見出し画像

⑫22歳年上の彼は、娘の後を追うかのように自殺した。知る術もないことを、どうにか知ることはできないかと途方にくれることが何度もある。

私は10代の頃、集団レ〇プされた。自殺未遂を繰り返していた。搬送先の病院はたいてい同じ。気づいたら救命救急の医師と交際していた。22歳も年上だった。私は、彼の愛で再生していく。彼は私の人生において、最大の恩人であり、最愛の人。私は彼のことが忘れられない。特に、彼との夜を。私にとってはリハビリだった。
彼は、子育てがリハビリ完了のきっかけになると考えたようだ。彼は、しれっと笑顔で私を妊娠させた。私は20歳で出産した。でも、娘は肺炎で入院し、同意のない治療で窒息死した。

娘が亡くなってから、いつの間にか22歳年上の彼と一緒に住んでいた。彼は既婚者だった。自分の家庭に帰らなくていいのだろうか? そのことに私が気が付いたのは、かなり後になってからだった。 そして、あたりまえだけど、彼も悲嘆していたはずだ。当時、私はそのことに気づいてあげられなかった。いつも笑顔だった彼が長い時間、笑っていなかったことに気づいたのも、かなり後になってからだった。 私は娘を失い悲嘆していた。私は自分が抱えた悲嘆をどうにかするのが精一杯で、彼の悲嘆に気づいてあげられなかった。彼だって私と同じように悲しいに決まっていた。なのに、私は彼に甘えてばかりで、彼を支えてあげられなかった。私は自分が嫌い。

娘を亡くし、その背景も知り、私はショックのあまり、たこつぼ心筋症を患った。退院後も、気持ちは混乱していて、時間の経過もよく分からない。いったい何をして過ごしていたのか?  何ヶ月、そんな生活をしたのか、あまり思い出せない。喪失感がすさまじくて、思考が停止していた。
でも、そんな日々の中でも、娘の死を少しでも無駄にしたくないと思い始めた。医療過誤専門の弁護士にも相談したが、結局、裁判には踏み切れなかった。

このままでは娘があまりにも不憫だ。

私は医療従事者になるべく、受験勉強に励んだ。彼も個別指導の教師かのように受験勉強につきあってくれた。私は、受験に合格した頃、不意に思い出した。
「ねぇ。家に帰らなくていいの?」
「離婚しようと思ってる。でも、なかなか別れてもらえなくてね」 「・・・・!」
「愛と一緒に暮らしたい」
驚いた。何と言っていいのか分からなかった。私だけのことを考えれば、それは、これ以上ないっていうぐらい嬉しいことだった。でも・・・。私なんかには、もったいないぐらい彼には良くしてもらった。恩返しをしたくても、絶対返せないほどだった。 なのに、さらに彼のご家庭を壊してしまうなんて。離婚したら、彼の奥様やお子さんたちは、どうなってしまうの?と思った。気がついたら彼と一緒に住んでいて、本当は、もうとっくに壊していたのかもしれなかった。今さら遅かったかもしれないけど。彼は
「彼女も医者だから別れても、何とかなるよ」
と言ってくれた。でも、奥様も別れたいとおっしゃるならまだしも、そうじゃないなら、彼は自宅に帰るべきなのではないかと思った。それは私にとっては切ないことだったけど、以前のように彼が通ってくる、そういう日々に戻るだけだ、という気もした。 でも、そんな考えは、浅はかで烏滸がましかったのかもしれない。そして彼の気持ちを、ちゃんと察することができていなかったと思う。
娘を亡くしたことや悲嘆していることなんて、彼が自分の家庭で話せる訳がないのだから。彼の悲嘆を聴いてあげれるのは、私しかいなかったはずなのに。
「私も、一緒に暮らせたら、これ以上ないってぐらい嬉しいよ。でも、ご家庭を壊す訳にはいかないよ」
と彼の申し出を断った。彼が、とても悲しくて寂しそうな顔をした。私も切なかった。本当は、彼とずっと一緒に暮らしたかった。

あの時、私はどうすれば良かったんだろう・・・。

離婚の話は平行線のまま進まず、別れることを彼は諦めたみたいだった。私は、切なかったけど、少しホッとしていた気もする。彼が私のいる場所に、通うスタイルに戻っただけかのように見えた。 でも、そうじゃなかった・・・。
ある時、彼と突然、連絡がとれなくなった。彼は今、どこで何をしているのだろう? 私には知る術がなくて、仕方なく彼の勤務先に行ってみた。
「自殺した」
そう聞こえた。理解できなかった。 自殺した・・・? どうして・・・?

私は、彼のお葬式には参列できなかった。愛人が参列する訳にはいかなかった。とても悲しかった。
娘の遺骨は、四十九日のタイミングでは納骨できず、しばらく手元に置いていた。少しでも娘を近くに感じたかった。でも、彼と相談して京都の東本願寺に永代供養として納骨した。管理する人がいないから、あえて個人のお墓はつくらなかった。
彼の遺骨は、どうなったのだろうか? せめて、お墓参りをしたかったけど、それも叶わなかった。

私と彼の関係を唯一知っていた彼の同僚が、話しにくいことを親切に教えてくれた。
「あいつ、人が良すぎなんだよ。馬鹿正直に『好きな人が出来たから別れてほしい』って言っちゃったみたいなんだよ。そしたら奥さんも意地になって。『離婚したら愛人が幸せになるってことだよね。そんなの許せない』ってなったみたいで。でも、奥さんだって、もうとっくに夫婦関係が破綻してたのなんて、分かってたはずだよ。愛ちゃんと、どうこうなる前から仮面夫婦だったんだから。『そんな女の子供なんて、死んで良かった』とか言われて、かなり精神的にまいったみたい。」
私は、それを聞いて、やっと気づいた。彼から、あの満面の笑みが消えていたことを。なんてことだろう。 涙が・・・涙が、止まらなかった。娘を亡くしたときのように、動悸がした。手足が震え、まともに呼吸ができなかった。

ごめんなさい。気づいてあげられなくて、ごめんなさい。甘えてばかりで、支えてもらうばかりで、私は彼を支えてあげられなかった。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい・・・。ごめんなさい。ごめんなさい。涙が止まらない。

私は、あの時、どうすれば良かったんだろう。 彼が「一緒に暮らしたい」と言ってくれたとき、そうすれば良かったんだろうか。もう、すでに気づいたら一緒に住んでた訳だし。 私が、一緒に暮らすことを断ったから、死んでしまったの?

「とても辛いね。死んでしまえば楽なのに、とか思うよね。でも、自殺すると天国には行けないんだよ。地獄に落ちるんだよ。もっと苦しむことになるんだよ。自殺したら天国のソラ(娘)に会えなくなるから、辛いけど生きていこうね」
彼がそう教えてくれたのに。 彼は、地獄に落ちてしまったの? 彼は、天国にはいないの? 私は、どちらに行けばいいの? 天国の娘にも、地獄の彼にも、会いたいよ。
1番、罪深いのは私だよ。集団レ〇プされたとき、私が1人で死ねばよかったんだよ。 そうすれば、娘も彼も、死ななくて済んだのに。私は、何で生きてるの!!!

知る術もないことを、どうにか知ることはできないかと途方にくれることが何度もある。 「彼は、どうして自殺してしまったの?」と。

彼が自殺したとき、奥様宛と私宛の遺書があったらしい。でも当時、若かった奥様は、私宛の遺書は読まずに捨ててしまった。彼は、いつも笑顔で用意周到な人だった。私の手に確実に遺書を残す方法を、考えることができないほど、追い詰められていたんだね。

私は20歳で彼の赤ちゃんを産んだけど、生後15日で医療ミスで亡くなった。妊娠は、私が望んだわけではなかった。彼は、子育てがリハビリ完了のきっかけになると考えたようだった。私名義のマンションを用意するために、逆算して妊娠させた。 本当は、離婚して私と娘と3人で暮らしたかったみたい。でも奥様が断固拒否され離婚はできなかったよう。私も、本音では3人で暮らせたら、どんなにいいかと思ったけど、彼には良くしすぎるぐらい、良くしてもらってた。私に、そこまでしてもらえる価値があるとは思えなかった。だから「自分の家庭に帰るべきだ」と言ってしまった。 当時、若くて気性の荒かった奥様は医師でありながら「不倫相手の子どもなんて死んで良かった」とか彼に酷いことを、たくさん言ったらしい。

彼は救命救急の凄腕の医師だった。でも、娘の命を救えなくて1人で苦しんでいたのかもしれない。 彼は、私のことを幸せにしたかったに違いない。
なのに望まぬ妊娠をさせた。私に、娘を失う喪失感を与えてしまった。まったくもって彼のせいではないのに、1人で、そんなふうに自分を責めたのかもしれない。

私は、娘を亡くした悲しみや、苦しみを抱える自分に手いっぱいで、彼の苦しみに気づいてあげられなかった。彼が家庭に帰って、娘を亡くした悲しみや苦しみを話せるはずがなかった。私しか気持ちを共有できる相手はいなかったはず。
彼はいつも笑ってる人だったのに、娘が亡くなってから、彼から笑顔が消えていたことに、気づいてあげられなかった。気づいたのは、彼が自殺した後だった。 涙が・・・止まらない。 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい・・・。 私は彼に、これ以上ないってぐらい愛してもらったのに。私は、いつも彼に甘えてばかりだった。私は彼に、何もしてあげられなかった。

私の彼に対する愛は、あまりにも浅はかで、幼かった。

彼が自殺したのは20年以上前。何度も、何度も、同じことがよぎる。彼が自殺したのは、私のせい。私は最低。ずっとそう思いながら生きてきた。



もし記事を気に入っていただけたら、サポートしていただけると嬉しいです。大切に活動費に使わせていただきます。