「高プロ容認」というピントずれ

連合の「高プロ」容認は誤解というニュース。
そもそも容認という言葉にこの議論の不健全性が見える。
面子や票計算の文脈主導で議論が進んでいる。
大事な問題なので、とっとと諦めてほしい。

先日、遠洋漁業の漁師の話を聞いた。
海に出て、半年帰って来ないこともあるという。
魚が獲れなければ、何時間稼働しようがお金はもらえない。

人類が携わってきた多くの仕事は、時間管理という考え方が馴染まない。
世の中にあるほとんどの仕事は基本的に「高プロ」であり、時間管理の方が馴染む特殊な仕事を指定していくとした方がずっと自然だ。

自分の仕事が「高度」のプロフェッショナルと定義されないことで、やる気や生産性が向上する機会を逃していることになぜ目が向かないのだろう。

組織論の世界では、管理や性悪説を前提にした運営から、自律や性善説を前提とした大人扱いの運営が主流になってきている。
自律や性善説から最も遠いところに在る労組という機能をもう世の中は必要としていない。

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