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『当たり前』が『特別』になった世界で考えること

 その日の夜、私はキングダムの三週目を終え、高揚感と少しの刹那感(寂しさにも近い)を覚えていた。命とはいつどのように消えるのか分からない。歴史に名前を遺して死ぬこともあれば、自分が死んだかすら理解できないまま潰えることもある。

 ふと、(そういえば私も、そうなのだな)と久しぶりに思い出した。当たり前のように今が続くと感じている中、明日目が覚めない可能性だってある。自分は大丈夫なんてことは、全くない。
 横に眠っている二人の子どものこれからの人生で、私の与り知らない世界ができるであろうこと。恐らく、岡山に住む両親に万が一何かあったとしても、すぐには会えないということ。私のその時はどうか、パートナーと最後にした会話が喧嘩ではないようにしたいなという稚拙な希望。そのようなことが浮かんでは消え、少し泣き、いつの間にか寝てしまっていた。

 言ってしまえば至極当たり前のことなのに、私たちはその事実に向き合わない意思決定をすることが、圧倒的に多い。遂には忘れていることだってある。忙しさや、疲れ、苛立ち、あるいは温かさ故に、その事実を隅に置いてしまう。普段なら。

 しかし、実際今まさに、今まで簡単にできていたことや当たり前だったことが、特別な世界になりつつある。死ぬことに限らず、諸行無常とはよく言ったもので、永続するものは、この世界にほぼないことが証明されている。普通のこと、変わらないだろうと思っていたことが、変わらざるを得ない状態になっている。
 このような局面になって初めて、私たちは今までの尊さを知ったり、思い返したりしている。

 ただ、私はそれでも良いとも思う。いつも特別のことを想定していては、人間の脳味噌はパンクしてしまうから。思い返してセンチメンタルになるのは、偶にで良いのだ。

 今は、大きな危機が個人レベルでも国レベルでも、世界レベルでも見えてきていて、それこそ今日明日を考えての意思決定が一時的には増えてしまうだろう。
 少しの混乱を抜ければ、このような状態だからこそ、尊く感じられることもきっと増えるだろう。今日明日ではなく、その尊さのための意思決定をすることだってきっとできるようになる。
 何年かかるか分からないけれどそのうちに、再び今の『当たり前』は『特別』になる。あの時は大変だったねえと、家族とワハハと話す未来がある。そう考えながら、また一日一日を過ごしていく。

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