画を見たなぁ。彼らのようにはなれないけど、関心を持つことぐらいはできるので、無関心にはならないようにしようと改めて思った。


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