前頭二枚目? 箱根芦之湯の謎
箱根温泉郷、最近は外国人の方も戻って来まして、繁盛しております。
しかし、その中でも、日本人もほとんど立ち寄らない「芦之湯」。あまりにもひっそりと存在しているため、知らない人はここが温泉場だとも気がつかないかもしれません。本日はこちらの謎解き??
江戸時代から始まる「温泉番付」
さて、「温泉番付」というと、今ではこんな感じで某会社のものが出回っております。東で行き難いのは登別くらいで、基本上位に並んでくるのは、アクセスの良い、有名どころの温泉地ばかりです。人気投票すればそうならざるを得ないというところですが、この温泉番付、遡れば江戸時代後期に至ります。
江戸時代になり街道の整備が進み、お伊勢参り・○○詣でとか、湯治とかなんとか理由を付け、旅ができるようになり、人の往来も増えました。
寛政の時(1789-1801)あたりに初めて発行され、「諸国温泉功能鑑」なるものが現存で最古の番付です。ランキング好きな日本人は昔からです。現存している最古のものは、1817年版で、下記のよう。行司には、徳川にゆかりのある熱海や紀州のお湯、勧進元には熊野の名が入り、権威付けの要素が見られ、口コミランキングとはまた違うランキングなのでした。
ここで、東日本の上位に目を向けると、有名どころもあれば、んっ?!という温泉地もあるのです。
大関:上州 草津の湯
関脇:野州 那須の湯
小結:信州 諏訪の湯
前頭:豆州 湯河原の湯
前頭:相州 足の湯(←こちらが、箱根の「芦之湯」)
前頭:陸奥 嶽の湯 (青森、嶽温泉)
前頭 :上州 湯川尾の湯(伊香保)
前頭:仙台 成子の湯 (鳴子温泉郷)
前頭:最上 高湯の泉(蔵王)
前頭:武州 小河内原の湯
(今は小河内ダムの底に沈んだ温泉場、鶴の湯温泉となる)
ここで、上位には今もそれなりに有名どころが並び、鄙びた温泉場、消えてしまった温泉もあるのですが、常々気になっていたのは前頭の二番目にこの「芦の湯」。なぜ、あの「芦の湯」がココなのか…。
箱根七湯
箱根の歴史は古く、湯本は奈良時代あたりにはもう温泉の記録があるようで、箱根七湯が下記の図のように知られていました。明治くらいまではボーリングもないので、基本自然湧出の温泉で、早川沿いに温泉がほとんど、ただ一つ「芦の湯」だけが、箱根のカルデラのほぼ中央に位置しています。ここには、強羅、大平台、仙石原とか今では名が知れている温泉名はありません。ちなみに、温泉番付での箱根温泉は、「芦の湯:前頭 二枚目」「湯本:前頭九枚目」「姥子:前頭二十二枚目」の3つです。
「番付」の評価基準はなんだったのか??
モノでも、人でも、評価するには、「基準」と「評価する人」の二つが無ければ、評価はできません。今から200年以上前の温泉番付の評価基準として考えられるのはタイトルにある通り、最優先は「効能」でしょう。
ただ効能というのも、何とも曖昧さがあります、分かりやすいのは「皮膚病や傷が治る」で、おそらくこれはかなり大事なポイントだったと推測。そのほか効能面で考えてみると「難病が治る」「目が見えようになる」という実際の効果や、「伝説」、噂?は大事だったのではないか。
また、別の面からは「食の恵み」「人通りが多い」「アクセスが良い」「風光明媚」とかも考えられます。
そう、「芦の湯」国道一号線沿いじゃないかとも思いましたが、よくよく考えれば、江戸時代は湯本から旧街道を登って、芦ノ湖に抜けるので、芦の湯は東海道の通り道ではないのです。(上図の旧東海道)
と「うんちく話」が先行してもアレなので、実際の「足の湯」へGO!!
芦の湯の宿「きのくにや」
芦の湯の観光協会のHPによれば、芦の湯は鎌倉時代後期には湯が沸いていたという記録があり、これは湯本に次ぐ歴史であり、江戸時代には6軒の湯宿があり、いずれも内湯はなく、総湯つまり外湯・共同浴場だったのでした。
まず、訪ねたいのは「きのくにや」。
館内は落ち着いたロビーから始まり、かつて使われていた配膳の品なども展示されています。
またお風呂に通じる脇の一角には、美術回廊「一峰舎」なるものがあり、代々きのくにや主人が集めたコレクションが展示。西郷さんの掛け軸や中国で作られた青い天目茶碗(初めて見た!)なども展示。さすが歴史の宿です。
こちら日帰り温泉として入れるのは、内湯と露天風呂の二か所。しかも二つは泉質が異なるので、お得感?あり。
硫黄泉ですが、ほぼ中性というお湯で、うすい白濁&黄緑色に硫黄の香りはやはり温泉浸かった!感あります。
この「正徳の湯」外観は下記のように一段低い所に湯屋があります。
芦之湯をぶらり散歩で思索
正徳の湯の横から細い階段を少し登っていくと、こちら何の変哲もない茅葺の小屋ですが、こちら「東光庵」という社(復元)。小さな熊野権現の境内にありますが、ここに江戸時代には文人が集い、句会や茶会などを興じたという。歌川広重も足を運んでおり、やはり当時の著名人?にも名が知れていたことが分かります。
松坂屋本店の前には、「阿字が池」。この地域一帯、昔は葦が多い湿地で、「あしのうみ」と呼ばれており、江戸時代に入ってから干拓が始まり、温泉場が出来たと説明があります。ということは、温泉自体は古いが、温泉場が出来て、人が沢山泊まれるようになったのは江戸時代からのようです。
歩いているうちに思い出したのが、芦之湯の入口にあった「箱根新道の碑」。現在、箱根新道といえば、湯本と芦ノ湖を直結する自動車専用道路ですが、この碑は、宮ノ下から芦ノ湖までを先ほどの「松坂屋」の先代が明治期なって新しく道路を作ったことを記念したものでした。
しかし、もっと時代を遡ればもう一つ大切な道がありました。この場所から数百m、反対側に歩けば、湯坂路という江戸時代前までは頻繁に使われていた道があります。この道は湯本の北側から急な尾根伝いを往く道で、そのままこの芦之湯付近に繋がるのでした。
なので、江戸時代以前から人の往来はそれなりに、あったことはあった。
散歩で分かったのは…、
・江戸時代の文化人には知られており、芦之湯の全国的認知度は高かった。
・もともと湿地の故、硫黄泉が少し掘れば、自然湧出の暖かい湯が出た可能性が高い(「正徳の湯」からの推測)
・箱根の中ではここしかない自然湧出の「硫黄泉」(しかも、江戸から最も近い硫黄泉)
・人の往来は、江戸時代以前からもそれなりにあり、アクセスも悪くなく、知名度は関東近辺、東海道の一般人にもあったのではないか、などなど。
とまぁ、「ほとんど仮説」の域を出ない…
「山形屋」
ところで、もう一軒、芦之湯で日帰り温泉に浸かれる宿がこの山形屋。もう名前からして、古そうですが、今は宿泊はできないようです。しかし、500円で浸かれるというのは魅力的です。
シャワーのお湯も水も出ないという状況で他のお客さんは参ってましたが、故障してたのか、冬場は水が少ないのか!?
こちらはきのくにやとは明らかに違う源泉です。芦之湯内に源泉が見れるところはあるのかと、調べてみましたが、一般人が入れるようなところはなさそう。しかし、きのくにやで見た湯の花沢というところは見れるのかと、さらに山を登ってみました。
こんなところは誰も歩かないだろうというところで、たまに行き交う車。しばらくすると、シューシューという音が遠くから聞こえてきます。
雲に隠れた山は箱根のカルデラの中央の「駒ケ岳」。芦ノ湖から見るとちょうど裏側にあたります。ここに「大涌谷」のような噴煙を上げる一帯があるのは知らなかった!
芦之湯付近の国道一号線からは、ちょうど山に隠れて見えないのです。
芦之湯から直線距離で1km強、江戸時代にここから引湯はできなかったかもしれないですが、可能性はゼロではないです。少なくとも地熱の高さはありそうなので、やはり芦之湯の自噴泉はそれなりにあったと推測します。
ということで、謎解きまでは行きませんでしたが、この光景を見れて満足。芦之湯の番付もそれなりの納得感出てきたと、ほぼ自己完結。
雨が激しくなり、寒さも増して、今日はここまで。
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