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「恋愛」はグロいー小津安二郎『秋日和』を観て

 他者との間合いを気にしている人でも「恋愛」となると急に土足で他者の領域に足を踏み込む。

「好きな人はいるの?」
「いつごろ結婚するの?」
「あの人は今〇〇さんと付き合っているらしいよ」

 これらは家族、友人、会社関係なく発せられがちな言葉だ。そもそも恋愛は1対1の関係にすぎないのではないか。他者へ好意を抱き「恋」となる。相手と対話をし親密となることで「愛」となる。そのプロセスとしての「恋愛」がスペクタクルとして第三者によって消費されてしまうのである。なんてグロテスクなのだろうといつも思う。

 これは映画の世界でも同様である。小津安二郎の作品に『秋日和』がある。未亡人である秋子とその娘アヤ子が友人の七回忌に現れる。婚期を迎えた美しき女性アヤ子を前に男たちは、お見合いを手配しようとするが、彼女はのらりくらりと回避していく。母親が「結婚しないのか」と訊けば、「まだしたくない」と返す。そんな彼女の本心など気にすることなく男たちは、勝手に母親が未亡人であることがアヤ子を結婚から遠ざけていると解釈し、秋子に縁談を持ちかけようとするのだ。

 本作は、小津安二郎特有の襖や柱をフレームのように扱い、人を収めていく様式美の中描かれる。すべての登場人物はにこやかに対話を重ねていく。それがどこかねっとりとしており、息苦しさを感じる。ここに生涯独身を貫いた小津安二郎自身の葛藤が滲んでいるといえる。土足で、他者のことを考えているようで娯楽のように消費していく者たちを苦々しく思いながら交わしていく痛々しさがある。『秋日和』の場合、結婚の前にあるはずである「恋愛」が存在せず、より一層グロテスクなものに思えるのだ。

 さて、2020年代、コロナ禍の時代。現実における「恋愛」への眼差しのグロテスクさは変容してきたように思える。職場にて「いつ結婚するの?」「若者よ、少子化になるから恋愛した方が良い」と語っていた者がある時期から、しょんぼり「今って、そういうこというとハラスメントになるんだよね」「もう少子化って止められないんだよね」と吐露するようになってきたのだ。また、「恋愛や結婚ってコスパ悪いよね。だから私はしません。」といった宣言を社内でする人も増えてきたように思える。家族ですら「あなたが幸せに生きていればそれでよい」と語るようになってきて時代の変化を感じる。なにがそのような変化をもたらしたのだろうか?

 ひとつとして、コンプライアンス意識が社会の中で共有され、他者との距離感がシビアにジャッジされる時代になったからであろう。それにより「恋愛」というプロセスを第三者が干渉する行為はタブーとなってきたといえる。

 ふたつめに、コロナ禍以降、社会は絶望的な方向へ転がり、厭世的諦観が広まっていったことがあるだろう。日本が大変だから海外へ移住すればよいか?といわれたらそうでもない。海外も恐ろしいほどのインフレで苦しめられている。また、新型コロナウイルスはもちろん、戦争や生成AIによる実存の危機が国際的な問題として共有され、少子化ですらどの国も克服できない問題として立ちふさがっている。その中で、諦めの空気感が醸造されていったともいえる。

 現代の価値観の中でそもそも「恋愛」が終わりつつあるコンテンツになっているといえるのかもしれない。個人的には、「恋愛」といった人と人との強い結びつきの時代は終わりを迎え、コミュニティという緩いつながりの共同体が重要な時代となりつつあるのかなと思うのであった。

 

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