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不良の時代・オタクの時代・アイドルの時代」

最近「不良の時代」「オタクの時代」「アイドルの時代」という三つの時代の循環説を唱えている。90年代末期は不良がかっこいい時代だった、ヒップホップが流行してカラーギャングと呼ばれる半グレが勃興した時代だった、大麻が蔓延してアウトローもかっこよかった。それが0年代になると秋葉原が街として急にクローズアップされるようになり、ギャルゲーが流行、コミケやアニメは日本の誇るカルチャーのように喧伝されるようになった。最先端のファッションもステューシーやシュプリームのようなストリートカルチャーからマルジェラやヴィヴィアンのような内向的なモード・ゴス・パンクへと志向を変えていった。10年代になるとSNSの隆盛と共に秋元康が復権し、アイドルがカルチャーの中心に君臨するようになる。ファッションもファストファッションの勃興と共に、ミリマリズム的な潮流を受けながら清潔感を重視するノームコアが流行する。「無印・ユニクロ」的な白い洗いざらしのリネンシャツに象徴されるこのファッションは、実は「穢れのないこと」を徹底的に志向するアイドルの思想の変奏である。しかしこの思想も20年代に入ると共に再び「不良の時代」と入れ替わり、ヒップホップやアウトローが跋扈するようになる。

このような時代転換が起こるのは恐らく、カルチャーが常にその臨界点においてエクストリームさを求める余り自らの性質を否定するようなのものを志向してしまうことによるのではないかと思われる。

たとえば「不良」のカルチャーが極限まで進んで「一番ヤバい不良は何か」って話になった時に、初めは「暴走族のリーダーだった」とか、「300対1のケンカで絶対退かなかった」かいったいかにも不良らしい暴力のエピソードが披露されるわけだが、それに皆が飽きてくると、今度は「内向的」で「何を考えているのかよくわからない不良」が一番ヤバい、という話になってくるのは如何にもありそうな話ではなかろうか。なぜなら「内向性」は不良の基本的性質から一番掛け離れた性質であって、「不良の時代」が行きすぎて、誰もが少し「不良ぶっている」の世界の中では「内向性」が一番エクストリームなものに見えてくるからだ。

こうして「内向性」がカルチャーの先端になってくると、誰もが「ヤバい内面」があるかのように振る舞う「オタク」の時代が始まる。しかしこれも大衆化が行きすぎて「誰もが内面の狂気を披露する」世界になってゆくと今度は「内面のない」やつが一番ヤバいという話になってくる。アイドルの誕生である。

しかしこの「内面のなさ」も大衆化してきて誰もがちょっとアイドル、というような世の中になってくると、みな次第に刺激が欲しくなってきて、よりエクストリームなアイドルとして、「風呂に1ヶ月入らない不潔なアイドル」とか、「少年院にずっと入ってたアウトローアイドル」というようなある種の「暴力性」が重視されるようになる。こうして「不良の時代」が始まり循環が一巡するといった仕組みである。

もちろんこれは試論だし論理的に弱い部分もたくさんある気がするんだけれども、とりあえずもうすぐまた内面の狂気を重視するような時代がやってくるんじゃないかと思っている。

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いくつか思いつくことがあるので補足。多分NIRVANAとカートコバーンというのは不良(暴力)の時代の臨界点でありオタク(内向)の時代の始原なんだと思う、現代のラッパーが皆その極点においてついカートを参照してしまうのもそれが原因なんじゃないだろうか(LilPeep, XXXTentacion, Kohh)。

そしてNIRVANA以降、ロックはどんどん内向性を強めていって、暗い歌詞、リズムの複雑(=内向)さ、多重エフェクターによるエレキギターのキーボード化(デジタルサウンド化)などRadiohead的な「vulnerability(=脆弱さ)」を徹底して求めていくうちに、最終的に内面のヴァルネラルさなどみんなどうでも良くなって、分かりやすく見た目が白くてガリガリのまるで少女のような姿をロッカーに求めるようになり、とうとう最後は本物の少女(=アイドル)にたどり着いてしまった、と。

そういう意味で少女(アイドル)に求められるのは、内面が空虚であればあるほど良く、またその一方で言動(=外面)はどんどん過激さを消費していくということになる。そういえばこの過激で空虚なアイドルという姿は、90年代ヒップホップの隆盛前夜のヴィジュアル系ブームを思い出させる。V系の歌詞には内面はなく過激さだけがある。そして過激さだけを追求すればその行き着く先はやはり暴力なのである。オタクの内面の狂気が、不良の想像力を追い越すまでは。

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